集大成という扉はゴールではない。
ハルカトミユキのベストアルバムツアー、その最終公演となったのが、日本橋三井ホールで行われた「7 DOORS」である。
7年間の全てを出し切った、あまりにも見事なライヴ、そこに見た未来に泣いた夜。
ハルカトミユキ Best Album Release Special Live
“7 DOORS” @日本橋三井ホール 2019.11.23
最初に注意事項を。
このライヴレポは、ライヴの中身について詳しく言及するものではない。それを求める人は、いずれアップされるであろうWebメディアでプロのライターの人たちが書いたレポを読んで欲しい。
ここに記すのは、ライヴレポとは名ばかりの、1人の音楽好きがあの夜のライヴを見て感じたことの長い長い記録と独白である。
ではレポに移ろう。
日本橋三井ホールは日本橋のコレド室町にある。およそこれからライヴがあるとは思えない、一流店がひしめく買い物スポットだ。言ってしまえば、アウェー感が凄い。
外は生憎の、ハルカトミユキらしい、雨。それでも、土曜日午後の日本橋は混みあっていた。
開場が大幅に押したこともり、開演も10分ほど遅れライヴは始まった。
ステージには白い紗幕が掛かっていて、最初はそこにライヴタイトルが出ていた。
オープニングSEとして"7nonsense"が流れ、メッセージが流れる。ここで、ちょっと僕には事件があって、かなり前の右端だったため、斜め上を見上げても、読めない。
とりあえずフィーリングで感じたことは、デビューから今まで、やってきて今日という日がやってきたというニュアンスだったと思う。
そして、メッセージの後、スクリーンには"Vanilla"のMVが流れる。演奏はバンドサウンドだが、原曲とも少し違う。歌も音源ではない。幕の向こうがうっさらとだけ透けていて、そこにハルカトミユキはいた。
バンドサウンドのシーケンスに2人が歌と演奏を重ねていたのだ。
【1st DOOR 閉ざした扉】
1. Vanilla
2. シアノタイプ
3. ドライアイス
歌が肌をなぞるゾクゾクとした感覚に震える。淡々としたアルペジオと歌は、サビで叫びに変わる。重なるミユキのコーラスは、狂いたいけれど狂えないというアンビバレンツな感情を表すかのようだ。
"シアノタイプ"のタイトルが幕に映っていた。 C#m7のコードが鳴ると、心を自然と身構える。青写真という意味の「シアノタイプ」。それはハルカトミユキの1stフルアルバムのタイトルであり、その核となる。
美しい希望の曲でありながら、その希望は明瞭ではない。それでもそんな未来への期待を抱いてしまう歌。「シアノタイプ」は光によって青の色の濃淡を表す手法であり、つまりは光が写し出す世界ということでもある。
そんな"シアノタイプ"の余韻から、張り詰めたピアノが裂いていき"ドライアイス"へ。毎回、ピアノからギターが鳴る瞬間までの間に息をすることを忘れてしまう。
自分にハルカトミユキという扉を教えてくれた大切な曲だ。
絶望的な状況の曲なのに、それは希望の曲だ。なぜなら、絶望の中でさえ「ただ生きていて」という祈りのような決意がそこにあるからだ。
3曲は1stEP、2ndEP、1stアルバムの中心曲だ。
つまりはハルカトミユキのデビュー初期の代表曲たちである。この3曲に扉を開かれたファンも多いかもしれない。
【2nd DOOR 社会の扉】
4. ヨーグルト・ホリック
5. 二十歳の僕らは澄みきっていた
6. ニュートンの林檎
"ヨーグルト・ホリック"のイントロが流れるなか幕が開く。
万雷の拍手の中、頭をひとつ下げたハルカトミユキ。3曲幕の向こうで焦らされたこともあり、観客の熱も一気に上がる。
煽るミユキに促されて、開場は総立ちへ。2人だけということで、アコースティックな雰囲気で座って落ち着いて見るかと思っていたので、嬉しい誤算だった(ここ2回がアコースティックで落ち着いてみていたため)。
内へと向かう冒頭3曲を経て、ここからは逆に外(社会)へと向かう。
このままでいいな、
それじゃいけないかな
