※ネタバレありです。一切ネタバレない方が楽しめるので、これからの方は他の記事を読んでください
「スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム」を観た。
えらく感動して文章にしておこうと思ったのだが、正直ありとあらゆる場所で語り尽くされているかと思う。だが、自分なりに想いを残しておきたい。
先に断るが、これはトリビアが詰まった考察記事ではない。
所謂MCUとか原作絡めた考察とか小ネタは詳しい人が語ればいいし、自分はスパイダーマンを通して改めて「ヒーロー」とはなにか考えたい。
スパイダーマン in スパイダーバース
※改めてネタバレ注意
今回の「スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム」(以下NWH)の最大の仕掛けが歴代スパイダーマンの集合だ。祭りじゃ祭り。酒もってこい。
ちなみにGoogleで作品名検索すると1ページ目でネタバレ踏めるレベルです。ヴェノムも普通にトムホ載っけてたし、Google自重しろよ。
トビー・マグワイア主演の1作目「スパイダーマンの公開は2002年である、約20年の時を経てこうしてスパイダーマンの物語がひとつの大団円をむかえたことは、大いなる功績だろう。
いい歳して色々とむせび泣かされたけど、あの映画が20年前ってことが一番イヤな涙出たわ。ちなみに2002年は日韓ワールドカップあった年である。今年35歳になる自分は中学3年生だった。そりゃいい歳にもなるわ。
正直なところスパイダーマン集合は2018年に映画「スパイダーマン:スパイダーバース」(傑作!)でアニメーションだが先取りされてしまった感、というのは少しある。
しかしながら、やはり歴代実写映画シリーズが揃ったのはSONYとマーベルの歴史を思えば革命といえよう。
元より、予告編にてヴィランたちが集合するのは語られていたので「これ、揃うな」というのは、みんなうっすらと思っていたと思う。
自分としては歴代のスパイダーマンが揃ったことよりも、そのサプライズの先にあったそれぞれの物語の帰結に感涙したのだ。それについては後述する。
映画的にはドクター・ストレンジ以外はほとんどMCUより、本格始動したSSU(ソニーズ・スパイダーマン・ユニバース)に重きがおかれている。
作品数が膨大となったMCUでさえ大変なのに、歴代のスパイダーマンシリーズ、現行のヴェノムもおさえないといけないので、リテラシーが必要なんてもんじゃない。
2021年末のサプライズとなった「ヴェノム:レット・ゼア・ビー・カーネイジ」のエンドクレジットのサプライズに対して今回のNWHの返しはとても粋だ。
特に今回は説明が最低限なので、ある程度予習は必須といっても過言ではないかもしれない。もっと初心者向けにもチューニングできたと思うのだが、やったとて複雑化は必至でここまで振り切ったのは正解といえよう。
なぜならこれはスパイダーマンにとっての「エンドゲーム」なのだ。ここまで観てきたファンに対してのご褒美なのだからこそ、突き抜けた。
蓋をあければ、これだけ事前知識が必要な作品は世界各国で大ヒットで、見る限り批評家たちも概ね絶賛の嵐である。作り手が創りたいもの、ファンである観客が望むものが重なった結果だ。
ということで歴代スパイダーマンのシリーズが終結する、そんなお祭りムービーになるというのは、予告編から察していて、正直にいえばそれだけの映画で終わると思っていた。所謂サプライズのためのサプライズだ。しかし、予告は予告でしかなかった。
「エターナルズ」とかもそうだったけど、最近のMCUは予告編だけでも「今回これだけ要素盛りだくさんなの?」ということが、ストーリーの半分ほどまででほとんど出きってしまう。
時間は確認できないがスパイダーマン集合も全体の3分2よりは前だったと思う。普通クライマックスでやるだろ、という予想を軽く超えてくる。
では、その先にあったのはどんな物語であったか。それこそが自分が最も胸を打たれたのだ。それがヴィランたちの物語である。
ヴィランたちの物語
物語中盤には多くのスパイダーマン世界のヴィランが集結する。
それぞれ登場したと思ったら、思いの外あっさりみんな捕まってしまうのだけど、そのヴィランたちをどうするかにおいてピーターとストレンジは対立することになる。
この映画、元はといえばピーターの行動によって引き起こされている(これが最もトニー・スターク譲り)のもあって、観客はどちらかといえばストレンジの意見に納得すると思う。
