「本を読まないということは、そのひとが孤独でないという証拠である。」
ハルカトミユキが9ヶ月ぶりとなる有観客のライヴを行った。
会場は1年前に「7 DOORS」を行った日本橋三井ホールである。
1年前にドアを開けた時には想像さえしていなかった状況に世界は陥っている。そこでハルカトミユキが唄ったものとは。
ハルカトミユキ 「最高の孤独感」感想 @日本橋三井ホール
※敬称略
入場時の検温と消毒を済ませる。電子チケットもスタッフ確認のもと自分で行うようになった。一席間隔ごとに隙間を設けて並べられた椅子。全員がマスクをして待つ会場は、咳一つすら躊躇ってしまうほど独特の緊張感がある。咳を我慢しようとしたら逆にむせそうになった。
SEは音楽ではなく、環境音がずっと流れていた。声だったり車だったりといった音が流れ、部屋の中にいるようだ。
ハルカとミユキがステージに現れ、暗転。その一瞬が息を呑んでしまうほど鮮やかで、早速心を掴まれた。ピアノをバックに朗読が流れる。
ライヴが始まった。
1月
“Continue”
“扉の向こうへ”
僕らがまだいつも通りの日常が今年もやってくると思っていた場所
1年前この場所で最後に新曲として演奏されたのがこの曲だった。
未来を見据えていたこの曲が、1年前に流れていた当たり前の日常を思い出させてくれる。失って気付いた日常の幸せ、なんて陳腐な言葉が浮かぶくらい、当たり前にあった景色。けれど「昔は良かった」とかいう郷愁に似た感覚と言い切りたくない、そんなアンビバレンツな感情になってしまった。
マイクを横向きにセッティングし、ハルカとミユキが向かい合うような形で唄うのが新鮮だった。
同じく、昨年の三井ホールで新曲として映像で披露された“扉の向こうへ”。この2曲が「1月」として選ばれたのは、昨年の「7 DOORS」を受けてだろう。あの時に、次の扉へ進むための新曲だった2曲は、今年に入って全く違って聴こえる曲となっていた。
扉によって世界と自分の存在を分断して、家の中、部屋の中にこもる日々。それから少しずつ日常を取り戻しながら、歩んで開けた今年の三井ホールの扉。その扉は今までなかったほど重かった(手動で開ける扉は会場になかったとか言わないように)。
3月
“ドライアイス”
“未成年”
“シアノタイプ”
“Pain”
“Vanilla”
人がいなくなった街。1年前の光景がなくなった景色
演奏された初期の代表曲たち。
音源を使わず、鍵盤とアコギと唄だけの演奏だった。その分、歌と歌詞がより際立ち、強いメッセージ性を持った。
ここで唄われるのは閉塞感と痛み。先の見えない苦しみ。今いる場所で、もがきながら、なんとか心を繋ぎとめているような曲たちだ。特に”ドライアイス”の「僕らの夜に出口はなかった」「閉じ込められた果てに僕らは」というのは、まだ未来がわからない現状とも重ねてしまうし、だからこそ「ただ生きていて」という歌詞がより重く、切実なメッセージとなっている。
多くの人が心を壊しながら自分を保ってきて、それで生まれた強迫観念や同調圧力の中でも、狂えないまま世界は回っていった。そんな春だった。
5月
“最愛の不要品”
“二十歳の僕らは澄みきっていた”
“ニュートンの林檎”
“奇跡を祈ることはもうしない”
“everyday”
“17才(piano ver.)”