こんなはずじゃないけど、こんなもんだったのかもな
僕が今年熱を上げている「なきごと」にも"のらりくらり"という楽曲にこんなフレーズがある。
あぁ ずっとこのままかなぁ…
あぁ こんなの勿体ないよなぁ…
あぁ 贅沢だなぁ…
僕は僕を無駄遣いしている
~なきごと/のらりくらり
もし今が生ぬるい日々だったとしても、いつの日かそんな日々こそが日常なのだと気づく日がくるかもしれない。
"二十歳の僕らは澄みきっていた"で一気に最新曲へとシフト。
正気のままで愛されたくて
というフレーズは冒頭3曲が描いた世界を写すようだ。
それは、若さとやり場のない怒りの気持ち。パンクロックも、小説から抜き出した言葉も、どれも借り物だったけれど、それが絶望ではなく、残された希望だった。
誰かが歌うことをやめたとき、終わりと向き合ったときに、終わらず残ってきたものこそ、音楽や小説の言葉だからだ。
アコースティックギターが掻きむしられ、"ニュートンの林檎"へ。その迫力はシーケンスに合わせてるとは思えない、バンドのライヴそのものだ。ステージから発せられる爆発的なエネルギー、それは決して映像では感じることのできない、今そこに生きていることを教えてくれるものだ。
このエネルギーに、時々社会の窓を開けっ放しにしてはいけないのだと胸に刻み込む(今だたまにやらかす)
【3rd DOOR 狂いの扉】
7. ブラスチック・メトロ
8. わらべうた
9. マネキン
10. 振り出しに戻る
完全に終盤のテンションだ。テンションとは和製英語となったものではなく、まさに本来の「張り詰めた緊張感」という意味でのものだ。
この辺りはずっとシンラインを弾いていて、その尖ったサウンドがまた合っていた。
電車の映像がバックに流れ、メトロの文字が。そこから鳴らされたイントロに心踊る。最近あまりやってなかったと思うので、かなり久しぶりとなった"プラスチック・メトロ"。
雨のためもあって、会場まで地下鉄で行き、地下道を彷徨い歩いていたので、まさにという曲。「ゾンビ」と歌われた瞬間に赤い照明とともにブレイク、一瞬の間だけれど、写真のように永遠に心に焼きつけたい刹那の間だった。
「ゾンビ」は2017年にリリースされた"近眼のゾンビ"におけるゾンビかもしれない。折しもポルノグラフィティが2018年に"Zombies are standing out"という曲をリリースした。ハルカと新藤晴一という、日本で僕が最も信頼できる書き手が、この時代に「ゾンビ」というテーマを用いたのだ。
ゾンビは日々に跋扈している。それは自分の心にも。
ホームと線路の境界も、道を間違えたことも、上がっても上がっても辿り着く地下道も、それは世界そのものであり、自分の心の内のものでもある。
フェイザーの効いたサウンドとともに"わらべうた"へ。
歌詞における「死んだフリしながらやり過ごす」という存在もまた、生きながらに死んでいる、或いは死んでいながらも生きているゾンビというものを彷彿とさせるのだ。
ハルカトミユキの曲の多くは自分と向き合う何かの存在を描いてきた。向かい合うことも、対極的であることも、愛することも。"マネキン"において描かれたのは「被験者」と「支配者」だ。
本来、マネキンといって想像されるのは実験などで使用されるダミー人形。しかし、"マネキン"においてそれは「支配者」に当てられる。感情を失ったマネキンもまた、ゾンビと何も変わらないのではないか。
そこから"ニュートンの林檎"においては「上から見下ろすあの人達」。落下した存在は、重力に負けたのだろうか。間違えやすいが、ニュートンが見つけたのは重力ではなく、万有引力だ。
ニュートンが発見したのは、林檎を引っ張る力ではない、その力が月や他の惑星にも働いているのでないかという思考なのである。
ならば、ハルカトミユキが描いてきた「自分と他者」だったり「自分と世界」といったものもまた、何か大きな力によって起こり得たものであったと思えないだろうか。一定の距離の中で、影響を与え合うもの。
そうした時に「自分には関係ない」という心、想像力のないゾンビや支配だけに囚われる支配者こそ、死んでいる人々なのだ。
