2018年11月22日木曜日

フラワーの歌詞について本気出して考えてみた~映画「こんな夜更けにバナナかよ 愛しき実話」主題歌








ポルノグラフィティの新曲"フラワー"がカフェイン11でフルオンエアされた。

今年リリースされたシングルはどれも、初オンエアになって発売なり、配信なりしたらひたすら気が狂ったように聴いていた。

今回も"カフェイン11"を録音して、何回も聴き返していたけれど、いつものとは違っていた。

軽い気持ちでリピートできない。
それほど受け止めるものが多く、大きすぎて、聴くには覚悟が必要な気持ちになってしまう。

なぜそんな気持ちになるのか、覚悟して何度も聴いて、曲と向き合って自分なりの答えを出すのに時間を要した。

それでも、少しでも掴んだ気持ちを今の自分としてここに記したい。おそらくこれから先の人生で、聴く度に印象も捉え方も変わっていくことだろう。


※記事中で「障害者」という言葉を使うが「障がい者」ではなく、あえてこの表記を使うのは原作小説に倣ってである
※映画はこれから公開なので原作のネタバレになりそうな箇所は書かないでおく



ポルノグラフィティ"フラワー"歌詞解釈
映画「こんな夜更けにバナナかよ 愛しき実話」主題歌










曲について







この曲は大泉洋主演映画「こんな夜更けにバナナかよ 愛しき実話」の主題歌である。

原作は渡辺一史が2003年に発表した『こんな夜更けにバナナかよ: 筋ジス・鹿野靖明とボランティアたち』。それを映画化したものである。






筋ジストロフィー※という病と闘った男、鹿野靖明を描く。
※「筋線維の変性・壊死を主病変とし、進行性の筋力低下をみる遺伝子の疾患」


カフェイン11でオンエアされた際に新藤晴一は「フィクションではなくノンフィクション(実話)だからこそ歌詞が難しかった」とコメントしている。


"ブレス"の歌詞についてもポケットモンスターというタイアップに対してどう向き合うか悩んだとのことだった。

もちろん、これまでの歌詞も苦労して書いているはずであるが、同じ年にこれほど歌詞に悩んだとコメントするということが続いたのは、今だかつてなかったと思う。

それは原作小説にも通じていて、原作の渡辺一史自身も悩みに悩み抜きながら書き上げている。そうした現実と向き合い、それを言葉にすることの困難を幾度も経て、この"フラワー"は誕生している。

歌詞については、いつものようにこれから長々書くので、まずは曲、歌について。


"カメレオン・レンズ"
"ブレス"
"Zombies are standing out"
"フラワー"


今年に入ってリリースされた、同じ人間の口から出た歌なのである。


どう考えても正気ではない。

曲が発表される度に僕だけでなく、ポルノファンはみんな間違いなく思ってきた。「岡野昭仁また進化した」と。
それは歌が上手くなっていくとか、そういう次元ではない。


不倫ドラマ→ポケモン映画→ウォークマン(ゾンビ)という異種格闘技タイアップバトンリレー、それが実録のノンフィクション小説が基の映画の主題歌に繋がるのだ。

これらを表現しきってしまい、尚且つヴォーカルとしても毎回挑戦している。アップデートではなく、もはやコンバートである。何より、鬼のように恐ろしいのは、それをライヴでも体現しきってしまうところだ。

たとえばギターという楽器は本体も持ち替えられるし、エフェクターとアンプの組み合わせもあるし、高音~中音にかけてかなりの音域もある。音作りはいくらでもできるので、これだけジャンルレスな楽曲にも対応できる。しかし、岡野昭仁はその身体ひとつで、その声だけでそんな多様な曲たちを表現しきらなければならない。そう考えると、あらためてヴォーカリストとは恐ろしい人間だと思う。


アルバム「BUTTERFLY EFFECT」が発売した頃に「"夜間飛行"から"真っ白な灰になるまで、燃やし尽くせ"に行く曲順はおかしい」と書いたが、もはや今となっては何の違和感も感じない。"海月"から"ライラ"のがよっぽどヤバかった。


今回の"フラワー"でも、抑えた唄い出しから、激情の叫びにも近い歌声へと変化をしていく。
こうした力のこもったバラードは他に"EXIT"などがある。だが"EXIT"は人混みを掻き分けて行く末を、君の存在を見出だすような曲に対して、"フラワー"は下、深くへ突き刺さっていくようでもあり、地面を割って決死でその花を咲かせようとする生命力を描いている。激情でありながらも、違う方向性なのだ。

それを支える篤志のアレンジもまた出だしからドラマチックだ。イントロから続く漂うようなピアノ、そしてそこから続くAメロのアコギのアルペジオがアクセントを与え、ドラマを盛り上げる。

では、次に歌詞について見ていこう。




フラワー




"カメレオン・レンズ"
"ブレス"
"Zombies are standing out"
"フラワー"


