2019年10月9日水曜日

【ネタバレ感想】映画「ジョーカー」 それは妄想か虚言か 狂気の傑作








ホアキン・フェニックス主演「ジョーカー」を見る。

一応ネタバレとは銘打ったものの、ストーリーはもうすでに明示されている。

バットマンのヴィランであるジョーカーがどのように誕生したのか。つまりは最初から結末はもうわかっているのだ。

それでも「なぜジョーカーとなったか」に至る過程にこそ、この作品の魅力はある。

思いつくままに綴るので散漫としてしまうが、感想をここに記す。



【ネタバレ感想】映画「ジョーカー」
それは妄想か虚言か 狂気の傑作









あらすじ・ストーリー








「どんな時も笑顔で人々を楽しませなさい」という母の言葉を胸にコメディアンを夢見る、孤独だが心優しいアーサー。都会の片隅でピエロメイクの大道芸人をしながら母を助け、同じアパートに住むソフィーに秘かな好意を抱いている。笑いのある人生は素晴らしいと信じ、ドン底から抜け出そうともがくアーサーはなぜ、狂気溢れる<悪のカリスマ>ジョーカーに変貌したのか? 切なくも衝撃の真実が明かされる!
Filmarksより




まず所感を書けば、傑作だと思う。

こういう類いの映画を見ている時にいつも思う感覚が「いま凄いものを見ている」という感覚だ。

そのゾクゾクとする感じは久しぶりで、たとえば「ノーカントリー」のハビエル・バルデム演じるアントン・シガーのように、たとえば、「ゴーン・ガール」でロザムンド・パイク演じるエイミーのように。終わった後に強烈に胸に残る存在感のキャラクター。それだけで、この映画を観た価値はあるといえるだろう。

R15+というレイティングだが、直接的なグロもエロもほとんどない。けれどもそのレイティングになったのは、それだけ人の心の暗部に踏み込んだ作品ということでもある。


映画「ジョーカー」において、観客が煙に巻かれるのが「どこまでが本当でどこまでが妄想なのか」ということ。
最後の場面を受ければ、その全てが妄想と虚言だったという、"あのサスペンス映画の傑作"(一応名前を伏せておく)的なものであってもおかしくない。

明確な答えは提示されないので、そこは個人に委ねられているだろう(後にコメントされる可能性もあるが)。

個人的な解釈でいくと、全てが妄想というわけではないと思う。「あるポイント」の箇所が妄想の可能性が高いと思えた。

それは「アーサーが成功している」「アーサーが病気でなく笑っている」場面である。つまりは、「アーサーがこうだったらいいのにと願うもの全て」が妄想であり、それが妄想に過ぎないからこそアーサーはジョーカーとなったというロジックではないか。
劇中で妄想と思われる箇所をあげてみよう。


・マレーの番組で客席で声を上げたアーサーがマレーの目に止まりステージに上げられる場面
・シングルマザーと恋に落ちる場面
・マレーを殺した後、護送中にゴッサムシティの人々が暴徒化していて、衝突した車からすくい出され大衆にその存在をアピールする場面

どれもが「こうだったらいい」というアーサーの願望だ。


母親から語られる父親の話さえも、母親もまた精神を病んでいたというストーリーが重なることで、何が本当で何が嘘なのか、見ている観客は混乱する。なぜなら、アーサー自身も何が真実かわかっていないのだから。

ただ確かなことはアーサーの願望はほぼ叶わず、信じていたかったことすらも叶うことはない。だからこそ、アーサーは強い絶望に苛まれるということだ。

その絶望が巡り巡り、暴徒によってブルース・ウェインの両親が殺されてしまうという悲劇に繋がってしまうこともまた皮肉だ。

ティム・バートン版「バットマン」ではジョーカー自身がブルースの両親を殺害していた。そのため「正義と悪」である以上にブルースの復讐劇にも受け取れる。しかし、こうして今回のようにアーサーのジョーカーの行為が巡り巡り間接的にブルースの両親が殺害されてしまうという展開は、いずれバットマンとなる時により「悪」そのものと向き合うことにもなる。

監督のトッド・フィリップスによって続編は否定されているが、世界でのヒットもあり、計画されてもおかしくない。
もしそうなるならば、今回なくて不満に思っている人がいた、ジョーカーとして次々と犯罪に手を染めていく展開も盛り込まれる、かもしれない。




