2023年2月16日木曜日

"サウダージ” の主人公に未練は残っていないのか?



ここのところで急に"サウダージ"の歌詞が話題になっていた。

僕はホグワーツで真面目な学業と、ホグズミードで人様の家に勝手に入って金銭や衣服を強奪することに追われていたので、ちょっと後追いで知った。

発端はCDTVのラブソング特集に"サウダージ"が取り上げられたことで、そこで街角の声に「未練ない感じがいい」という類のコメントがあったことに起因する。

僕のTLでは過激派の方々が熱く意見を交わしていた。

僕もTwitterで書こうかと思ったけど、ちょっとツイートだけだと誤解を招きそうなのでこちらに書く。といっても早くアバダ ケダブラの撃ち放題をしたいので、そんなに長くは書きません。




サウダージの行間





結論から書こう。

僕は「未練がなくていい」という意見は正しいと思う。

ただ、その「正しい」はあくまでもコメントを寄せた人の中にある"サウダージ"の形としてである。

僕自身はこのコメントとは異なる解釈を持っているが、それもまた「僕の中にある"サウダージ"像」に過ぎないということだ。

今回の「未練がなくていい」というコメントについて、僕はすごく興味深いと思っていて、改めて"サウダージ"の歌詞を見返した。

結果、自分にはなかった視点だったので考えたことがなかったが、実は"サウダージ"を「未練がなくていい」と受け取ることもできるのでは、と思えたのだ。

補足がいると思うので、少し説明させてもらいたい。

当然ながら"サウダージ"は「あの人に伝えて 寂しい…大丈夫…寂しい」という名フレーズに代表されるように、ほぼ全編で強い未練を歌っている。

主人公に未練があることは間違いない。

しかしながら曲を最後まで聴いたとき、そこにいる主人公の姿をどのようにイメージするかで、解釈に余地があるのではないだろうか。
具体的にいうと、次の2つが想像できる。


・主人公は未練を抱えたまま生きていく決意をした
・主人公は未練を乗り越えて生きていく決意をした


どちらを想像するかで、"サウダージ"の印象はだいぶ変わらないだろうか。

曲を聴いた人の多くが想像するであろうに、"サウダージ"の主人公は凛とした強き女性像だと思う。
だからこそ、この曲で語られる未練と垣間見る弱さに、僕らは強く心を動かされるのだ。

仮に後者の心情であったならば、悲しみを超えた姿が、とても凛々しいものに見えるはずだ。

そうするとラストの転調が絶妙に効果的で、まさに再び一歩を踏み出す姿に重なるようになっていて、更にそこで紡がれる言葉がまた違う意味を持つ。

あなたのそばでは 永遠を確かに感じたから

ここの「から」が全てを受け入れた決意でもあるようにも見えないだろうか。


これは今回の言葉から僕が勝手に妄想を脹らませた結果だが、多少かなり強引ではあるけど、そう捉えることもできなくはないと思えた。

これだけ様々な解釈が生まれるほど、"サウダージ"は魅力的な楽曲で、受け継がれていくマスターピースなのだ。

ということで、この話題に感じたことを残しておく。








なんか、嬉しかった話




そしてもう1つ、歌詞を読み解くうえで大切なことがある。

それは共感性だ。

音楽、とりわけ歌詞の聴き方は大雑把に分けると2つある。


・歌詞に出てくる登場人物のキャラクターを想像して聴く
・歌詞に出てくる登場人物に自分を重ねて聴く


特に失恋ソングというジャンルであるなら、後者の気持ちで聴く人も多いかと思う。
もちろん、必ずどちらかという訳でもなくて、その時の気持ちでどちらかに心が変わったり、そもそも何も心を重ねないという人もいるだろう。

曲のキャラクターの心情に自分の心情を重ねるときって、「自分が同じ立場だったらこう思う」と想像している部分もあるはずだ。

世の中には失恋に対して未練を抱える人もいれば、特に未練はないという人もいる。

0か100かではなくて、その間には無数のグラデーションがある。

だとすると中には「未練を受け入れ、それでも乗り越えた」という女性もいるのではないか。

それを「未練たらたら」と呼ぶこともできる。しかし僕は決して他人が決められることではないと思う。
それを未練を吹っ切った強き女性と捉えることを、僕は間違ってはいないと思う。

