2020年7月6日月曜日

【感想】ハルカトミユキ「最愛の不要品」








「不要」という言葉がある。

「必要のないもの」を意味する言葉だ。

一方で「不用」という言葉がある。

「使わないもの」を意味する言葉だ。

ハルカトミユキの新作EPには「最愛の不要品」というタイトルが付けられている。


※歌詞については、インスタにアップされていたものはなるべく合わせてますが、それ以外の箇所は耳コピのため、表記など違う場合がありますのでご了承ください。



【感想】ハルカトミユキ「最愛の不要品」











最愛の不要品




音楽は不要不急のものとされてきた。

それ自体を否定することはできないだろう。

所謂「嗜好品」の部類である音楽は、僕らの身体をつくる食べ物や飲み物を届けてくれる生産者の方に比べれば、必要ないものだ。

ではどこに線引きがあるのだろう。レストランや居酒屋などの外食産業も、コロナウイルスへの対応を余儀なくされている。もちろん、理屈ではわかっている。でも「生きていくために必要なもの」という線引きは、突き詰めれば最低限、死ななければいいだけの水と食糧があればいいと違うのかと言われたとしたら、なんと反論すればいいのだろう。

ここで考えると禅問答になってくるので、本題に入ろう。

ハルカトミユキの新作は5曲入りのEP盤だ。

これまで3枚出ていたEP盤は今まで短歌のタイトルが付けられていたが、今回は「最愛の不要品」というシンプルながら、様々なものを問い掛けるタイトルだ。ある種コロナ禍を象徴するトイレットペーパーと、綺麗な花というジャケットのアートワークもまた素晴らしい。

収録された5曲の制作時期はバラバラであるという。しかしながら、共通するのは2019年11月の日本橋三井ホール「”7 DOORS”」を経たハルカトミユキの”現在”が詰まっているという点だ。日本橋三井ホールでは”扉の向こうで”の映像が流れ、”Continue”が新曲として演奏された。

「”7 DOORS”」そのものがこれまでのハルカトミユキの2人が築いてきたものの集大成であり、新たな挑戦の始まりを告げる大きなターニングポイントとなった。

三井ホールの先にあった扉の向こうにあったもの、それこそが「最愛の不要品」だったのだ。

僕がよくいう「時代の空気を感じながら作品を聴く」ことの意義、すなわち「時代がアーティストに創らせた作品をリアルタイムに聴けるのは今この瞬間しかない」という意味において、2020年の重要な一作であると断言できる。

かつて誰も経験したことない、まさに未曾有の事態の渦中、”今”だからこそ受け止めるものがたくさんあるはずだ。


1. everyday




唄い出しの声からドキっとしてしまう。

「”7 DOORS”」と同じように、これまでのハルカトミユキと、これからのハルカトミユキを繋ぐ重要なブリッジになる曲だと思う。

思うようにならない日々のなかで、それでも希望を見出すこと。
希望を抱くから失望してしまうのだろうか、ならば最初から希望など抱かなければ良かったのだろうか。

いや、人はそれでも「希望を失えない」のではないだろうか。期待をしてしまえば、ほとんどが失望となって返ってくる。しかしながら、時に思いもしないところで「世の中は捨てたものではない」と思えることに出会うこともある。

詰まるところ、世界は自分の力ではどうしようもない。それは愛も同じで。


抱いた失望は、自分を取り巻くものに対してなのだろうか。

ハルカトミユキはこれまで絶望や怒りを描いてきたけれど、その矛先は、実は全て自分に対して向けられていたのではないかと思う。人に期待してしまった自分、人を信じた自分、誰かを愛した自分、それが全て望み通りになどならない。

