Netflixのドキュメンタリー「100人の回答」を見た。
アメリカの様々な人種、年齢、性別の人々を100人集め、行動心理学の実験をする番組。
何話かあるが、その内の4話目「偏見の塊?」というタイトルの、偏見をテーマに扱ったものがとても興味深いものであった。
まず、Netflix環境がある方は、ざっくりと概要に触れざるを得ないので、ぜひ前情報なしで見て欲しいことを断っておく。
「自分は偏見のない人間だ」という人にこそ見て欲しいし、あると思う人でさえ気づかないような無意識のバイアスということがあると知っていただければ幸いだ。
※TOP画はNwtflix公式ページより引用
100人の回答
番組冒頭で集められた100人に問い掛けられる。
「あなたは自分が偏見を持っていないと思いますか」
その問いに、集まった人々の大半が手を挙げる。
果たして本当なのか、それが実証実験によって明らかになる。
最初の人の見た目で距離感が変わるという実験は微妙だったので、後半に掛けて行われた心理的に抱いている偏見の部分に触れたい。
以下の差別や偏見について、実験される。
・ジェンダー差別
・人種差別
その中から3つの実験を紹介しよう。
①ジェンダー問題
男性3人、女性3人の計6人が並んでいる。実際にカップルの男女たちだ。
一つだけ質問ができて、その答えからカップリングを考え、組み合わせを回答するというもの。
100人それぞれ(実験は1人ずつ呼び出されて行われる)が回答を導き出すが、多くの人が失敗してしまう。
理由は、誤った回答をした人の大半が男女3組のカップリングを選択したからだ。
実際には、ゲイのカップル、ストレートのカップル、レズビアンのカップルが正解であった。
にもかかわらず、不正解だった人々の多くが「カップリングを選ぶ」という際、無意識に異性愛のカップルたちだと判断してしまっていたのだ。
「LGBT」という言葉が生まれ、今は「LGBTQIA(+)」というものへ発展している。
しかしながら、特にストレートな恋愛観を持っている人々の中で、無意識に自分と同じストレートだと決めつけてしまう心理が働いてしまうことが明らかになった。もちろん全ての人というわけではないが。
ちなみに僕自身も最近、この問題に直面した。
ここ最近ずっとPS4で「ゴースト・オブ・ツシマ」をバイオハザードシリーズと並行してプレイしているのだが、サブストーリーで安達政子というキャラクターがいる。
「ゴースト・オブ・ツシマ」より
一族を皆殺しにされた彼女の物語はかなり悲痛なものなのだが、政子殿は時折復讐心から怒りに身を任させ暴走してしまうのでプレイヤーたちからは「バーサーカー」と呼ばれている。彼女の物語で安達家の侍女の舞というキャラクターが登場する。彼女は安達家のものを盗んで野盗に売っていた。
そのエピソードの最後。舞と会話して別れた後に政子殿は。
「私は夫を愛していた。けれども……舞のことを……」
と言葉を詰まらせる(すみませんあまりに唐突でビックリしすぎてセリフは曖昧です)
「ゴースト・オブ・ツシマ」では魅力的な登場人物たちが何人も出てくるけど、政子殿にそんな想いがあったとは微塵も考えていなかった僕は、被験者たちとなんら変わらない、バイアスの掛かった人間なのだ。
②男女差別
被験者たちをいくつかのグループに分けて、目の前に現れた人物の印象を問う。
赤いスポーツカーに乗って現れた男性。33歳で医師だという。
男性には意見が聞こえないようにヘッドホンをしてもらい、被験者たちが印象を答える。
「彼が賢く見えるか?」
「彼が信頼できる医師に見えるか?」
といった質問には、あまり手が挙がらなかった。
別のグループの実験では全く同じ車で、全く同じ33歳の医師が登場するが、今度は女性である。
そこで同じ質問をしたところ、上記の質問に対して男性だった場合よりも女性の方がより賢く、信頼できるように見えるという結果が出た。しかしながら「収入が多いか」という質問に対してだけは女性よりも男性の方が「収入が多い」という回答となった。
女性の方が賢く信頼できるように見えるが、収入は低いという結果だ。
専門家は同じ職種で同じ仕事をしていても男女に収入の差はあるという。
女性は同じ職種を勤めるならば、男性の2倍以上の努力が必要になっていて、それが結果に現れているのではと指摘する。
ここで少し考えたのだけど、この実験の根にあるものはもっと根深いと感じた。
以前問題になった東京医科大学の入信問題を思い出したのだ。
東京医科大学の医学部の入試において、女性の受験者の点数を意図的に減点し、女性の合格率を落としていたことが判明した。これについて大学側は、医療現場は過酷な職場環境であり、女性の離職率が高いことからの措置だったと説明している。
理由が理由になっていないことについては当時から叫ばれているが、多くの人が医療現場を過酷な場所という認識を少なからず持っているという点は看過できない。
女性の医師は当然いる。けれど、僕らは無意識のうちにも医師では男性の割合が多いという認識も持っていないだろうか。
そうした過酷な環境下で男性の割合が多い中働いている女性の医師というものに対して、過酷な環境の中で頑張っている女性という目線を持ったとしたら、それもまた抱いている偏見のひとつではないだろうか。
女性の方が「信頼できる」という認識を被験者が抱いたのは、無意識のうちにそうした女性医師へ持っているバイアスが生んだ可能性があるのではないかと考えた。
③人種問題
最後に行われた実験。これが最も強烈だった。