そうした解釈を巡る意見を踏まえたならば僕は、意外かもしれないが、「未練がなくていい」というコメントについて、むしろ嬉しいという感情さえ浮かんだ。

たぶん普通に暮らしていたら僕にこんな解釈は浮かばなかったからだ。

そもそも、このブログは「自分はこう思うけど、あなたはどう思いますか?」と問いたくて運営している側面もある。

それに僕は一時期「”サボテン"は本当に失恋ソングなのか」という疑問を抱いていていたことがあるくらいなので、そもそも人のことを言えない。

自分の価値観が絶対的に正しいとは思わないし、むしろ、歪んだ愛情を言葉に換えてきたのが、このブログだ。

それはひとえに、ポルノグラフィティの優しさがそこにあるからだ。

何かというと。




ポルノグラフィティの魅力




ポルノグラフィティ、特に新藤晴一については「聴き手に解釈を委ねる」というスタンスを貫いている。

それが信頼できる要素ですし、僕もその言葉に全力で甘えて好き勝手に書いてきた。
たぶん訴えられたらギリ負ける。

ただ、新藤晴一という人は作詞者として、曲の歌詞にはほぼ必ず「作詞者の意図」を潜ませていると思う。これは「作詞した本人なりの正解」と読み替えてほしい。

しかしながらそれを「曲解釈の正解」とは呼ばない。

※もちろん詩人がたったひとひらの言の葉に込めた意味を尊重することも大切である

受け取った人の中で曲は育まれ、新しい顔を覗かせることもあって。

"愛が呼ぶほうへ"や"∠RECEIVER"なんかを思い浮かべればわかると思うが、時に時代や人によって創り手の意図を超え、曲が大きな意味を持つことがある。

行間を読むことは、人を思うことだ。

それが自分かもしれないし、他人かもしれない、或いは架空の登場人物かもしれない。


人と人は最後には決してわかり合えない。


"カメレオン・レンズ"でもこれに近しいことを言っているが、新藤晴一はそう歌詞で伝えてきたように思う。
もしかしたらそれは、自分の心もきっとそうなのではないだろうか。

しかしながら、それは欠陥でも欠落でもなくて、それこそが人間の魅力なのだ。

分かり合えないからこそ、人は人と繋がり続けている。

だから僕は色々な人の様々な解釈を読むのが好きだ。それが、自分の視野を広げてくれるのだから。

皆がみんな作詞者の意図を読み解く必要はない。いいよ、俺が勝手にやってるし。それに、たとえ読み解いたものが僕のそれと違うと思ったら、その解釈を大事にしてほしい。
それがその人にしかできない解釈なのだから。


ちょっと今回は無理矢理な擁護みたいになっちゃったけど、あまり1つの解釈に固執しすぎてもいけないなと、自分を戒めたくてこんな記事になりました。


おわりに。


日本語ってやっぱり難しくて、それだけにとても面白くて、同じ文面でも人によって全く捉え方が違う。

日本語の受け取り方としておかしい解釈はさておき、特に行間に関しては本人の考えや想いが強く反映してくるので、これもまさに"カメレオン・レンズ"のように人それぞれ見え方が違ってくる。

というか皆同じ価値観だったら評論なんていらないし、僕はこんなアホみたいに文章を書く必要もない。

そもそも自由な考察がなかったら、こんなこじつけ歌詞解釈を書いているどこぞのポンコツの存在価値などなくなるのだから。


おいでよサンタモニカ(instrumental)を歌詞がないのに歌詞解釈します


なに書いてんだこのポンコツは。


それにしても、これだけ聴いて読んでるはずなのに、改めて読み返した"サウダージ"の歌詞は、やはり打ちのめされるような化物だ。

音が届き、それぞれの人の形になって心に止まるから、"サウダージ"はこれだけ多くの人の胸を打つのだろう。

色んな解釈が生まれるくらい、世の中に”サウダージ”が浸透していることを喜ぼう。



ポルノグラフィティのサボテンは本当に失恋ソング?歌詞を今一度読みとく







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