諦める気持ちと、それでも人を信じたい気持ちが綯い交ぜとなり葛藤していく。

コロナ禍と呼ばれるなかで、その気持ちは悲しいほど増すばかりだ。病んでしまうような情報の洪水に飲み込まれ、それでももがき、見つけた一筋の光。

諦められない、諦めたくない主人公の想いは、恋だけでなく多くのものへ繋がっている。

それを考えたとき、少なくとも僕にとって希望は音楽だったのである。



2. Continue








映画で悲しい場面で悲しい音楽を流すよりも、あえて明るい曲を流した方が、より一層悲しみが引き立つという。これは「対位法」という手法で、9世紀の教会音楽まで歴史は遡るという。

“夜明けの月”で毎回泣けてしまうと言ってるのと相反してしまうが、こうした明るい曲調で日々を唄う”Continue”がどうしても泣けてしまう(けど根底には通ずるものがあると思う)。
そのため、どうしても客観視することがまだできない。


ねえ、もしも本音を言うなら
好きなだけじゃいられないよな
そんな日もあるけど
ねえ、どうしようもない時でも
結局最後に隣に君がいた


ここでもやはり希望と失望を唄っていて、けれど最後のフレーズで、なぜそれでも希望を失わずにいるのかというアンサーになっているように感じた。
なぜなら、まさに自分自身がそんな心境にいるからだ。

僕が最も胸を打たれたフレーズはこれだ。


そりゃ君とならば


サビの終わりにさっと手渡しされるような言葉だが、自分にとって大切な人たちを思い浮かべたとき、数々のことが脳裏に蘇る。

見てきた沢山の景色、時にはうまくいかないこともあったけど、それでも日々は繋がっていて、また続く日々を想う。ふらふらと、よろよろとしながら真っ直ぐな道を蛇行しながら歩いてきた。

だから、ちょっとずれたとしても、また歩いて行ける、そう信じられるのだ。


いきなりポルノグラフィティの話になって恐縮だが、去年の東京ドームで初期の代表曲を作曲し、プロデュースをしてきた本間昭光からメンバーへこんな言葉が送られた。


これからも走り続けると思いますが、時には休んで、とにかく、続けてください。それが大事です


何十年も業界に携わった本間昭光からの言葉、それが「続けていくこと」の大切さだった。
それほど、続けていくことは難しい。ならば、今まで「当たり前」に続いてきたものが、どれだけの物事を経て「当たり前」となったのだろう。辺りを見渡せば、そんな「当たり前」がいくつも転がっている。

この曲について、「普通の曲」というようなニュアンスの言葉を見かける。
たしかに、この後に続く”最愛の不要品”のような毒々しさや強い言葉はないかもしれない、けれど、僕は”Continue”も同じくらい強さを持っている曲だと思っている。

強い言葉で反抗を唄うことがロックなのだろうか。そんなもの、誰でも発することができる。現に、僕らは毎日、嫌というほどそれが飛び交っているのを目にするではないか。

本当の強さとは、「失ってはならないもの」を唄うことなのだと思う。


何度も書いているが、「ねえ」という言葉にドキッとさせられる。

それあh、情けない自分の本質を突かれているかのように感じるからかもしれない。

だからこそ、僕にとって”Continue”の言葉はどんな”強い”言葉よりも刺さり、心を揺さぶられるのだ。


「こんな調子で」「そんな調子で」という関係は、どこかアーティストとファンという関係にも通じる。

そのメッセージは“SFみたいだ”で語られるものにも繋がっているように感じた。



3. 最愛の不要品




表題曲。

何を根拠にというものはないのだが、初披露されたときに、予想と大きく違ったダークな世界観に驚かされた。敬愛するavengers in sci-fiの木幡太郎と稲見喜彦によるアシッド感のあるアレンジが最高だ。

可能な限りの低音を響かせれば、そのアウトロでいつまでも酔って踊れることだろう。

「音楽は不要品か」という議論へ叩きつける「不要品で上等」という言葉に胸のすく思いがする。

陳腐な言い方をすればホラー映画が行き着く「本当に怖いのは人間」ということをまざまざと見せつけられる日々が続いている。”近眼のゾンビ”たちが、まさに目の前で暴れている。