ジョーカー








かつてティム・バートン監督版「バットマン」でジャック・ニコルソンが演じ、2008年にはクリストファー・ノーラン監督の「ダークナイト」においてヒース・レジャーがジョーカーを演じ、アカデミー賞の助演男優賞を受賞した。
(初代はテレビシリーズのシーザー・ロメロによるジョーカーだが、こちらは不勉強ゆえ未見である)







しかしながらヒース・レジャーはジョーカーの熱演のあまり、その役作りが私生活にまで影響を及ぼすことになる。

不眠症による睡眠不足で睡眠薬を服用していたが、自宅で急性薬物中毒となり、「ダークナイト」の公開を待たずして死亡した。ただし、不眠症の理由が直接的にジョーカー役をやったからというわけではないと家族は否定している。
皮肉なことに、その死によって注目を浴びたが、「ダークナイト」を見ればヒース・レジャーの演技に圧倒されることは間違いない。

ジョーカーという"狂気"と向き合った俳優はもう1人。







2016年公開の「スーサイド・スクワッド」ではジャレッド・レトがジョーカーを演じた。僕や友人にとってジャレッドはとても思い入れが強い人である。俳優としては「ファイトクラブ」等に出演しているが、俳優の傍ら音楽活動も行いヴォーカルである30 Seasons to Marsは日本ではマイナーだが、自分はとてつもなく大好きだ。







この人もまた役作りは徹底するタイプで、ジョン・レノンを銃殺したマーク・チョップマンを演じ主演した「チャプター27」では30kg増量したほどだ。
なのでジャレッド・レトもまたジョーカーの役作りに入れ込むあまり、空港で乱闘騒ぎを起こしたりといったこともあった。ただし、こちらも直接的や因果関係は不明である。

ジョーカーのシーンが大幅にカットされたり、「スーサイド・スクワッド」自体が失敗(あの脚本にはそういうしかない)に終わったこともあり、個人的にも楽しみにしていたジャレッド・レト版が不発に終わったのが残念で仕方ない。

かのように、ジョーカーはその役を演じる者を蝕む可能性を秘めている。それでいて、俳優として挑戦したいほど魅力的なキャラクターであり、同時にプレッシャーが大きい役でもある。

そんなジョーカーに挑んだのは、ホアキン・フェニックス。実は出演作をそんなに見ていない。「グラディエーター」「サイン」「ヴィレッジ」辺りだが、内2つがシャマラン作品ではないか。なんにしても、今作「ジョーカー」は間違いなく代表作となり、アカデミー賞の主演男優賞ものだろう。

もし受賞するようなことがあれば、客席からステージに向かうくだりは、マレーによってステージに呼び込まれるアーサー風の画にして欲しい。

色々な方のレビューを見ていて「これはジョーカーではない」という意見がいくつか見られた。そもそものジョーカーのオリジン自体が原作でも何度も描かれており、MCUのようにユニバース化せず作品ごとに異なる世界観のDC映画で、むしろそれはおかしいことではない。

何より、世間的にジョーカー=ジャック・ニコルソンというイメージを覆した、ジョーカー=ヒース・レジャーという認識さえも改めてしまうほど、ホアキン・フェニックスのジョーカーは鮮烈だ。むしろ、ここでまた新たなジョーカー像を築いたという時点で、僕は成功だと思っている。


ジョーカーはサイコパスである。犯罪をすることにも、人を殺すことも全く躊躇はしないし、罪悪感を抱かない。しかし、今回の「ジョーカー」が決定的に異なるのが、アーサーが人を殺したことで精神が変化していくことだ。


最初の殺人。地下鉄で3人を銃殺したのは、自分を守るための衝動的なものだ。冒頭でピエロのまま、少年たちに袋叩きで暴行されても無抵抗だったアーサーが、最後の一人を追い詰め数度の発泡をする姿、それはサイコパスが喜んで引き金を引くというよりも殺した実感を自分に刻むように撃っているように見える。


サイコパスは、たとえば人を殺すことに躊躇いはなく、食事をする、昼寝をするのと同じ感覚で人を殺す。ヒース・レジャー版は特にその要素を強調していた。しかしアーサーはどこまでも人間臭くて優しい心を持っている。
序盤からバスで子どもに好かれようとしたり、コメディアンとしてまさにマレーのように誰からも愛されたい存在になろうとして、誰からも愛されることがなかった。

