ポルノグラフィティの新曲"Zombies are standing out"が配信された。
「こんなポルノを待っていた」
渇望していたものを与えられ、僕らゾンビたちは頭を撃ち抜かれ終わらない日常に別れを告げた。
※書いていてかつて無いほど脱線を繰り返して長くなった為、前後編に分けました
※後編はまだまだ書いてますが、"Zombies are standing out"ほぼ関係なくなる予定です
ポルノグラフィティ Zombies are standing outの歌詞の意味を徹底的に深読みする《前編》
曲について
ゾンビをテーマにしたロックチューン。
ヘビーなサウンドにEDMテイストを交え、曲調としては古きよき伝統的なロックを継承しつつも、アレンジによって現代の音楽へと昇華させている。
これから色々あーだこーだ書くけれど、一言で済ませるなら「格好いい」「優勝」だけでも十分である。しかしながら、それならブログで書く必要ないし、僕が云うまでもない。
曲としてはエモっぽさもあるし、そうカテゴライズする人が多そうだけど、自分は「エモ」という感じではなくて。
エモってもう、少し前の音楽となっていて、ジャンルとして方向性もめちゃくちゃになってるけど、根底には「若者の叫び」がないといけないと思うんです。
曲調よりもその本質がどこにあるか、ということ。それが自分にとっては「若者の叫び」であり、「青さ」ではないかと思っている。
といいつつ頭に浮かんだエモバンドがほとんどオッサンだけど。Jimmy Eat Worldとか。
そもそも"Zombies are standing out"に至っては、(いつもながら)ありとあらゆる要素が詰め込まれすぎてて、今回もジャンル"ポルノグラフィティ"となっている。
今年だけでも「カメレオン・レンズ」→「ブレス」→「Zombies are standing out」ととんでもないシングル遍歴。履歴書の職歴だったら絶対採用していいか、弊社で扱いきれるか迷うレベルの、全ジャンル横断型アーティスト、それがポルノグラフィティである。
岡野昭仁という人は本当にとどまることを知らない。とりわけ最近のシングルなどの作曲に関して「少しでも多くの人に届くように」という気合いが伝わってくる。
そして最近毎回のように書いているが、聴く度に歌の表現力と歌唱力が上がっている。本当に恐ろしい。
一方の新藤晴一もギターの表現は相変わらず素晴らしいし、本当なら"Zombies are standing out"のギターソロあと8小節聴きたいくらい好きである。
ギターのリフの最後の部分とかが顕著だけど、結構歪ませて電子音に近い音作りをしてる。Diezelのアンプを使ってるのだうか。
そして作詞面では今年発売した"カメレオン・レンズ"、"ブレス"でまだまだ新境地を開拓している。
ポルノグラフィティとしての表現力が向上したことで、振り幅はもちろん、もう天井さえ見えない。大気圏くらいはいってる。
新藤晴一はよく「アーティストは過去だけでなく未来をみせていかなければならないから、新曲をやる」というような言い方をする。
"Zombies are standing out"まさにそんな曲で、最新作が最高傑作だと宣言できるほど力強い楽曲だ。
バードマン
ゾンビがテーマの歌詞である。
そしてそこで突きつけられるテーマこそ「立ち上がれ」というもの。
そこから僕はどうしても「本当に生きるとは?」という問いかけに聞こえて仕方ないのである。
まず歌詞の英語部分を整理しておこう。
Zombies are crying out→ゾンビたちは叫んでいる
Hands come out underground→地面から手を突き出して
※想像図
Zombies are standing out→ゾンビたちは立ち上がっていく
War cry→雄叫び
I still pray to revive→俺はまだ復活を祈っている
Living dead→生きる屍(しかばね)
Zombies remember me→ゾンビたちは俺を覚えている
※管理人はポンコツな上に英検4級レベルの知能なので、間違っていたら笑ってやってください
何も考えずに呼吸し食事して歩くだけ。
それはゾンビと何が違うだろう?