偽善はなぜ偽善たるのか、なぜ偽善は暴走してしまうのか。

それは、僕は偽善が利己的な目的(倫理的利己主義と呼ばれるもの)に根付いているからだと思う。それが仮に「自分は利他的な行動をしている」という自負があったとしてもだ。

「最愛の不要品」とは、そんな状況下で。「愛するものを失わずにいられるか」という問いかけなのだと思う。この「失くす」は物理的に失うということではなく、見失わずにいられるかという意味合いだ。

文化や文明は土地や人種などに基づいて発展してきた。たとえば日本は比較的「文化指向」にあり、欧米では「文明指向」が強いと云われている。諸説あるし、これを掘ると終わらなくなるので控えめにするが、そうした異なる文化や文明さえ関係なく、ウイルスは世界中に広まり、人種や年齢も関係なく感染を広げている。

それに対抗できるものがあるとすれば、人種も種族も関係ない、人類誰もが共通で抱くことができる「愛」という概念なのではないかと思う。










4. SFみたいだ




コロナ禍の英国で外出自粛となって人がいない街に、野生のヤギや羊が降りてきて街を闊歩していた。
そのニュースを見て「映画みたいだな」と思った。

日本でも緊急事態宣言が出された街から人がいなくなり、東京駅や新宿駅などで人の写っていないディストピアな光景が目に入った。





少し前に発売されて話題になった『東京幻想作品集』は、ここしかないという絶妙なタイミングで出版さえた。内容はイラストレーターによる人がいなくなり、廃墟となって自然に呑み込まれていく東京を描いたイラスト集だ。こんな事態が続けば、本当にいつかこうなってしまうのではないか、という説得力を持っていた。

SFやホラーなどでディストピアの世界になってしまう描写はしばしば描かれてきた。
その結末は、ほとんどが劇中で起こる何らかの問題に立ち向かい、解決して終わることが多い。つまり、世界はそのままで続いていく。「続・猿の惑星」で地球は消滅するじゃないかって? そういうことを言い出すからSFオタは煙たがれるんだぞ。


人が恐れを抱くのは何かを失うことだ。築き上げてきたもの、得たもの、愛とか命とか。
フィクションで「もう失うものなんてない」という台詞をよく見かける。しかし、現実には人は必ず何かしら失えないものを抱えているものだ。もちろん、ニュースなどでそういった心情により犯行に走ったような人たちのことを感じることもあるが……


明日どんな風に死んだって嘘だよ、と笑ってよ
それ以外失くして困るものなんてないんだよ


このフレーズがふいに刺さって、もう何か月も見れていない顔が思い浮かび、泣けてしまった。

けど、最後のフレーズ


また会えたなら一緒に観ようよ
それまでどうか元気でね


たとえ失うものがなくとも、失くすことを選んではいけないものもある。

ちょっと穿った見方をすると「沈黙の春」というフレーズで、レイチェル カーソンの『沈黙の春』を思い浮かべてしまった。






そこで語られる農薬や殺虫剤などの化学物質の危険性は、今も避けられないテーマだ。

人と世界との関わりにおいては、読んで損はないだろう。
ただ正直、読んだときには色々と苦しくなってしまって読み進めるのが大変だが、興味がある方は読んでみていただきたい。