今年に入ってリリースされた、同じ人間の頭から出た歌詞である。

どう考えても正気ではない。


「フラワー」つまり「花」というのは古来より人々の間で文化的なモチーフとして用いられてきた。花そのものを嗜んだり、絵画、音楽、写真、詩、映画など、多くの影響を与えている。

花が持つ可憐さと儚さ、綺麗な姿だけではない、数えきれないほどの種と、その種たちが持つそれぞれの魅力を持つ。

人はなぜ花に惹かれるのだろうか。それはどこにも行けない存在でありながら、美しい花を咲かせ、ただただ上を目指して咲き誇る姿があるからこそなのかもしれない。

人はいつも迷う。

だからこそ、そんなひた向きに生きる花に心を向けてしまうのかもしれない。

別の記事でも触れたが、花は人そのものを写し出す鏡のような存在でもある。肌の色も咲く場所も人それぞれに違った個性を持っていて、それはまるで人類のようではないか。

枯れてしまっても、次の季節にまた美しい花を咲かせる存在は、希望として人々によって受け止められる。

たとえばMr.Childrenに"花─Memento-Mori─"という曲がある。そこで描かれるのは、上手く行かない現状とそれでも花のように笑っていようというメッセージである。

もうひとつ例を挙げると森山直太朗が中孝介へ提供した楽曲"花"でも「花のように 花のように/ただそこに咲くだけで 美しくあれ」という言葉が唄われる。

どちらにも共通するメッセージは「等身大」「あるがまま」であること。

無理に背伸びをするのではなく、そこにある花のようにあるがままに生きることを唄っているのだ。

そうはいっても、人はそう簡単にはいかない。思っていても、あるがままに生きることは、困難なのだ。

だからこそ、また次の季節に花が咲くように、人は過ちを繰り返してしまうのかもしれない。



それぞれの道




所謂「ポジティブ」な曲は世に溢れてて、それが伝えるほとんどのメッセージは「君はどこにでも行ける」という歌詞である。その気持ちも大切であるが、そうであったとしても、どこにも行けない人だっている。

それを歌ったのが今年リリースしたシングル「ブレス」で唄われたメッセージであった。誰に背中を押されるでもない、自分自身で道を決めて歩いてゆく。

変わらない命を燃やしながら。


"フラワー"でもそんなメッセージが込められていて、それが出てくるのが2番の歌詞だ。

雨やどりのバッタが花へ問う。


「ねぇ 君は寂しくはない?」


バッタの言葉はどこか、自分に語りかけているようにも聞こえる。まるで「どこに行けばいいの」という問いのようにさえ。バッタは自由な存在だ。しかし、雨から逃げて花の下へ来る。

まるでそこにしか行き場がなかったように。
そこにどこか皮肉のようなものを感じてしまう。

ではバッタの問いに対する答えはどうだろうか。
それが歌われるのが2番のサビの歌詞である。


大地の深くにまで 張りめぐらされた根が
命の記憶と繋がって


花は空に伸びると共に、その生きる力のために根を広げる。

植物には記憶があるという説もある。そして周囲の環境を敏感に察知して生きている。
たとえばトマトは危険を感じると化学物質を放出して周囲に危険を知らせるという説があるし、知性があるとする説もある。

命を繋ぐということは、その身を守る術も持つという意味でもある。


原作「こんな夜更けにバナナかよ: 筋ジス・鹿野靖明とボランティアたち」の中で鹿野はその身でボランティアたちに知識を与えていく。

「できる」と「できない」の境界は曖昧だ。

鹿野は貪欲に生にしがみついている。その姿に美しさなんかない、サバイバルなのだ。障害者だろうが弱者ではなくて、ただのワガママなエロジジイこそが鹿野靖明という男だ。

そこにこの作品が持つ、一般的なイメージの「障害者を扱った作品」とはまったく異なる。

これは、人間と人間の同じ命を介したぶつかり合いが描かれる物語だ。それは、たとえば24時間テレビなどに感じる違和感をこの作品でしっかり言ってもらえたように思う。


そんな美しくない鹿野の姿であるが、そこに花のひた向きさと同じ気持ちを重ねてしまう。

それは"フラワー"という楽曲を聴いているからだろうか、或いは新藤晴一が悩み抜いた末に感じて生み出したものと同じものを見るからだろうか。


岡本真夜のヒット曲"TOMORROW"の歌詞で、


涙の数だけ強くなれるよ
アスファルトに咲く花のように


という有名なフレーズがある。
花は懸命に生きていく。たとえアスファルトに閉ざされたとしても懸命に這い上がる。そうまでして命を全うしようとする。

花はか弱いものだから、儚く見えてしまうのだろうか。
それは人間のエゴなのかもしれない。どれだけの人がそれほど命を全うできているだろうか。











フツウと平等




先にも書いたが鹿野は障害者でありながら、一般的な弱さを持つ者の姿としては決して描かれない。もちろん身体は弱くとも、生にしがみつく、生き抜こうとする力が誰よりも強いのだ。その力は多くの人に影響を与える。