それでも気づかってくれる同僚たちもいたが、それでも自分に銃を渡した張本人であり、アーサーを裏切ったランドルは殺害される。

唯一愛情を向けられた母親にさえ、養子であったこと、母親自身にも精神性の病があったことが、アーサーにとって"裏切り"となり、ここでアーサーは失うものすら喪ってしまう。

結果的に、地下鉄での殺人が引き金となり、ゴッサムシティを変えてしまう。アーサーの行いに対して劇中唯一といっていい肯定がそれなのだ。しかしそれすら「エリートサラリーマンを撃ち殺した貧困層の反逆」というアーサーの動機とズレた形で世間に受け入れられるのが、皮肉でもある。

ただ、サイコパスになりつつある描写もある。それは実は人を殺す場面ではなく、人を殺さなかった場面に表れているのだ。

裏切ったランドルを執拗に殴打して撲殺した後、「親切だったのは君だけった」と小人症のゲリーは見逃される。そこでゲリーは恐怖に怯えながらも「届かないから鍵を開けて」とアーサーに懇願しなければならなくなる。アーサーは笑顔で鍵を開けて送りだす。

どんな人を殺す場面よりも、ゲリーを笑顔で見送る場面にこそ、ジョーカーらしいサイコパスを感じさせるところが巧みだ。しかしながらゲリーへの「親切だったのは君だけった」というセリフはまたアーサーの本心であり、アーサーの物語を踏まえて見ると、とても泣けるセリフだ。


もうひとつ今回のジョーカーが今までと決定的に違っているのは、ホアキン・フェニックスのジョーカーメイクはクラウンではなく、ピエロメイクだということ。クラウンとピエロの違いは涙があるかどうか。今回のメイクは左目から涙のように見える青い筋がある。

ピエロはその顔のメイクで「顔で笑って心で泣く」を表している。これは、今回のアーサーにそのまま当てはまる特徴だ。

ホアキン・フェニックスの演技の最も素晴らしい場面こそ、彼の「笑う」場面だ。精神的にストレスやショックを受けた時に発症してしまう笑い顔は笑っていながらも泣いているように見える。その絶妙で複雑な演技があったからこそ「ジョーカー」という映画は成立したともいえる。

そんな笑いたくないのに笑ってしまう自分への怒りと苦痛こそが、みんな笑っているステージに立つ、ピエロのメイクでいつも笑ってるように見せてしまうということに繋がる。そういう辺りも含め、脚本がとても巧みで丁寧だ。









トラヴィスとパンプキン









バットマンとジョーカーは「正義と悪」の対立軸で語られることこ多い。しかし、「ジョーカー」を観て「正義とは何か」「悪とは何か」という問題提議は決して大きくはなかったと思う。あっても、クリストファー・ノーランのバットマンシリーズのような強いメッセージ性は盛り込んでいないように感じた。

この映画が描いているのは孤独だけだ。
その孤独は、絶望の淵で誰も手を差し出してくれない絶望の連獄なのである。その孤独をどれだけ味わったことがあるか、それだけがこの映画に悲しき共感を生む。

「誰の心にもジョーカーになる」

ということへの賛否がよく見かけられた。
「誰の心にもジョーカーになる」或いは「誰でもジョーカーに成りうる」そんなことはない、誰もがこんな絶望の孤独に囚われていては、世界は崩壊してしまう。

誰でもジョーカーに成りうるのではない。本当に宿るとすれば、孤独や絶望の先で「自分がおかしいのではなく、世界がおかしい」と抱く想いにこそ、ジョーカーに成りうる要素は潜んでいる。「自分はまともだ」と思えば思うほど、世界はずれていく。

ゴッサムシティの人々がアーサー(ジョーカー)の事件に端を発してデモを起こしていく。それが妄想かどうか定かではないが、少なくともジョーカーに心酔して起こしたものではない。ジョーカー自身もまた大衆を煽ることは実際には行っていない(と思われる)。