【4th DOOR 絶望の扉】
11. そんな海はどこにもない
12. POOL
13. 青い夜更け
4つ目の扉で「絶望」が描かれるが3つとも「青」を彷彿とさせる曲が並んでいるのが興味深い。
椅子に腰掛けるハルカ。一人ぽつりと唄いだす。
その言葉は歌人である穂村弘によって紡がれた言葉たち。
妹たちへのあたたかい目線の曲のようで「愛という言葉はまだ使ったことがない」という言葉で、ぐらぐらと揺れてしまう。
そんな海はどこにもない
そんな愛なんてーー
妹たちが寝言で笑う
という最後の歌詞で更にくらくらとした余韻に落ちる。これが言葉に酔うということなのだろう。これが、僕の大好きな歌詞という世界なのだろう。
ステージには3つモニターが置かれていて、そこに時折映像が出ていた。ゴポゴポとした音とともに、青く染まる世界に空気の泡が踊る、溺れてゆく。
イントロが流れたのは"POOL"。このツアーの初日を渋谷で見て、改めてなぜタイトルが"POOL"なのだろうと考えて、答えは出なかった。
後の演出になるが、スクリーンに次々扉の写真が写って、その一つに「LOOP」と書いてあって、ひとつ考えが浮かんだ。繰り返される自問自答、そして水面に写る顔。反転した世界への問い掛け。或いは水中から見た空、世界との断絶。世界を"絶"つ、"絶"望。
"青い夜更け"。いつもイントロでドキリとしてしまう。
ハルカトミユキにとって青とは何なのだろう。"シアノタイプ"の青写真の青、若いという青さの青、どこにもない海の青、プールの青、空の青。
ふと思えば、2ndEPのタイトルの短歌はこうではなかったではないか。
「真夜中の言葉は青い毒になり、鈍る世界にヒヤリと刺さる。」
ハルカトミユキにとって、言葉こそが青さなのだ。それを人に与えることも、自分を蝕むことにもなるもの。
──ハルカトミユキの楽曲は青が似合いますよね。その青は冷たさも、鋭さも、純真さも内包していて。あるいは、青い炎のような静かに強い熱もあるし。
ハルカ そうなんですよね。ハルカトミユキの音楽にとって青という色は大きな存在で。これからもいろんな青を表現したいなと思いますね。
ナタリーより
青は不思議な色だ。景色になれば、海の青、空の青といった美しい光景の一部なのに、時に「青さ」「青臭い」という言葉にもなる。
しかし、それがもたらすものこそ「青春」ということなのではないだろうか。僕にとってハルカトミユキの青とは「青春」なのだ。学生時代に抱えていた、様々なこと。それがあったからこそ、僕はハルカトミユキの音楽が必要なのではないか。
【5th DOOR 光の扉】
14. 春の雨
15. 世界
16. 光れ
17. 17才
この3曲は、自分の中で繋がっている。
それは昔に"光れ"について書いた時に触れている。
"春の雨"にて足を止めること、"世界"で旅立つこと、そして"光れ"で飛び乗った電車。新たな旅立ちと別れ、自分が止まっていても先へ動いていく電車。それでも、赤かった信号に再び"青"が灯るように、足はまた歩み出す。
ここから後半となるが、ここからの楽曲には多く「未来」が描かれる。見返してみると、"春の雨"には後半のテーマが提示されるフレーズがある。
僕はただ待ってる 巡りくる命を 君の見た未来を
I need you 待ってる
僕はただ待ってる ここでただ待ってる 君の征く未来を
めぐる 命を
今まで気づいてなかったのだけど「ゆく」という言葉に「征く」という字が当てられていた。普通にいけば「ゆく」にするか「行く」とかにするような箇所なので、それに気づくととても興味深い。
「征く」というのは漢文時代の名残のようで、今はあまり使われない。遠くに旅に出るというニュアンスで「遠征」という言葉を思い浮かべれば想像しやすいだろう。
その旅立ちはハルカの弾き語りから始まった"世界"へと繋がる。ハルカトミユキとともに何度も新しい景色に連れてくれた"世界"という曲、新しい扉の先にある景色。
旅立った世界、飛び乗った電車。時と同じようにそれは、足を止めていても進んでいくもの。