だからこそ、本になり、映画になり、人の心を打つのだろう。

原作小説の中でボランティアたちへのインタビューが掲載されている。ボランティアたちは入りたての頃は鹿野に対して「コワレモノ」を扱うように対応してしまうという。そこに障害者に対して「フツウ」に接することの難しさを表している。


それが人と花の関係にも似ていないだろうか。

鹿野靖明のことを温室で丁寧に育てないと生きていけない花だと思って接するつもりが、その花は道端でどんな悪条件でもその花を懸命に咲かせる花であったのだ。

そこには太陽や土からの栄養や雨からの水分など、外部の要因がなくてはならない。しかしそこにお節介に肥料を与えなくても、その命は花を咲かせる。

「フツウ」とは「平等」とはなんなのだろうか。
フツウであることは平等ではない、そして平等であることはフツウではない。

平等のために不平等が生まれる。

健常者であるからフツウではない、障害者であるからフツウではないわけではない。

フツウとは何か、わからなくなる。

たとえば鹿野は24時間の介助が必要である。それが、鹿野や周りのボランティアにとってのフツウであり、自然なことなのだ。それと健常者たちのフツウを比較することはできないではないか。

そして障害を持つ者のなかにも特別扱いをしろという主張も、特別扱いするなという主張もあるはずなのだ。

それなのに、画一的に平等、権利、フツウを主張する人たちがいることに、どこかパラドクスを感じてしまう。個の時代に全体主義を主張してしまうからそうなってしまうのではないだろか。その感覚が、



ポジティブな言葉で
溢れているヒットチャート
頼んでもないのにやたら背中を押す


という"ブレス"の歌詞に受けた溜飲が下がる想いと通じた。

道端に咲く花もあり、温室で育つ花もある。それぞれがそれぞれのフツウを求めて生きる、ただそれだけではないか。


どちらかを笑うことなかれ羨むことなかれ
それぞれの道がある
誰も君の道は行けない


"ブレス"が"フラワー"に通じると感じたのは、そのためかもしれない。



孤独




根に残る張り巡らされた記憶たち。

僕はそれが「家系図」と重なった。脈々と受け継がれ、広がってゆく命の記憶たち。それはピクサーの映画「リメンバー・ミー」で記憶が消えた時に本当の死を迎えるように、記憶とは命なのだ。






誰しもがその根の先に生きている。

「一人じゃない」という言葉は、歌詞としてはあまりに使い古されている表現だ。ポルノグラフィティにおいても"君は100%"や"キング&クイーン"のように、岡野昭仁の手掛けた歌詞に度々登場する。

しかしそれは、岡野昭仁がヴォーカリストとして自分の言葉で説得力を持たせ伝えられるという強みがあるこそ書ける言葉だ。

それが新藤晴一の場合、たとえば"パレット"においても「君ひとりじゃ持ち切れないのなら僕が半分持っていてあげるから」という言葉になるように、直接的に描くことはあまりなかった。

そんな新藤晴一がタイトルであるフラワー(花)というテーマもそうだが、云わば歌詞の王道、手垢にまみれた「一人じゃない」というフレーズを選ぶことは、相当の覚悟の上で選んだ言葉ではないだろうか。


あらためて考えると、新藤晴一の歌詞にはいつも「孤独」があるように思う。その「孤独」は「自分自身の力で生きてゆく」という力のことでもある。

独り夜に生きても、愛する人と別れても、壊れてしまった少女に刃を向けるのも、見渡す限りの荒野に立っても、朝焼けの公園の片隅にいるのも、いるのは自分自身だ。
そこで描かれる孤独は、死生観を孕んでいる。

岡野昭仁がその歌の力で外から人を支えるなら、新藤晴一は言葉で心の底から人を立たせようとする。ポルノグラフィティとは、そういうアーティストなのだ。だからこそ、多面的な魅力となり、そのレイヤーは重なり続け新たな魅力を生む。


花とバッタのくだりがあることもあるが、歌詞の世界観はファンタジーのようだ。しかしながら、僕はそこに圧倒的なまでの「現実」と「人」を感じる。それは花に人を重ねるからだ。