空っぽになった街
“最愛の不要品”は初めてアコースティックで演奏された。毒々しい原曲のアレンジとはまた違って、より生々しい叫びとなって聴こえた。アウトロのフレーズをミユキがピアノで弾いたことで、微かな光が見えるようなアレンジになっていたと思う。
ここからヴァイオリン、ヴィオラ、チェロが加わる。1年前と同じストリングス編成だ。前回は”夜明けの月”と”手紙”の2曲だけだったが、今回は曲が増えてオリジナルのアレンジとなっていたのでとても嬉しい。このまま1年ごとに曲を増やしていっていずれ全編通しでやって欲しいくらい。
前回はミディアムテンポのバラードに寄り添うようなエモーショナルな演出だったけれど、今回はそれだけでなくて、ロックナンバーたちの新しい一面を見せてくれた。焦燥感のあるオブリや、もちろん今回も情緒的な演奏もあり、豊かなストリングス表現を体感することができた。
そして、“奇跡を祈ることはもうしない”。「雨は上がって 星が降る 奇跡を祈ることはもうしない」と言うフレーズを今の状況で聴く時に、僕はなきごとが今年配信リリースした楽曲”春中夢”を思い浮かべた。
誰かが歌ってた愛や恋の歌は
今はやけに嫌味に聞こえてしまっているから
誰かがいってた止まない雨はないってさ
大事なのはそこじゃないの わかってよ
このフレーズと通ずる気がして。楽曲のテーマとしてはそれぞれ違うんだけど、置かれた状況で自分の心と向き合い、今を見つめるという根底にあるものに近しいものを感じたからかもしれない。なきごとも推したくて無理矢理ねじ込んだと思われたら、全くもってその通りだ。
一度ストリングス隊がはけて、再び2人だけのステージに。
今回、セットリストの区切りごとにハルカとミユキの距離が徐々に離れていくという演出がされた。 これでほとんどステージの両端に二人がいる立ち位置になった。途中から戻ったストリングスは中央に配置された。
“everyday”は今年を振り返る上で外すことにできない重要な曲だ。
その前の“奇跡を祈ることはもうしない”が決意を持って前へと歩みだす曲なので、「今もどこかで諦めていない正直な僕がいる」というメッセージは、とても力強く聴こえる。そこに”17才”が続くので、より希望の光が見える。
9月
“君はまだ知らない”
“種を蒔く人”
“夜明けの月”
“世界”
“SFみたいだ”
ひとりぼっちの空
と、思っていたところで9月に入り、演奏されたのが“君はまだ知らない”だった。ライヴで聴いたのはどれくらいぶりだろう。かなり久しぶりに披露されたのではないかと思う。この曲が今聴くとまた違って聴こえ、このライヴの核となったような気がした。
いつ終わるのかわからない、永遠に思える残酷な日々。誰もが出口の見えないトンネルを進んでいる。それでも、僕らが歩み続ける意味は。
奇跡なんてないよ 生きるしかないよ
ここで会えるまで ずっと待ってる
どうしても「ここ」がライヴ会場に思えてしまう。たかが9ヶ月かもしれないけれども、その日々は、とても苦しくて、楽なものではなかった。もちろん、まだ何も終わっていないのだけど、また始めることもできるのだと確かめ合うことができた。”奇跡を祈ることはもうしない”と通じ合っているように思えて。「雨が降り→雨上がり」「奇跡を祈らない→奇跡なんてない」「生きること」など、どうしてもリンクさせてしまう。
決して明るい曲ではないのだけど、不思議なほどこの曲から強い希望の光が見えた気がした。
“種を蒔く人”はチェロに乗せて歌われたことで、より荘厳な雰囲気に。1番のサビで椅子に座って唄っていたハルカが声を詰まらせた。途中から入ったけれど、その歌声は微かに震えていて、叫ぶように願いを乗せる。
大袈裟に言えば、これほど世界中で「生きること」を問い掛けられた年は、そうなかったのではないかと思う。できることが限られた中で、人は種を蒔き続けていた。いつもよりも芽が出るものは少ないかもしれないけれど、いつかまた心の中で育てた芽を確かめ合えるその時まで、僕らは生き続ける。
“種を蒔く人”の「遠くなった空」は、“君はまだ知らない”の「空遠くなる」というフレーズにも通じているように聴こえた。
“夜明けの月”は昨年もストリングスに合わせて演奏された。自分の中でとても大切な曲なので、わかっていても泣けてしまう。以前の野音ライヴで「楽しい時は忘れていてください。でも、辛い時はいつもそばにいます。夜明けの月のように」という言葉からこの曲へ続いた演出があった。
コロナ禍の春。様々なミュージシャンの動向を見た。ある人は創作に励み、ある人は創作する気力がおきないと呟いていた。ライヴもできず、中には音楽を聴くことさえできなくなっていたミュージシャンもいたという。それほどの状況で、やっぱり僕は音楽にすがるしかなかった。決して心が楽になるというばかりでなくとも、最低な自分を最低限守るために。
自分は通勤の時に橋を渡る。そこから行きと帰りに何度も月を見てきた。明け方のぼやけた月も、地球と接近して大きく見えた月も、十五夜の満月も、消えそうな三日月も。淡々と続く仕事と生活の中で、そんな月たちを眺めてきた。
そこに“世界”が続く。ストリングスが入ったことで、よりメロディが軽やかになって瑞々しく輝いて聴こえた。アウトロの合唱は、会場に響かせることはできないけれど、それぞれの胸の中で確かに鳴っていたことだろう。ちなみに、この曲だけ手拍子起きたレベルで静か (曲終わりの拍手は除く)だったので、子どもが沢山いる映画館より静かだったのではないかと思う。