もちろん日夜、様々な研究がされているなかで、一概に言い切ることなどできないが、人が生み出すものは薬になるものもあれば、時に毒のような危険を孕むものもある。

ただし生み出すことが問題なのではない、その使い道を誤ってしまうのが人間という存在なのだ。

そして、それを繰り返してしまう。
だからこそ、1962年の出版の『沈黙の春』が今でも語られるのだろう。

結末を忘れられるディストピアがSFの中だけで終わってくれることを願う。



5. 扉の向こうで








たとえばそれは、飛び乗った電車の扉が隔てたものかもしれない。
たとえばそれは、一人の部屋と世界を繋ぐもの、或いは断絶するものかもしれない。

人が扉をくぐるとき、そこに何らかの目的が必ずある。


発売前に、ハルカのツイートによって、それぞれの「最愛の不要品」が集められた。





大切にしてきて今は使っていないもの、けれど捨てられないものが、リプライに寄せられた。僕も投稿している。






「”7 DOORS”」では募集して集められたそれぞれの「扉を開けたもの」が映像となって流れた。
集められたもの、それもまた一つの「最愛の不要品」だ。

どうしても捨てられないもの、それを思えば「希望」もそうなのかもしれない。

「”7 DOORS”」のために書き下ろされたような曲だが、こうして今の時世で聴くとまた違った印象となる。

部屋と何かを繋ぐ物理的な扉だけでなく、人によってその扉は様々だ。
ある人にとってはネットがそうかもしれないし、自分の心の内にある扉もあるかもしれない、或いは「扉を開けたもの」たちのように、身近にある何かかもしれない。

「ハロー」

と呼びかける声は誰のものだろう。

Can you see me?
Can you hear me?

と問い掛けるのは誰のものだろう。

それは誰かと繋がることかもしれないし、自分自身へ問い掛ける声なのかもしれない。

「”7 DOORS”」を思い出す。

ハルカトミユキの軌跡を感じ、最後に流れたこの曲。

その問い掛けに、今なら答えられる気がする。

届いた歌を、音をひとつずつ噛みしめながら。

やはり僕には、音楽は希望だ。

そんな結論にまた着地してしまう。



まとめ



このブログの性質上歌詞の面をフィーチャーしているが、アレンジや演奏はじめ音楽面でも素晴らしい5曲だ。ミユキのキーボードも時に唄に寄り添うように、時に共に戦うように響く。作曲面でもまだまだ広がりを見せており、ハルカトミユキを支える重要な要素となっている。

アベンズだけでなく、初期のハルカトミユキを支えた安原兵衛のこだわり抜いたアレンジも必聴である。
音がいいだけに、可能であればハイレゾ配信も期待したいし、アートワークの良さもあるので、是が非でもCDでのリリースもいつか叶えばと願っている。



突き詰めると「最愛の不要品」とは、命なのではないかと思う。
命に価値はあるが、意味はない。ただ、生まれてここにあるものこそが命だ。

ならば、表現とはなんだろう。

表現者が自分の内側にあるものから生み出した作品、それもまたひとつの命だ。
なぜなら、命と魂を削ってできたものこそが作品なのだから。

大袈裟かもしれないけれど、僕は限りのある命の時間を削ってそれを聴いている。
そこにある音楽も、聴いている僕自身の存在は、無意味で不要なものかもしれない。

では、なぜ僕らは不要な音楽を聴いているのだろう。それは、音楽が「不用ではない」からではないか。

「不要」でなくなる、それは自分にとって要らない存在である。

しかし、もう一つ意味があると思う。

それは、「もう必要ではなくなった存在」である。

ライナスの毛布のように、自分にとって必要だったものから離れる、自立できるようになったとき、それはその人にとっての「不要」な存在となる。
けれども、それを抱きしめていた過去ももた、その人を築き上げてきた「不用ではない過去」だ。

毛布を見ることで、強くなった自分を描くかもしれない。

それこそが、その人にとっての「最愛の不要品」なのかもしれない。

けれど僕はまだ毛布にすがるように、音楽を聴いている。

だから弱い僕にとって、音楽はまだ必要であり続けるのだ。



【ライヴレポ】ハルカトミユキ Best Album Release Special Live “7 DOORS” @日本橋三井ホール

ハルカトミユキ "Triad"大阪LIVE SQUARE 2nd LINE ライヴレポ・セットリスト

コロナ禍にも動じないミュージシャンの特徴



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