2018年10月19日金曜日

沢田研二(ジュリー)のさいたまスーパーアリーナ公演中止騒動から見るアーティストとファン








沢田研二がさいたまスーパーアリーナでの公演が「契約上重大な問題が発生した為」という理由で公演直前で中止になるという事態が起こった。

本来なら当事者でない僕が語る資格ないのだが、今回はライヴが中止になること、というテーマは他人事ではすまされないため、この問題を考えてみたい。

でも結論は自分でも曖昧になってしまって、二言論では片付かない着地をするので、あらかじめご了承願いたい。






経緯




まず、概要を簡単に。


2018年10月17日にさいたまスーパー アリーナで行われる予定だった、歌手の沢田研二さんのコンサート「OLD GUYS ROCK」が開演当日、開演1時間前に急遽中止となることが発表された。

その理由は「動員の伸び悩み」である。

沢田研二はイベンターから9000人と訊いていたと語ったが、実際の動員は7000人であった。
リハーサル時に潰された客席(空席を隠すため)を見て、沢田研二は「意地」として中止を決意したという。

中止に伴う損害(会場費・人件費・チケット代返戻等)は約4000万円といわれている。

ここは補足しておきたいが、当然ながら運営側の損害のみである。
たとえ北海道から、沖縄から、海外から来ていたとしても、会場まで行ったファンの交通費も宿泊代も保障されない。


中止に対して沢田研二は「さいたまスーパーアリーナでやる実力がなかった。ファンに申し訳なく思ってます。責任は僕にあります。これから取り戻せるようにできるだけしていきたい」と前置きをしつつ、

「客席がスカスカの状態でやるのは酷なこと。『ライブをやるならいっぱいにしてくれ、無理なら断ってくれ』といつも言ってる。僕にも意地がある」


と語った。当初から動員数を懸念してプロモーターに掛け合っていたという。




アーティストとファン




今回の事件。それを、僕が責めることはできない。

なぜなら、僕は沢田研二でもファンでもない、ましてや中止の場にいた当事者ではないからだ。

アーティストとファンの関係というのは特殊なもので、アーティストの数だけファンはあるし、その関係は自分の知らない世界では、地球の裏側の出来事と等しい。

しかもこれだけのキャリアのあるからこそ、そこに歴史がある。
それは沢田研二とファンの間でしか分からないことなのだ。

たとえばGuns N' Rosesが当たり前のように2時間遅れでライヴを始めても、マゾに仕上げられたファンたちはそれを「またか」と笑顔で受け入れる。
ほとんど、DV夫を受け入れてしまう妻みたいな共依存関係だ


しかしながら、だからこそ知っていることもある。アーティストの数だけファンの形はある。だがそれ以上にファンの形は人の数だけある。

めざましテレビでもその場にいたファンの「ある意味それでこそ沢田研二と思う」と諦めをつけた声を取り上げていた。

それもアーティストとファンの形なのかもしれない。けれど、あの場に集まった7000人全員がそんな共依存に近い関係であるか、それは否ではないか。

もっとライトなファン層もいるだろうし、もしかしたら付き合いのために仕方なく時間を空けて来たという人もいる。

何が言いたいのかというと「◯◯だから仕方ない」という意見は、その1ファンの意見に過ぎないということだ。

ライヴは公演が行われている時間だけのものではない。そこには決定した瞬間から様々な人間たちの働きがあって、それがライヴという奇跡のような空間を生み出すのだ。

チケット代は戻っても、時間は決して戻らない。そして、これだけのキャリアがあるからこそ、本人もファンも年齢を重ねているからこそ、次の公演が必ずある保障なんてない。

それこそポール・マッカートニーやエリック・クラプトンを「これが最後かな」と毎年のように見に行くような気持ちだろう。










ライヴを中止するということ




なぜ今回、他者に過ぎない僕がこの出来事を取り上げて書いたのかというと、僕はライヴ中止ということに関しては当事者でもあるからだ。

話題は何度も取り上げてきたが、ポルノグラフィティの尾道市で開催したライヴ公演の2日目は、大雨の警報を受けて中止になった。

その場面を目の当たりにして、集まった観客たちのためになんとか開催できないか、そう願っていながらも警報が発令された瞬間に、中止せざるを得ないという状況になったポルノグラフィティの姿を見てしまっている。

だからといって沢田研二も同じ思いでいろということではない。僕は沢田研二の今回の騒動について、全て否定することはできない。

それこそが本当に僕が語る資格がないということにもなる。

それを最後に書こう。

「アーティスト」とは「スター」とはなんだろうか。

僕には沢田研二自身が思い描く「スター」の理想は知る由がない。僕だけでなく、沢田研二以外の人間には分からないからだ。

どれだけの人に迷惑をかけても「スカスカの観客を前でパフォーマンスをすることはできない」と沢田研二は決断した。良くも悪くも、この騒動の本質はそこにあるのだ。

表現者などというものは、本来それくらい横暴で傍若無人でもあるエゴの塊なのである。

ファンファーストであるか否かはアーティストによる。それを押し付けることもまた、正論だが正解ではないのではないだろうか。

どれだけの人間に怨まれても、それでも自分の理想像を追うということを沢田研二が選んだのであれば、良いとか悪いとかの次元で語ることは、もう不可能だ。

そんな人であっても支えるという人たちもいて、それもアーティストとファンの形であるならば。

何が言いたいかというと、ファンの想いは無限にあるけれど、それはたった一人のアーティストのエゴという想いに左右されてしまうんだなということ。

アーティストに迷惑被るのもまたファンなのである。良くも悪くも。


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2 件のコメント:

  1. 僕もこれについては傍観しかしてませんが、サトシさんの記事見て、なるほどな。と思うと同時に、『あひるの空』のファンにも当てはまるな、これは。と思いました。

    井上雄彦先生のファンにも、かな。

    早く「待たせやがって」と言いたい。

    そんな病ですね(笑)

    ツイッターでシェアさせてもらいました。悪しからずや。

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    1. 最初はスルーしようかと思ってたんですが、結局書いてしまいました。

      「待たせやかって病」分かります。
      ポルノファンもそうなんですが、深みにハマるほどマゾになってく感覚があります笑

      ありがとうございます!助かります!

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