そして、いよいよ自分の足で踏み出す決意を唄う"17才"。そのイントロで、2人はより強い笑顔になっている気がした。瑞々しくて、でもどこか甘酸っぱいメロディと言葉たち。止めた足が走り出した時、自分が世界を追い越していく。
渋谷クアトロで初めて演奏された時から、何度も聴いてきた曲。その光はどんどんと強くなる。
"17才"に感じた希望については、少し後に触れさせていただきたい。
【幕間】
18. 《新曲》
"光れ"のアウトロとともに幕が閉じられ、紗幕のスクリーンに映像が映し出される。
それとともに流れたのが"Can you hear me?"と問い掛けられる新曲。またしてもスクリーン斜め見のためちゃんと見れなかったが、スクリーンには縦にスクロールする映像で、中には扉の写真、歌詞、時折曲に合わせて歌うハルカの映像があった。
印象的だったのは閉じ籠っていた心に問い掛けるような歌詞で、序盤から中盤までの絶望を包み込むような曲になっていた印象だった。
おそらくこの日のために書かれた「扉」がテーマの曲だったのだろう。
【6th DOOR 愛情の扉】
19. 夜明けの月
20. 手紙
幕の掛かったまま、ミユキの美しいピアノの音色が響く。この音はおそらく、後ろにあったグランドピアノだろう。
その少しのフレーズで、あの曲、"夜明けの月"が来ることは判った。だからこそ、身構えた。毎回涙してしまって心が抑えられなくなってしまうからだ。
自分にとって、ハルカトミユキの中で一番大切な曲だった。けれど、ベストアルバムのバンドセットでは演奏されなくて、残念に思っていた。それが、こうしてファイナルの舞台で、この美しい日本橋三井ホールで聴けるのだ。
どんなに構えていても、ハルカが唄い出した瞬間に全ては砂上の楼閣と化すのだ。そして、幕の向こうにうっすらと見えた影。その姿たちに「まさか」という気持ちが湧き立つ。
そしてそのストリングスの音が現実となった時、僕は心の底から生きている喜びを噛みしめたのだ。
ストリングスの力は偉大だ。それだけでも絶大な音楽の力を持つのに、ポップソングにおいては楽曲に絢爛な彩りを加えてくれる。
太陽になれないそんな僕だけど
君の足元を照らす月になろう
万有引力とは文字通り全てのものに影響している引っ張られる力のことを示す。ニュートンが林檎だけで万有引力を発見した訳ではないが、全てのものは引いたり引かれ合ったりして存在する。
ハルカトミユキの音楽もそうなのだと思う。自分と何かを繋ぎ止めてくれる存在、その何かとは世界かもしれないし、社会かもしれないし、人かもしれない。どんなに断絶していても、人が生きている限りには、必ず何かを引き付けてるし、何かに引き付けられてもいるのだ。
そんな時、自分にとって大切な存在にどう向き合うか。
惑星を引き付けてしまう太陽のような存在でなくても、自分自身が引力と遠心力によって繋ぎ止められている月のような存在だったとしても、たしかにそこに存在する。
自分にとって音楽が自分を繋ぎ止めていてくれた存在だった。そんな自分が、もしかしたら誰かを繋ぎ止めているかもしれない。全ては繋がっている。
一音一音が愛おしい。音楽とは、ライヴとはなんて儚くて美しいのだろう。
"手紙"のイントロが流れ、再び幕が開く。涙でボロボロに崩れた世界は光で溢れた。ストリングスはヴァイオリン、ヴィオラ、チェロのトリオ構成。
"夜明けの月"だけでも感涙ものだったのに、ストリングスを交えた"手紙"はなんと美しいのだろう。
愛なんて言葉は
とてもじゃないけれど、まだ
恥ずかしくてごまかしていました
こうして聴くと、それは"そんな海はどこにもない"の「愛という言葉をまだ使ったことがない」という言葉へのアンサーのようでもある。
そして何より。"光れ"に対してのアンサーにも見える。届かない手紙も、いらないと言った返事も。
愛とは手紙のようなものですね
受け取るばかりで気がつかずに
本当は全部、わかっていたのかもしれない。別れとは繋がりを絶つということではないのだと。"光れ"という希望であり、願いのタイトル。光は明るいものであるけれど、ハルカトミユキではもうひとつ、光っていたものがある。