これほど新藤晴一が真っ向から「人」を書こうとした歌詞は多くない。強いていえば"デッサン#2 春光"が唯一近いテーマかもしれない。



永遠




花というものに、僕は「永遠」を重ねてしまう。それは書いてきたように、花は枯れ、次の季節にその花を再び咲かせるからである。

前に記事にしたが、ポルノグラフィティの描く永遠は様々だ。


永遠でなくてもいい 限りある命と
愛しい時が流れて
小さな泡になって消えていく瞬間
それさえ愛したい

~グラヴィティ


僕が"永遠"を好まないのは
今日の次にある明日を求めるから

~Mugen


というように、永遠を否定することで、今ある命を描く。
限りがあるから未来を願う、そして未来を願うことは、今を生きているということだ。

人に与えられた永遠は、喪失しかないという現実。
人に与えられた唯一の永遠こそが「死」であるならば、僕はやはり永遠なんて望まない。

ポルノグラフィティに関して何か発表になると「これでまた生き甲斐ができた」と書くことがある。冗談半分のようで、本心でもある。たとえばライヴが決まり、チケットが取れれば僕はその日に向けてなんとしても死にたくないと思いながら生きている。


"カメレオン・レンズ"
"ブレス"
"Zombies are standing out"
"フラワー"


今年響いた曲たちが、もし僕のいない世界にこの曲たちが生まれていたら、語弊がある言い方になってしまうが、死んでも死にきれない思いになるだろう。


命ということに向き合って、思い出したことがあって。






犠牲になった方のなかにはポルノグラフィティのファンらしき方もいた。
だからというわけではないと言い切りたい。だがどうしても、そう思えない。

不慮の事態というものは、誰しもに起こりうることで、僕という人生はたまたまそれに遭遇してないだけではないか。

"フラワー"を通じて、どうしてもというものを考えてしまう。
死が終わりではない、それは分かっていても、本人にとっては全てが永遠に還されるだけなのである。

今この瞬間を生きなければいけない。頭ではそう思っていても、僕はどれだけそれを叶えているだろうか。

しかし、鹿野靖明という男はそうやって生きるのだ。
日々、死が隣にあり、どこまでもそれに怯え、抗おうとする。それはそのまま死んでしまうかもしれないという恐怖から不眠症になるほどである。

命を燃やすとは、生きるとは、つまりそういうことではないだろうか。

同時に、ひとつ思うことがあった。それは花が繰り返す命とは「輪廻」という概念ともどこか通ずる。
そして、「根」とはつまりあの林檎の木だとしたら、そこから脈々と繰り返される命の繋がりではないか。

そう思った時に、「花」という象徴はすべての宗教観念の壁を越えて、時代も人種も国も超える共通で普遍的なテーマではないか。


ここまでまたしても長くなってしまったが、最後に多くの人に読んで欲しい言葉を引用したい。



種を蒔く人



花というテーマで、僕はどうしても重ねなければならないことがある。

何かと名前を出すアーティスト、ハルカトミユキが今年の初めに行ったツアーが花をテーマにしていた。

そしてそこで重要になった曲がある。それが"種を蒔く人"という曲だ。この曲が"フラワー"とどうしても繋がってしまうため、最後に書かせてもらう。

この曲にはこんな歌詞がある。


身を焦がした愛 溶けていった虹
人はずっと 種を蒔いてゆく
浮かぶ面影は 蜃気楼の果てに
還らぬときを儚く揺らした


そして、この曲にヴォーカルのハルカはこんな言葉を残している。


生きてる間ってきっとほとんどが静かに耐える時間
華やかな瞬間なんてほんの一瞬
それが必ずくるともわからないし
何のために今じっと耐えているんだろうと思うことばっかり
もしかしたらそれが人生の全部かもしれない。
でもそれじゃあまりにもむなしいから
種を蒔いてるんだって思った。
それが今日咲かなくたって明日実らなくたって
毎日種を蒔いてるんだって
いつかの誰かが種を蒔くことをやめていたら
今私は生きていないかもしれない、歌っていないかもしれない
だから私が今やっていることもいつかどこかに繋がって花になるなら
それが生きている意味かもしれないと


人は誰かの心に種を残してゆく。それは新藤晴一の「一回ね、人と出会うと終わりなんてないでしょう?」という言葉に繋がる。

そして、それは鹿野靖明も同じである。
ベテランのボランティアにも、そうでないボランティアにも、鹿野靖明は関わるすべての人に種を残してゆく。

その種は本になり、映画になり、より多くの人に種を植えてゆく。

その種はどんな花を咲かせるだろうか。

咲かせず枯れさせてしまうこともあるかもしれない。

それでも、命は何かを与えていく、それを誰かが受け継いでいく。

どれだけの孤独の先にも、真の孤独などない。

命が生まれたからには、誰かの人生にも種を与えるのだ。

綺麗ごとでも、理想論でもない。

そこに咲く、花のように。

最後の最後に、そんなハルカトミユキが、ツアーで歌った未発表曲の歌詞を載せ、この記事を終えたい。



偽って 偽って 偽って 咲いたって
君を喜ばせられなかったから
本当は平凡で小さくて情けない
それでもどうかこの花を受け取ってほしい

〜"その花の名前は"




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