2019年4月15日月曜日

楠本まきが「ジェンダーバイアスのかかった漫画は滅びればいい」と言わなければならない世の中は滅びればいい







※敬称略

ここ数日、楠本まきのマンガ『ココハナ』のキャラクターが「ジェンダーバイアス※のかかった漫画は滅びればいい」と言ったことが物議を醸している。
※性別によって社会的・文化的役割の固定概念を持つこと。

といっても僕は忙しかったのもあり、それが話題になってることを知らなくて、間接的に知った。彼女さんと色々話したり、毎週見ている「山田玲司のヤングサンデー」でも取り上げられたことで、ここ数日ずっと考えている。

物議は楠本まきのインタビューによるもの。


内容を抜粋するが、できれば原文で全て読んでいただいた方が伝えたいメッセージがより分かりやすいと思う。



作家が無意識にジェンダーバイアスを投影している可能性がある
・それが次の世代にも影響を与えてまた新たな書き手によってジェンダーバイアスが受け継がれてしまうかもしれない
作者は無意識にやっているから気づかないかもしれない、だから編集によって食い止められるのでは
・タバコの表現のようにガイドラインを設けるべき
・ジェンダーバイアスのある表現を使うなら作家に理由を求め、編集が納得すれば採用、しなければ採用しない


この問題によって「表現の自由」が焦点になって様々な意見が飛び交っている。正直、記事ひとつで語れるほど単純な問題ではないし、答えの出せるものではない。

しかし、これから先の未来のために、こうしたことが考えられていかなければならないと思うからこそ、書いておくことにする。

賛否、様々な意見があると思う。それでも書いておきたいのは、誰が悪いとか、そういうことではない。


ジェンダー論が発端であるが、差別というテーマであることも踏まえて、それも含めた記事として読んでいただきたい。






無意識のバイアス




まず僕自身の意見を書いておきたい。


・差別は許されるべきではない
・多様性を認めるべき
・表現は自由であるべき


何より、差別は許されるべきではない。
それはどちらの意見にも共通する意見ではないだろうか。

その上で「表現の自由」を求めるというのは、「差別は許さない」というのと同じ土俵ではなく、別の論点で語られるべきではないか。楠本まきの件については、そこまで言及が踏み込んだため、様々な意見がない交ぜになってしまったように感じる。

楠本まきが伝えたい、ジェンダーバイアスに対する意見は反対する人はいないだろう。
そこでの方法論が論点であるべきなのだ。


大前提として、差別は絶対に許されるべきではない。
それを多くの人がわかっていながら、なぜ人は無意識に差別して傷つけてしまうのだろうか。

もちろん一定数、意識的な差別主義があるということは認めなければならない。それは人類で戦争や紛争が絶えないことが証明している。絶対になくならないテーマなのである。
だからこそ「差別を排除」することはできない。人は、愚かだからだ。

本当に「多様性」を求めるのであれば、それすら受け入れなくてはならない。差別を排除してしまうことは、多様性を認めないということでもあるからだ。

差別はある、だからこそそれを受け入れ、許容しなければならない。

そのためには、どうすればいいか。「差別がある」と「差別は許さない」はいつまでも同列にあり、一人でも多くの人が後者を選ぶ社会にしていくしかない。

それは決して容易いことではない。

しかし、こうした問題が表面に出てくるように、少しずつ世界は変わっている。それは一瞬で世界を変えるような革命ではない。革命は強要をも生むからだ。

革命でなく、一人ひとりの意識とリテラシーを高めていかなくてはならない。
革命は起きない、しかし自分一人の革命はできる。内に宿る価値観と偏見を変えることはできるのだ。それを一人でも多くが意識できれば。


それは、地道に時間を掛けるしかない。

世代で括れる問題でないということは重々承知の上であえて書かせてもらいたい。

今の若い世代の方が、こうした時代の動きをしっかり捉えて理解していると思える。
だからこそ、少しずつでも変わるかもしれない。それは希望的観測かもしれない、しかしそれを願うことが未来に繋がる希望ともなる。


無意識のバイアスに対抗できるのは、意識しかない。

僕は何度も書いているがディズニーの「ズートピア」をとんでもない名作だと思っている。作品のテーマは差別そのものである。







僕がこの映画を大切に思うのは「差別はよくない」という道徳的メッセージを越えたものがあるからだ。

主人公のうさぎのジュディは相棒となるキツネのニックに対して、意図せず差別的な発言をして傷つけてしまう。それはジュディの中にある無意識の差別だった。

ジュディは自分の中にあった差別を認め、心からニックに謝罪して2人は和解する。

「意識せずとも、誰しもに差別はある」。だからこそ、それを認め(意識と自覚をして)、相手を受け入れる。そのメッセージがそこまで達しているからこそ「ズートピア」に僕は感銘を受けたのだ。