ぐらりぐらり心臓を揺らす
花瓶の花が静かに腐る
まだ私は息を殺して
そこだけ青く光った夜
太陽のように光り輝かなくても、不器用でも、月のように青白く光ることもできる。
たとえ返事が来なかったとしても、愛を伝える言葉は、ただそこにある。
そして愛は次の扉へ繋がっていく。
【7th DOOR 命の扉】
21. その日がきたら
22. 種を蒔く人
23. LIFE2
24. Continue(新曲)
MCらしいMCがほとんどなかったライヴだが、ここでハルカのMCが入る。
ハルカ:悔しかったとか、空が綺麗だったとか、言わなくてもいいようなことがあって。でも言わなかったらなくなってしまうようなものがあって。それを誰かに話せることが、生きていく上で大きな希望なんだと思います。
自分にとってそんなどうでもいいことを聞いてくれるのが歌でした。今はそれを聴いてくれる皆さんがいて。だからどんな歌でも、希望を唄っています。皆さんにとってもそうなればいいなと思っています。そんな誰にも言えなかったことを聴いてくれた、そんな歌を唄いたいと思います。"その日がきたら"
"その日がきたら"はハルカトミユキにとっては辛い時期に書かれた曲である。けれども、その時生まれた曲がこうして、今へと繋がる。何より"その日がきたら"が「愛情の扉」でなく、「命の扉」の中にあったことの意味。
前に読んだ記事だが「ハーバード大の研究で判明 「『希望という感情は絶望の後にしか現れない』」というものがある。
タイトルのままなので、特に中身を読むこともないのだけど、人にとって「希望」はひとつの感情なのだという。
0地点から描く希望もあるだろう、希望から更に希望を見出だす人もいるだろう、けれど多くの希望は絶望と表裏になっている。
世の中にある希望を唄う曲の多くは、絶望を描くことを避けている。だからこそ、多くの人が共感しやすい仕掛けなのだと思う。人は絶望から目をそらしていたいのだ。
それでも世に希望の歌が求められているのは、誰しもが不安や絶望を心のどこかに抱えているからだ。
ハルカトミユキを人に薦めると「歌詞が重い」と言われることがある。初期は特に(今回のセットリスト前半を見てもいい)、絶望や孤独を多く唄っているのは、自分でも間違いないと思う。それはそれで届く人はいても、最初の段階でかなりの人を振り落としてしまう。
たとえば"17才"が多くの人に届いたのは、希望の色が強くなったからだと思う。それでもハルカトミユキらしさ(あえて"らしさ"と言ってしまう)は残っている。
その希望が「今日までの僕が壊された夜」「誰にも愛されていないと感じた夜」「誰かの勇気さえ疑ってしまう日」の先にあるからだ。この辺りの歌詞は抜き出してしまえば、所謂「重い」と言われる部類になるかもしれないが"17才"を聴き終わってその重さを引きずることはない。
このバランスこそ、僕はハルカトミユキがより多くの人に届くための突破口なのではないかと思う。
僕がこのブログを始めて気がついたのは、歌詞というものを深く読み取ろうとしたり、その意味を掴もうとしてるという人が、ちゃんといてくれたということだ。
決してそれは大きな声とはいかないけれど、確かにそこに存在する音楽を愛する人々だ。
本当に、偉そうな余計なお節介をつらつら書いて心苦しい。けれど、今回は自分なりの想いを全て書き切ろうと決意したので、ご容赦いただきたい。ハルカとミユキの2人は今度僕をぶん殴って欲しい。
とにかく僕は、ハルカトミユキが多くの人に届いて欲しいのだ。
だいぶ話がそれてしまったが、MCからの"その日がきたら"は、今までに感じていた力強さとはまた違う強さを発していた。
思えば、怒りや孤独を多く描いてきたハルカトミユキにとって、この曲ほど利他的な想いを乗せた曲はそうなかったのではないだろうか。
アコギを持ち替えて"種を蒔く人"へ。アコギとピアノが心地好いリズムを刻む。
旅立った者でなく、残された者の歌。叶わなかった想いも夢も、なにかを残してゆく。人は誰しもが種を蒔いて生きている。