“SFみたいだ”。「最愛の不要品」は5曲とも愛おしい(狂おしい)ほど好きなんだけど、この曲は特に、聴くごとに自分の中で存在が大きくなっている。「また会えたなら」というフレーズもまた、“君はまだ知らない”の「ここで会えるまで ずっと待ってる」に呼応してメッセージが強くなっていた。
ここで、ようやくMCへ。いつも静かめだが、それでもやっぱりいつもと違う空気感はステージにも伝わったようだ。2人の緩やかなMCで思わず笑ってしまいそうになったり、これからも15日の企画が続いていくことが明示された。
音楽が「不要」な存在なのか、僕にはわからない。けれど、目に見えないウイルスが蔓延した世の中で、見えるものさえ信じられなくなった時、僕には音楽という目に見えない存在が唯一信じられるものとなった。
この日のために創られた新曲“最高の孤独”。
デモCDを何度も聴いている。
路上のステージで歌うミュージシャンの下りが出てくる。歌詞の中は架空のミュージシャンかもしれないけど、空の下のステージで歌っているミュージシャンは確かにいて、コロナ禍でも潰えることはない。たとえ音楽が不要不急な存在でも。
そして最後に届けられてもう一つの新曲“Re:”※ 。
※タイトル表記は筆者憶測
ライヴなどの告知もそうだけど、ハルカトミユキは次の一歩を示してライヴを終えてくれるので、それを新たな希望として生きることができる。
「再び」という意味合いが込められた更なる新曲。ハルカトミユキの楽曲でなかったタイプの曲だと思う。それは歌詞についてで、「そんな力をください」というフレーズだ。「ください」という語尾の歌詞は、ハルカトミユキではこれまでなかったと思う。
これは宣言でも怒りでもない、祈りなのだ。
最後の「もう一度生まれる」という言葉は”奇跡を祈ることはもうしない”の、「新しく生まれ変わる」というフレーズを感じさせる。
この歌詞を聴いて想い浮かべた曲がMr.Childrenの”蘇生”だった。この曲の歌詞の冒頭で「虹」が印象的に使われる。「虹」と「生まれ変わる」という言葉で、”17才”の「雨上がり虹が架かるよ」というフレーズを思い出した(この日はピアノver.だったので最後のサビはなかったが)。”蘇生”の「ノートには消し去れはしない昨日がページを汚してても」も、”17才”の「全てが絵の具になるから」を思い浮かべてしまう。
そして“蘇生”の「暗闇から僕を呼ぶ 明日の声に耳を澄ませる」というフレーズ。まさに暗闇のような春と夏を過ぎて、まだ光は差し込んだとは言えない状況で、まだ続いている。そこで読んだ声はなんだっただろう。もし、それが自分の声であったなら、それは明日もまだ自分が生きているという証でもある。そうして日々を繋ぐことが、暗闇の中で生きていくことで最も大切な気持ちなのではないだろうか。
音は空気の振動だ。ライヴ会場という空間で、期待とかそういうフィルターを通して響く音楽は、希望でもある。それと同じくらい、会場にいなければ体感できないことがあって、その一つが無音とか静寂の空気だと思う。曲間とかに流れる静寂の中で自分の中で育つ感情は、会場でなければ味わえない要素だといえる。
「本を読まないということは、そのひとが孤独でないという証拠である。」
という言葉を残したのは太宰治である。
合わせてドレスコーズの志磨遼平がインタビューで引用していた誰かの言葉(なんてややこしい)が「人が読書に費やした時間は孤独だった時間とイコールである」という言葉だ。これらの言葉が今回のライヴを観て頭に浮かんだ。
僕にとってハルカトミユキの音楽は文学でもあって、音楽と触れている時間こそが、自分にとって「最高の孤独」を味わう瞬間だった。
あまりにステージに見入って、自分の意識が客席を超えたような視点になった瞬間があった。そこに孤独があったのだろうか。最初の野音での「ひとり×3,000」というテーマと同じように、沢山のひとりが会場に集まった。それぞれの胸の中で、大切な人を思い浮かべ、それは会場の中にいたかもしれないし、どこかで暮らす人かもしれない。
孤独とかひとりというものは、寂しいものと捉えることもできるけど、自立とか独り立ちと呼べば肯定の意味になる。一人ひとりが自分自身の力で生きている証なのだ。
セットリスト
1. Continue
2. 扉の向こうで
3. ドライアイス
4. 未成年
5. シアノタイプ
6. Pain
7. Vanilla
8. 最愛の不要品
9. 二十歳の僕らは澄みきっていた
10. ニュートンの林檎
11. 奇跡を祈ることはもうしない
12. everyday
13. 17才(piano ver.)
14. 君はまだ知らない
15. 種を蒔く人
16. 夜明けの月
17. 世界
18. SFみたいだ
19. 最高の孤独
20. Re:
【ライヴレポ】ハルカトミユキ Best Album Release Special Live “7 DOORS” @日本橋三井ホール
【感想】ハルカトミユキ「最愛の不要品」
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