楠本まきの伝えたいメッセージはとてもわかるし、絶対的に正しいメッセージを伝えようとしているものだ。
問題の本質は、もうみんなわかっているはずなのだ。

そのための手段と方法が物議を醸した。しかし、ここまで描かなければならないほど、時代の認識が遅れているのだ。

この問題に対して表現の自由を訴えて反論している人は、それをもう理解していると思うし、差別に賛成している訳ではない。差別はダメだという上で、それを無くすための方法論を問うているのだ。


本当にそのメッセージを届けなければならないのは、この話題を知らずにいる人達ではないか(言われるまで気づかなかった僕がいうのもなんだが)。

そういった人達にこそ、無意識のバイアスは生まれ、そして世の中にはそんな人が多くいるということを変えていく必要がある。

では、表現は規制されて、差別はなくなるのだろうか。








表現の自由とは




表現とは心に傷をつけることだ。

だからこそ、表現に心が動かされる。

表現は千差万別で人によって違う。いや、同じ人の中であっても1日、数秒、刻一刻と表現の内容は変化する。

だからこそ、世の中には多種多様な価値観の作品がある。

それが文化であり、豊かさなのだ。

誤解を恐れず書いてしまうが、僕はその中で人を差別するような表現の作品があっても構わないと思う。

わかる。それに傷つく人がいるということも。しかし、同じように差別を許さないというテーマの作品があればいいと思うのだ。或いは同じ作品でそれを並べてもいい。

差別はなくなるべきだけれど、人はそうできない。だが臭いものに蓋をしていっても、また新たな問題を生むだけである。

むしろ、蓋をしてしまうからこそ「無意識のバイアス」が生まれることもある。なぜなら「無意識のバイアス」を持つ人は、それを自覚していないからである。

確かに目に触れさせないことは、ひとつの解決策かもしれない、しかしそれでは永久に問題は解決しない。そうして規制していけば、いつしか表現者は何も表現できなくなる。極論、自分の意見を言うということさえ、それに傷つく人がいるかもしれない可能性を孕んでいるのだ。

見させないが正しいのではなくて、正しくないことも正しいことも見た上で正しい価値観を判断して選ぶ社会こそ、本当に豊かな差別なき社会なのではないか。


たとえばホラー映画は悪影響を与えるとよく言われる。けれど本当に悪いのはホラー映画なのだろうか。残虐なホラーは「人を殺して楽しめ」というメッセージなど言わない。

ホラーは「人は時にここまで残酷に成りうる」「常識の通じない理不尽はこの世にある」というメッセージを伝える。

それを表面だけ取り上げて「ホラーは暴力を助長する」と叫ぶ人もいる、どちらが問題だろうか。もちろん世の中には、間違った受け取り方をしてしまう人もいるかもしれない。

では、それを作品の責任と切り捨てることは正しいのだろうか。
本当に必要なのは、それを間違いであると思わせてくれる周りの人々ではないか。それこそ、単純な問題でないということもわかっているが。

「ファイトクラブ」が暴力を助長させるだろうか、「羊たちの沈黙」が犯罪を助長しているだろうか。

問題は表現じゃない、表現から観た者が何を受け取るかだ。
そこで糾弾されるべきは作品内の差別でも暴力でもない。それを生むのは自分自身の意志なのだ。


人は愚かだ。

だから表現の規制は、また次の新たな問題を生むだけだ。

差別をなくすならば、そんな世の中で、一人ひとりが「相手を傷つかない生き方」を選んでいくしかない。

人を傷つける作品があるのと同様に、世界には人を救う作品もたくさんある。
人の感情はアンビバレンツだ。簡単に仕分けして二極化できる代物ではない。だからこそ、必要なのはコミュニケーションではないか。

たとえ言葉を誤って相手を傷つけてしまったとしても、それを相手に真摯に伝えることで、ジュディのように「無意識のバイアス」が意識あるものに変わるかもしれない。なにより、それこそがコミュニケーションというものではないだろうか。

繰り返すが容易く解決できる問題ではない。
しかし、怒りは対立しか生まない。憎しみは憎しみしか生まない。

自分の中のバイアスを認識し、身近な人に優しくあろうとする。そうした意識が広がるなら。

世の中はもう少しマシになるんじゃないかな。

もちろん、別の意見がある人もいるだろうし、賛否あると思う。
けれど、この記事によって、無意識が意識になるだけでも大きなことだと思い、自分なりに言葉にした。

差別に傷つく人が一人でもいなくなることを願う。



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