被験者は銃の模型(撃つと音が鳴る)を手に、物陰から出てきた人が銃を構えていえれば撃ち、スマホを持っていれば撃たないという反射能力のテストを受ける。正解なら1ポイント、不正解ならマイナス1ポイントとされる。
この実験の真意は最後の部分。
左右からそれぞれ人が飛び出す。片方はスマホを掲げた黒人男性、もう一方は銃を構えた白人男性だ。
公正を期すため、後半では左右の立ち位置を交換したりもしたが、結果的に被験者が黒人男性を撃ってしまう割合が白人男性を撃つ割合よりも多くなった。
更に明かされるのは、現れる黒人男性はスタッフのキャストコーディネーターであり、被験者たちとも親しく接していた人物だったのである。けれども、誤って撃ってしまった被験者の多くが彼だという認識を持たず、指摘されるまでそれに気付かなかった。中にはそれに気づいて「本物の銃だったら彼を殺してしまっていた」と涙する被験者もいた。
この実験を受けて考えてしまうのは、現在もアメリカで続くBLM(Black Lives Matter)の問題だろう。
黒人男性というだけで弁明の余地すらなく強制的に取り押さえられ、時には殺されてしまうケースもあるということだ。過去には攻撃の意思はないと示しても暴力的に取り押さえられたという男性もいるそうだ。
※ただし内容に関してはケース・バイ・ケースであり賛否だけでなく、その正当性についての議論は出口が見えない状態が続いている
しかしながら目線を変えたら。
少し前に『アメリカン・ポリス400の真実!』という本が話題になり、自分も読んだ。
著者は元アメリカの警官である。その警官時代の実経験を書き綴った本だ。
「ドラマでは格好良くキック一発で壊すけど、ドアを蹴り破るのは実際には大変」というユニークなものから、数センチずれていたら銃弾が顔に命中していたというような九死に一生のエピソードまである。
それを読むとアメリカの警官たちが、一瞬の判断(油断)で命を失うかもしれない、危険と隣り合わせの日常を過ごしているのかが判る。
つまり、逮捕する側とされる側、どちらも一瞬のうちに自分の命が左右される状況下に置かれるということだ。
これを念頭に置き、実験結果を振り返る。
被験者たちが構えているのは音が出るだけの模型の銃だ。もちろん銃を構えたターゲットが持つのも同じだ。そこに命の危険はない、ゲームとしてテストを受けている。
でも、もしこれが本物の銃だったら。
ターゲットが持つ銃は本物で、判断が遅れれば自分が撃たれてしまう状況であったならば。
結果はもっと残酷なものになっていたのではないだろうか。
黒人差別の歴史もあれば、警官が逮捕の際に発砲を受けるなどして殉職する事件も起きている。どちらの歴史も根深く、複雑に絡み合っているのだ。
どちらも正しいこともあれば、どちらも間違っていることもある(それすら0と100で片づけられる問題ではない)。「一筋縄ではいかない」と言葉にするのは簡単だけれど、現実は決して簡単には片づけられない。
なぜなら、このテストで黒人男性を誤って撃ってしまったのは白人だけではないのだから。
中にはアジア系や、同じ黒人であっても誤って発報してしまった人たちもいたのだ。
BLMの問題を語る上で「黒人vs白人」という図式がどこかつくり上げられているのを感じるが、無意識の偏見というものは、人種に関係なく、”人”そのものが持ってしまうものなのだ(ちなみにBBCは「日本人はBLMの問題に関心が薄い、無関心こそ差別的だ」と批判していたが、それこそ日本人への偏見と差別だろう)。
結局何が言いたいのかということをまとめたい。
「人は無意識のうちにも差別や偏見を持ってしまっているもの」
これを誰もが意識共有しない限り、差別はずっとなくなることはないだろうということだ。
逆説的な、どこか禅問答な感じがしてしまうが、それを念頭に置くことの大切さを誰もが持つべきなのだ。
ここで以前にも書いているように、僕はディズニーの映画「ズートピア」が大好きで、とても大切な作品となっている。
その理由が、主人公がうさぎということだけでなく、差別と偏見というテーマに対して「誰もが無意識のうちに他人への偏見や差別を持っている。だからこそ互いにそれを認め合い、乗り越えた先に真の信頼関係が生まれる」というところへ着地しているからに他ならない。
差別や偏見という問題で見受けられるのが「排除」という方法だ。
もちろん理想をいえば、差別や偏見が全て排除された夢のような世界が生まれるのであれば、それに越したことはない。けれど現実は上記の実験のとおり、「自分に偏見はない」という人々でさえ、無意識のバイアスに囚われている。それを排除することは、断言しよう、不可能だ。
なぜなら僕らは差別と偏見を持ってきた歴史の延長線上に生きているのだから。
なら、それを理解した上で認め合っていけるなら、少しでも世の中は変わっていくのではないのだろうか。
こうした番組を通して、無意識が意識にせめて変わってくれればいいと願ってしまう。
それこそ、理想論かもしれない。
世の中には差別主義者だっていることも念頭に置かなければならない。
けれども少しずつでもそうした理想論が積み重なっていけば。
根深く残る差別の歴史のように、人は良い歴史を積み上げ、後世に伝え残していくことだってできるはずなのだから。
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↑実は去年にも同じようなことを書いている。結局僕は「ズートピア」に頼るしかない。最後は一人ひとりのリテラシーの問題になってしまうのだ
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