それはみんな薄々いや、わりと色濃く今回はピーターが悪いだろと思ってるのもあるけど、シリーズを観ていれば、このヴィランたちがどれだけ悪行をして混乱を招いたか知っているからだ。
ピーターはヴィランたちを救おうとする。
しかしながら、救おうとした矢先にグリーンゴブリンが裏切り(というのか?)、その結果おばであるメイおばさんを殺されてしまう。これはトビー・マグワイア版で、逃がした強盗にベンおじさんを殺されてしまうピーターとも重なる。
それでもピーターは諦めなかった。
MJやネッドたちの支えもあるが、本当に彼を立ち直らせたのは、他の世界からやってきたピーター・パーカーたちなのだ。ここのピーター・パーカー3人が最高なのだ。
語り合い、彼らはヴィランたちを救うためにまた歩きだす。
研究と実験の末に、ヴィランそれぞれの"治療法"を確率する。ただ、この過程が丁寧なのか雑なのかわからない流れで一気に治療方法が全員呆気なく完成してしまう辺りは、若干ご都合感あるけど仕方ない。
結果的にそれぞれが、それぞれのヴィランと対峙して彼らを救っていく。その姿にピーターに出し抜かれたストレンジも、ピーターを認めることになる。
なぜ、ピーターたちは諦めなかったか。
その理由は僕らも知っている。
ピーター・パーカーとはそういう人なのだ。
今回、F.E.A.S.T.センター(ホームレスの生活支援)が登場するのは、その象徴だったのだと思う。
そして、もう1つ。
僕らはヴィランたちが本当の悪人ではなく、いくつかの不運が重なって、悪に心を染めてしまった不幸な人々なのだとも知っている。譲れない信念のために心を失ってしまったのだと。
この辺りは元のシリーズを観ているかでかなり捉え方が変わると思うんだけど、自分はやっぱりストレンジのように心が洗われるような気持ちになった。
それにしてもアメリカ人にとってスパイダーマンのヴィランって一般知名度どれくらいなのだろう。フリーザみたいに、ちゃんと知らなくてもなんとなくわかるような人が多いのだろうか。
スパイダーマンは誰を救ったのか
そうして歴代のヴィランを救っていくけれど、スパイダーマンが救っていたのはヴィランたちだけだろうか。
そうではない。
スパイダーマンが本当に救ったのは、自分自身でもあるのだ。
ヒーローとしての葛藤、人を救うことの意義、それはスパイダーマンの物語で常に描かれてきた。
「親愛なる隣人」だったりとか、飄々としたキャラクター性で見過ごしがちだが、人を救いながら自分を傷つけてきたのがスパイダーマンというヒーローなのだ。バットマンと抱えてるものはほとんど変わらない。
人を救うために悪を倒し、時には殺めてしまう。
それを正義と呼び、僕らはずっとヒーローの物語を観てきた。
人を救っていく彼らはいつも傷だらけだった。
そう思ったとき、ヴィランたちを"治療"しながら真に救っていったのは、彼らを殺めた自分たち自身の心でもあると思えたのだ。
つまりスパイダーマンが本当に救ったのは、ピーター・パーカーという男なのだ。
あの時、守れなかった約束を。
あの時、届かなかった手を。
あの時、失った大切な人を。
忘れないために。
正義のために悪を討つこと、それだけではない解決。
共に歩みより、考えが違っても、意見をぶつけ合い、解決方法を見つけること。分断ではなく統合。
それは「アベンジャーズ/エンドゲーム」で遂に答えを出せなかった、サノスの問いかけへの真の回答なのではないか。
宇宙を存続させるために全宇宙の生物を半分にしたサノス。
「アベンジャーズ/エンドゲーム」ではサノスを激昂させ暴走させることでストーリーをうまくずらしているが、実は映画内でこのサノスの問いへの答えを明確に出してはいない。
サノスの導きだした問いと答えにどう立ち向かえばよかったのか、それがピーターの出した答えだったのではないだろうか。
「親愛なる隣人」が伝えるものは、隣人愛の本質でもあると思う。
僕は別にクリスチャンではないけど、隣にいる人を大切にすること、それはひとつの正しさだと思う。
その数が増えるほど、世界はもう少しまともになるはずだ。
この答えを幼稚だと、あなたは嘲るだろうか。
そんなことはない。
では、逆に問おう。
人はそんな幼稚な考えでさえ、まともに向き合えてこなかったではないか。
そんなことを気づかせてくれるのが。
親愛なる隣人、スパイダーマンなのである。
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