アーサーのキャラクター像に意図的に重ねられているのがマーティン・スコセッシ監督の「タクシー・ドライバー」のトラヴィス・ビックルだろう。この点については監督が明言しているので、拳銃のシーンなどをあえて取り上げる必要はない。しかしながら、重ねるからこそ、トラヴィスとアーサーの決定的な違いが浮き彫りになる。

トラヴィスはベトナム戦争のPTSDに苛まれてながら、タクシードライバーとして街を回り、その腐りきった街に嫌悪を抱く。結果的にトラヴィスはあるきっかけから暴走を始めてしまう。最後には売春宿に銃を手に殴り込み、少女を救いだし"ヒーロー"となる。

それがトラヴィスの妄想だったか否かということはここでは置いておくが、社会への不満を爆発させたトラヴィスが"ヒーロー"となったのに、自分はヒーローになることはなかった。受け入れたのは上流層への不満を溜め込んだ者たちのみで、自分は警察に疑われる。

だからアーサーはトラヴィスを、ロバート・デ・ニーロを撃ち殺すのだ。ヒーローにはならないという想いであり、ヒーローにはなれないという悲しみを纏った銃弾で。






云うまでもないが、デ・ニーロのキャラクターは「キング・オブ・コメディ」(こちらもマーティン・スコセッシ監督作)を意識しており、というよりもあらすじさえ踏襲している。

有名コメディアンであるジェリーに才能を評価されたと勘違いしたデ・ニーロ演じるパンプキンだが、ジェリーにあしらい続けられ、仕舞いにはある凶行に出る。

パンプキンも大概だいぶサイコパスなのでアーサーとかぶることがあまりにも多いが違う面もある。なぜならアーサーは正気であり、要素は持ち始めつつもサイコパスではない。だからこそパンプキンを、ロバート・デ・ニーロを撃った。

そう、アーサーが撃ち殺したのはマレーではなく、トラヴィスとパンプキンなのだ。

(「ミーン・ストリート」も関係ありそうだが申し訳ないことに未見)



貧困と格差








本作の中で重要シーンとして挙げられるのが、アーサーがブルース・ウェインと会うために劇場に行く場面だろう。そこで流れている映画は、チャップリンの「モダン・タイムス」だ。
思えば予告で"Smile"が使われたことも納得だ。







「モダン・タイムス」は単純労働の末、人の尊厳が失われ自分が機械の一部になっていく様を描いている。

「ジョーカー」の舞台は1981年。アメリカはロナルド・レーガンが大統領としてレーガノミックスを発表。減税や規制緩和によって1983年頃より景気が回復してきたとされている。一方では富裕層の優遇により、貧困差が益々広がっていったという見方がある。

そうした時代背景を踏まえると、ゴッサムシティの格差、貧困層の不満、なぜ人々があそこまでの暴動となったのか見えやすくなる。

「モダン・タイムス」は1936年の作品で、世界恐慌の後、第二次世界大戦前だ。日本で言えば2・26事件の年で、ドイツはナチス政権だった時代である。

「モダン・タイムス」という作品には、チャップリンが世界恐慌の影響を受けた世界各地を見ていたことが大きな影響を及ぼしている。「世界は何かおかしい」という疑問に対してのひとつの答えが近代文明(機械文明)、アメリカの資本主義への批判であった。

そんな「モダン・タイムス」を1981年の舞台で流し、現代すら皮肉るというだけでもメッセージとして十分だが、「ジョーカー」ではそこで更にもう1つ仕掛ける。

中盤でコメディアンのステージを見ているアーサーが、明らかに他の観客と違うタイミングで笑っている場面。どこか居心地の悪さを持つ場面だが、「モダン・タイムス」を見ている場面では、アーサーは他の富裕層の観客と同じタイミングで笑う、それが強烈なアイロニーだ。

2019年という時代に見るそれは、決して過去の話ではない。貧富の格差は、痛烈なまでに今の時代で響いてしまうメッセージでもある。

ただ、マレーの番組も普通に楽しんでいるので、どちらかというと、あのステージの場面だけが特に異色だったように思える。



その他




最後にいくつか気になったり気づいた点をいくつか。


①ストライキ
清掃業者のストライキによって、ゴッサムシティはゴミが溢れかえる。云うまでもないが、冒頭にして「誰もゴミを片付けないゴミだらけの街」というわかりやすいメッセージだ。


