2018年12月5日水曜日

"朱いオレンジ"と"愛なき…"は精神的双子ではないか








ポルノグラフィティの楽曲"朱いオレンジ"について考えていた。

それは、亀のように進む全アルバムレビューで、ようやく「WORLDILLIA」に取りかかっているからである。
※先日アップしました

ポルノ全アルバムレビュー4th「WORLDILLIA」

"朱いオレンジ"について考えて歌詞と向き合った時に、"愛なき…"と通じるものを感じた。もちろん、同じ人間が歌詞を書いているのだから、通ずるものがあっても不思議ではない。

しかし、全アルバムレビューでやってしまうと、あまりにマニアックだし、長くなってしまうので、記事を書くことにした。こういうことをしてるから進まないのである。

それが色々なものに繋がってしまったので、少し長いがお付き合いいただきたい。







朱いオレンジ




岡野昭仁がとても内向的な歌詞を連発してファンに心配されていた時期の楽曲である。しかし、この後シングルとして"音のない森"リリースし、その最後の歌詞にあるように、光のあたる場所へと向かい始めた。

主人公は願う「僕を溶かしてよ」と。そこで溶かして欲しいと願うものは何か。

それは行き場をなくした言葉たちが溜まって塊となったもの。まるで渦に呑み込まれて排水口に塞がれたように、それは澱のように沈殿してしまう。

呑み込んだままの言葉は、自分の本心である。
吐き出されず言葉は死んでしまう。それは自分の心を殺すということでもある。

主人公の想いは内へ、深くへと沈んでいく。繰り返される自問自答に答えはない。なぜなら、答えはとっくに知っているからだ。

本当に必要なものとはすなわち、灼熱の抱擁と愛撫である。

自分自信の弱さも何もかも、認めているからこそ誰か、他人の承認を求めてしまう。

何かを愛するとは、それほどの力がある。
それだけのエネルギーを生むからこそ、それだけのエネルギーが必要なのだ。


タイトルがなぜ"朱いオレンジ"というのか、ずっと考えていた。

オレンジについてはちょっと解釈に迷っている。

1つは色としてのオレンジ。
"朱いオレンジ"を色としての「ブラッドオレンジ」として受け取るなら、それは「血のようなオレンジ」という意味とも取れる。

"アニマロッサ"(=赤い魂)にある通り、岡野昭仁にとって、「赤(朱)」とはつまり、燃える魂の色なのだ。

赤やオレンジは一般的にはバイタリティのある色として浮かべられる。
前向きな意味がほとんどだが、解釈の一つとして、その積極性は後ろ向きな感情へも同じだという説もある。

爪が食い込むほどの想い、それがもたらすものは血の赤の色でもある。
同時にその赤は生きている証でもある。それこそが、主人公が自分と向き合い続け、前に向けて懸命に進もうとする力でもあるのではないだろうか。

残りについては、後述で少しずつ触れることにする。



愛なき…




そうした中で2ndアルバムに収録された"愛なき…"という曲は、それと対を為す存在ではないかと思えてしまう。

愛がなくなってしまった時代に、愛を信じること。それこそが主人公の強さと同時に、恋に対しての盲目的な空気さえも醸し出す。

「だからずっとこの胸こじ開けてくれ」という歌詞は、切々とした願いのように響く。

愛するものを守ること、それに伴うエナジーは強烈と歌う。

愛とは生きることなのかもしれない。
愛し、愛されることで、そこに意味を求めるように抱きしめあう。

たとえそれが不実なものであったとしても。

それは、新藤晴一が歌詞を手掛けた"憂色~Love is you~"における、


oh.darlin'. Love is you
眠れない夜を重ねただけ
愛が育ってくよ
悲しみの果実


というフレーズを思い返してしまう。

「実」という字は不思議なもので、元々は「充たされる」という意味から派生しているという。
「果実」は中身が詰まっているほど成長したものという意味が後付けされたものらしい。

