「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー」シリーズなどの監督を務めた監督ジェームズ・ガンが、過去の差別的なツイートによってディズニーから解雇された。
例によってネット上ではかなり論争を巻き起こしていて、リベラルやらポリコレやら、様々な意見が飛び交っている。
承知の通り、「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー」はジェームズ・ガンだからこそ成り立ったといえる奇跡的なバランスの映画なのである。
軽快なテンポの会話、音楽のセンス、演出など、どれひとつ欠けても成り立たない映画なのだ。
そうしたこともあり、ネットでは監督復帰を求める署名活動が起こっている。
僕自身もかなり憤りがあったのだが、この話題は言葉ひとつ間違えられないくらいかなり繊細な問題なのだ。
しかし、ここで自分なりに思いを残しておかなければ「確かに動いた心をなかったことにしてしまうのが、自分の心に失礼だと思うから」。
なので、「多様性とは」という1点だけに絞りここに記しておく。
少し長くなったが、最後まで読んでいただければ幸いです。
多様性とは
近年、ディズニーはありとあらゆる人種や性差別について配慮した作品づくりをしている。
人種については映画「ポカホンタス」辺りから、明確に有色人種に対しての配慮が現れるようになった。
ウォルト・ディズニーが人種差別主義者であったことは有名なエピソードだ。
それがあったからこそ、ディズニーは人種差別に対する配慮を意識し、映画に取り込み始めた。
そのことについて、何一つ問題はない。
しかし、近年になりディズニーは差別に対して”過剰に”意識しすぎているのでは、と叫ばれ始めてきた。
それが顕著になったのが「スターウォーズ」シリーズに関するものである。
僕はディズニーのスターウォーズにお金を落としたくない主義(?)として生きているので、エピソード8は観ていないけれど、その評判は耳に入ってきた。たとえば監督のライアン・ジョンソンやローズ役のケリー・マリー・トランに対して人種問題に発展し、投稿を削除するという事態になった。。
しばしば意見は見かけてはいたが、この辺りでかなり議論がヒートアップしたように思う。それはエピソード8の不評からくる怒りなのかもしれないが、その辺は見てない僕には分からない。
とりあえず言えることは、攻撃的なことをした奴らが間違いなく一番悪いということだけだが。
差別はなくならなくてはならない、そして多様性は尊重されなくてはならない。
それは紛れも無い事実なのだけど、今のディズニーにとってエンターテイメントがそれを主張する「手段」となっていないだろうか。
まさに「目的と手段」の話になってしまうんだけど、そこが入れ替わってないだろうか。
人として当然の権利を主張するための作品は当然あってもいい、それと同時にそうでない作品もあっても構わない。
それこそが本来の多様性ってやつではないのだろうか。
FOXの買収の話で、僕が一番懸念していることが、制作会社のカラーがなくなり、買収されるたびにディズニーのカラーに染まっていくということだ。
ジェームズ・ガンの件に戻るが、当然ガン監督がしたツイート内容は赦されないものだ。
しかし、後に本人が謝罪をしている。
それが赦されないのであれば、聖人君子しか映画を創ることはできないのだろうか。
ディズニーで過ちを過去に一度もおかしてない者だけが石を投げられないのだろうか。
「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー」だって、多様性の尊重、男女平等、人は変われるということ、過去を悔い改められることなどのメッセージが込められている。
そして、その誰もが多かれ少なかれ持っている差別や偏見を認め、過ちを認めることの大切さを訴えた作品こそ、ディズニーの「ズートピア」という作品ではなかったのか。
「ズートピア」のメッセージ
では、なぜここまで僕は怒っているのかというと、という話を書こう。
それは、ここ数年で一番感動させられたディズニー作品である「ズートピア」のメッセージを、ディズニー自身が踏みにじったからである。
「ズートピア」については、説明はいらないだろう。
説明が要るという方は、すまん、観ろ。
「ズートピア」は動物たちが築く社会での差別と偏見を、全世界の万人向けに落とし込んだという奇跡みたいな作品だ。
何より重要なことは、この作品が「差別はいけません」というメッセージだけで終わらない、更に深いところまで刺さるところにある。それが、
「差別や偏見は誰しもが持ってしまうもの。しかしそれを認めた上で相手としっかり向き合うことが、真の信頼と理解に繋がる」
というメッセージだ。恐ろしいほど大人な回答である。
それと同時に、
「過ちを認めること、それを赦すことの大切さ」
までも詰め込んでいる。そしてそれを大人でも子どもでもそのメッセージが伝わり、尚且つエンターテイメントとして最上級の仕上がりにしていまっている、というある種、化け物のような作品なのだ。
映画の中で主人公のうさぎのジュディは警官になるが、様々な偏見や差別を受ける。それを乗り越えるだけでも、十分メッセージとなるが、それだけでは先にも書いたように「差別はいけません」というところで止まってしまう。
更にそこから先に行くためにジュディ自身も「偏見や差別の心を持っている」ということを正面から描く。
キツネのニックに対する差別的な発言によって、2人の仲は裂かれる。
そして、ジュディが過ちに気付き、ニックに心からの謝罪をするシーン、そこに圧倒的な感動が宿る。
過ちを認め、それを赦すことで生まれる信頼。
ウォルト・ディズニーの人種差別主義を認め、多様性を尊重したディズニー。
過去のツイートを謝罪してなお断罪されたジェームズ・ガンをどう見ればいいのだろう。
その「ズートピア」のメッセージを見て感動した僕はどうすればいいのだろう。
誰か、教えてくれ。
もう二度とジェームズ・ガン監督の「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー3」は観ることはできない。
その事実を僕は、ただ悲しく思う。
「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー3」が観たいんじゃない。
ジェームズ・ガン監督の「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー3」が観たかったんだ。
喪失である。
でもね
でも、ここまで書いたけど、ディズニーの主張だって分からないことじゃないんです。
以前、僕が本当に大好きだった海外のバンドがいて、そのバンドのヴォーカルがある犯罪で捕まった。
罪状を書きたくないし、本当は思い出したくないほど酷い罪状で、今でも許せないし、そのバンドの音楽はずっと聴けていない。
これが「信頼を裏切る」ということ。
そして「ファンを裏切る」ということ。
たとえ本人がどれだけ謝罪しようと、僕は絶対許せない。
だから、僕だって十分ダブルスタンダードの、卑怯者だ。
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