②タバコ
アーサーはほとんどのシーンでタバコを吸っている。燃やすそばから灰になり消えていくもの。かなりギリギリの長さまで吸っているのが印象的。
あと感想を見ていて「タバコを吸っている場面はたくさんあっても火を点けるシーンがない」という意見の方がいて興味深かった。


③White Room
逮捕されたジョーカーが護送される際に掛かるのがCreamの“"White Room"。そんなことを思っていたら、折しもジンジャー・ベイカーが亡くなったというニュースが舞い込んだ。

この曲が発表されたのは1968年。
マーティン・ルーサー・キングやジョン・F・ケネディの弟ロバート・ケネディの暗殺が起きた年だ。


Wait in this place where the shadows run from themselves
太陽が輝かないこの場所で僕は待っているよ
影自身の影が伸びるこの場所で待っている
JPソングス歌詞より引用



④階段
アーサーがジョーカーとなり階段を踊りながら降りるシーンは、今年の映画史を振り返る上でも重要な屈指の名シーンである。

階段について、劇中でアーサーが階段を昇り降りするシーンが多いなと思い。昇るシーンは何か受け入れられる場面へ、降りるのはどんどんと状況が深みへハマっていくように感じる。
たとえばアーサーが家に帰る時にはあの階段を昇っていく。逆に仕事をクビになりタイムカードの機械を壊したあと、階段を降りていく。階段を下に降りるたびにジョーカーへ近づいていってるように思える。



⑤狂人





ハルカトミユキというアーティストがいて、"Vanilla"という曲がある。是非聴いて見て欲しいのだが、その曲にこんなフレーズがある。


狂えない 狂えない
狂ってしまえない
どんなに寂しくても


このフレーズが何を意味しているか、少し長いがコメントを引用したい。


狂いたいけど狂えない、狂ってしまえれば楽なのに狂えない。
私にとって「狂えない」とは、「書けない」でした。
歌詞を書いていて行き詰まり、頭を抱える。
どうしてこんなにつまらない言葉しか書けないんだろう、それはきっと私の思考があまりに正常だからだ、狂いたい、狂いたい、狂えない狂えない狂えない。───
ふと気がつけば毎日のように、あいつに言われて頭にきたことも、もう二度とこの部屋には来ない恋人の残像も、全部まともに受け止めてしまうから苦しいんじゃないか。でもその”狂えなさ”こそが人間なんだろうか。ああまた真面目に考えてしまった。
そんなことをそのまま書いたらこの歌詞になりました。


いっそ狂えてしまえば楽になれる。
アーサーのジョーカーは、まさにその狂ってしまえた瞬間を捉えた作品と思えた。それを表すかのように、ジョーカーとなったアーサーは病気を発症することもなく、笑顔を纏うようになる。

ほとんどの人が、その一線を越えないからこそ、世界は均衡を保っている。しかし本当の狂人の前に、人の心は呆気ないほど簡単に揺らいでしまう。ある者は正義感に駆られ、ある者は賛同に靡いてしまう。

「アーサーに共感できなかったからつまらなかった」という人がいたけど、共感できる人がそうそういてたまるか。
しかしながら確実に、それが刺さる人がいるということもまた、間違いない事実でもある。

アーサーに共感する必要はない。そこでこの映画の評価を推し量るのは、少し違うような気がする。しかしながら、誰しもが社会で生きてく上で、多かれ少なかれ、何かの仮面をかぶっている。だからこそ、現代でもジョーカーというキャラクターが人の心を掴むのは確かだろう。

「鬱映画」だという人もいるが、僕は全然そう思えなくて、ジョーカーになった瞬間にアーサーは自分を縛る様々なものから解放されたように見えた。
あの階段をダンスしながら降りるシーンこそ、それを体言していて美しくすらある。





狂人を出す映画は数多くある(ホラー映画なんて狂人しかいない)。しかし、ここまで丁寧に人が遂にその一線を踏み越えてしまうプロセスを語る映画は、そう多くない。

それをホアキン・フェニックスの圧倒的な演技で見せた。そこに「ジョーカー」という作品の本質的な価値と魅力がある。


ぐうの音も出ない、傑作だ。


おまけ

⑥予告
映画の上映直前の予告が「IT/イット THE END “それ”が見えたら、終わり。」って完全に狙っただろ。



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