充ち足りるということを考えた時に"愛なき…"のあるフレーズが思い返された。

あなたが気付かせた恋が、あなたなしで育つように、ひとりの夜に愛は育っていく。
眠れないほどの想いを越えて、悲しき果実は実っていく。

不実、真実、そして果実

どんな想いも、夜を越えて充たされてゆく。










充たされること




キミは砂ボクは雨水
交わるたび澄んだ愛に変わる


大好きなフレーズである。
これだけでも充分に好きなフレーズであるが、このフレーズを聴くと思い浮かべてしまう噺がある。

ある教訓のような噺がある。
コピペとして出回ってるので、見たことある方もいるかもしれない。

少し長いが引用したい。


ある大学で、こんな授業があったという。 

「クイズの時間だ。」教授はそう言って大きな壺を取り出し、教壇に置いた。その壺に、彼は一つ一つ石を詰めた。壺が一杯になるまで石を詰めて、彼は学生に聞いた。
「この壺は満杯か?」

教室中の学生が「はい」と答えた。
「本当に?」そう言いながら教授は、教壇の下からバケツ一杯の砂利を取り出した。そして砂利を壺の中に流し込み、壺を振すりながら、石と石の間を砂利で埋めていく。そしてもう一度聞いた。
「この壺は満杯か?」

学生は答えられない。
一人の生徒が「多分違うだろう」と答えた。教授は「そうだ」と笑い、今度は教壇の陰から砂の入ったバケツを取り出した。それを石と砂利の隙間に流し込んだ後、三度目の質問を投げかけた。
「この壺はこれで一杯になったのか?」

学生は声を揃えて、「いいや」と答えた。
教授は水差しを取り出し、壺の縁までなみなみと水を注いだ。彼は学生に最後の質問を投げかける。
「僕が何を言いたいのかわかるだろうか?」

一人の学生が手を挙げた。「どんなにスケジュールが厳しい時でも、最大限の努力をすれば、いつでも予定を詰め込む事は可能だということです。」

「それは違う。」と教授は言った。

「重要なポイントはそこにはないんだよ。この例が私達に示してくれる真実は、大きな石を先に入れない限り、それが入る余地は、その後二度と無いという事なんだ。」
君たちの人生にとって”大きな石”とは何だろう、と教授は話し始める。「それは、仕事であったり、志であったり、愛する人であったり、家庭であったり、自分の夢であったり。」

「ここで言う“大きな石”とは、君たちにとって一番大事なものだ。それを最初に壺の中に入れなさい。さもないと、君たちはそれを永遠に失う事になる。もし君たちが小さな砂利や砂や、つまり自分にとって重要性の低いものから自分の壺を満たしたならば、君達の人生は重要でない何かに満たされたものになるだろう。」「そして大きな石、つまり自分にとって一番大事なものに割く時間を失い、その結果それ自体失うだろう。」


キミという砂で満たされた壺。もう隙間はないように見えても、実はまだ水は入ることができる。

それが澄んだ水となり、2人を充たすものともなる。
交わした愛の数だけ、"実"は充たされてゆく。

それこそが僕を救う存在なのだ。


しかし、だからこそそれが喪失された時、心は破壊されてしまう。

なぜなら。


君の形 僕の形 重ねてはみ出したものを
わかり合う事をきっと愛とか恋と呼ぶはずなのに



オレンジ色の夕陽から夜空に変わるように。


お互いに欠けているものを充たし合うこと、それこそが愛なのだ。
それを失うことは、欠けた自分を思い出すということでもある。

"朱いオレンジ"と"愛なき…"を続編のような感覚で最初は捉えていたが、そこに順番はない。
幾度となく裏返る、表と裏のような2曲なのである。

なので「精神的双子」という言葉をあえて使った。

2人の人間がそれぞれに抱く感情、そのシーソーこそ、人が繰り返す恋というものなのだ。


愛なき時代にキミをどれだけ愛していても、それが終わってしまうことも、時には訪れる。そうした時に、心は閉ざされてしまうのではないか。

まるで、鋼鉄の鎧をまとったように。



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