人が"死ぬ"とは肉体が活動を止めた時だけなのだろうか。
主人公は肉体的にではなく、精神的にゾンビに成りかけていく。
かつて自分にもあったはずのGlory days。
このGlory daysから連想したのが、かつてスターとして輝いていたが今は落ちぶれている存在、という様に見えた。
たとえばかつて活躍したスポーツ選手かもしれない、それともミュージシャンかもしれない。
僕が映像として真っ先に浮かんだのは2014年に公開された
「バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)」
という映画(アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督)である。ちょっと脱線気味になるが付き合ってほしい。
第87回アカデミー賞で作品賞をはじめ4部門で受賞している。
この映画の主演であるマイケル・キートン演じるリーガンはかつて"バードマン"として活躍したスター俳優であるが、今は落ちぶれてしまっている。私生活でも離婚して娘(エマ・ストーン!)は薬物中毒というほど荒んでいる。
そこでかつての栄光を取り戻すべくブロードウェイで演出、主演の舞台を企画する。
そこで様々なことが起こるのだが、それは本編を見ていただきたい。終盤、ひょんなことでリーガンが閉め出されてしまい、ブリーフ一丁でニューヨークのタイムズスクエアを歩くシーンは、自らの復活を掛けて懸命に生きるゾンビのようである。
それでも、必死に舞台へ向かうその姿に、笑いながらも泣けてしまう名シーンだ。
ちなみにこの映画の冒頭では、レイモンド・カーヴァーの詩が引用される。
※カーヴァーといえば村上春樹が「今日の海外文学-21- レイモンド・カーヴァー」という企画を持ち込むほどの詩人である。
村上春樹といえば、もちろん我らが新藤晴一にも繋がる。
※今回の記事はどんなに脱線しようと本筋に無理矢理繋げてくスタイルです
「この人生で望みを果たせたのか?」
「果たせたとも」
「君は何を望んだのだ?」
「“愛される者” と呼ばれ、愛されてると感じること」
それを踏まえて"Zombies are standing out"の歌詞を見て欲しい。
生きる、とは何だ。
ポルノグラフィティというゾンビ
"Zombies are standing out"の主人公も「熱い血が流れていた時」がかつてあった。それが今は失われつつある。
そう考えると最後の「Zombies remember me」はまさに這いつくばっている中で「Hands come out underground」必死に手を伸ばして叫ぶ姿にも見えてしまう。
渇望さえ失ってしまのであれば、人の心は本当に死んでしまう。
ポルノグラフィティはずっと、当たり前のように僕らの前にいるけれど。世間的には、正直にいえばずっと第一線という訳ではなくて、かなりのアップダウンを乗り越えている。
世間的には知らない時期というのもあるだろうし、ファンとしても決して全てが順調とはいえないこともある。
それでもなんとかヒットソングを生み出しながら、ここまで辿り着いた。19年の時を越えて。時代に取り残されないように、必死に活動してきたのを知ってるから、今のこの時代にこんな曲をぶつけてけれたポルノグラフィティが誇らしい。
だからこそ「Zombies are standing out」はまさに時代に立ち向かうポルノグラフィティそのものではないか。
サビの終わり「ここじゃ誰も眠ってはならぬ」が強烈だ。パンチラインとしても圧倒的である。元はやはり「トゥーランドット」の"誰も寝てはならぬ"だろうか。
そういえばあの歌の中で女性コーラスで「誰も彼の名前を知らない…私たちに必ず訪れる、ああ悲しい、死が、死が訪れる。」という歌詞がある。
まぁ、Wikipedia見て思い出したんだけど。
色々書いたけどゾンビとはつまり「復活の象徴」でありながら「思考停止の象徴」でもあるということだ。
最後のサビで「清らかな水をくれ」はファンとしては"アゲハ蝶"を思い浮かべざるを得ない。
そうした時に思い出したのが、つま恋ロマンスポルノも、この間のしまなみロマンスポルノである。
どちらも中盤では"ワンモアタイム"で「I believe, one more time」と歌われて。終盤で"アゲハ蝶"が祈りとして披露された。
日本はこうして何度も天災に苦しめられてきて、それでもまた立ち上がって復興してきた。
まさに「ゾンビ」のように。
そんなテーマも込められているような気がして。
そう考えたときに、さらにこの曲に込められたメッセージだったんじゃないかと思えた。
気付いた時に、感嘆の声を上げてしまった。
だって「永遠の転生」って、まるで花のよう。
こぼれた涙を「未来の種」へと注ぐように。
いや、そうなるとやっぱりしまなみロマンスポルノで披露して欲しかったな。
前編、というか本編はここまで。
後半は、どうしても重ねざるを得なかったジョージ・オーウェルの『1984年』から見る"Zombies are standing out"をお送りします。
【追記】
後編を更新しました。
Zombies are standing outの歌詞の意味を徹底的に深読みする《後編》或いは《存意》
【更に追記】
久しぶりに読むと最後の「だって『永遠の転生』って、まるで花のよう」という文章、この後リリースされるのが"フラワー"だってことに気づいて、ちょっとゾクっときた。
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