それは自分の望む、望まないに限らずに。その種とは、希望の種とは限らない。そこにあるのは絶望や社会、狂気の種かもしれない。
それでも生きている限り、必ずその中に「愛」とか「夢」という種があるのだろう。気づかなくても、気づいた時には遅くても。それでも確かに受け取ったならば、その花は自分を彩る色となってくれる。
もし、身の回りに愛がないのなら、耳を澄ませればいい。僕らの周りには、愛に満ちた音楽が溢れているではないか。音楽への愛情を持った音楽に触れるたび、僕は生きる希望を、生きてきた喜びを感じることができる。
今を生きる人のために音楽はある。なぜなら音楽は種だからだ。今を生きる人々への。その種が受け継がれ、未来に鳴り響くこともある。落ちた種を拾った未来もあるかもしれない。
けれど、それが手渡されるのは、今を生きる者同士でなければ出来ない。ライヴとはそんな場所なのだ。
心臓の鼓動。
そして儚さを繋ぎ合わせたようなピアノから唄い出される"LIFE2"。
そこで唄われるのは無為自然。
あるがままであり、それは為す術がないものである。
「それでもいいさ」と繰り返してきた言葉が最後に「それだけでいいさ」になる時。
バックに流れたのは、この日のために投稿されたそれぞれの"扉"写真。扉の写真もあれば、自分を変えてくれたものを写したものもある、それぞれがそれぞれの人生で開けた扉。そう、自分自身も。
重たい荷物がある
そう唄われた瞬間、映し出されたギターは、僕の初めて買ったギターだ。
「下手の横好きも好きのうち」#7DOORS1123 pic.twitter.com/Tsmx9B0a92— サトシ/飴玉の街 (@zattastore74) November 16, 2019
応募する"扉"写真をどうするか迷っていた。それでも、その瞬間に自分で手にしていたギターが、その扉なのだと思った。
何年も前のある夜。友人たちとの飲み会前に何気なくくぐった楽器屋へのドア。そこで出逢ったギターと店員さん。心の底からギターを愛している人で、何度もお世話になった。
その日、買ったばかりのギターを持ったまま居酒屋に行った。そこからギターを始めた。友人たちと真似事のバンド遊びを始めた。
その中の一人が結婚した時、披露宴で曲を贈った。僕は歌詞を書いて、拙いギターを弾いていた。それが僕の人生で唯一、表現する側の者の心に触れた瞬間だった。
それは余興に過ぎないかもしれない。けれど何ヵ月も届けたいという一心で練習した曲。それがあったからこそ僕は表現と向き合う人たちの、何かを届けようとする人たちの心がより一層愛おしく思えるようになったのだ。
だからこそ、僕はこうして拙い文章で、受け取ったものを自分の言葉にしようと決めた。
あのギターがなかったら、今の僕はない。
あのギターがあったから、今の僕はいる。
長くなってしまったが、そんな色々な想いが巡り溢れそうだった。その後、このブログでハルカトミユキに興味を持ってくれた方が投稿した写真が流れて、それは遂に溢れた。
その方は当日は来れないけれどもと、自分の"扉"写真を投稿したのを見させていただいていた。その種を心に抱え、ライヴを見ていた。
拙い言葉でも、受け取ってくれた人がいて、その喜びと有難さを知った。受け取ったものを拙い言葉にするしか僕にはできない。ならば、せめて受け取った希望を感謝の言葉にして返していくしかないと決意をした。
様々な想いの溢れた扉たち。
扉の先にあるのは希望ばかりではない。もし仮にそこに絶望があったとしても、扉は一方通行ではない。絶望へ通じた扉は、絶望から抜ける扉にもなる。
次のツアーの発表があり、最後に演奏されるのが新曲"Continue"であると告げられる。
"Continue"。サビで「こんな調子で」と繰り返されるのが印象的な新曲だ。そして、そんな新曲"Continue"に対して恥ずかしいほどに、強烈なるシンパシーをまた得てしまったのだ。
それは、僕にとって"夜明けの月"に覚えたそれに近いものだ。たった一度、ライヴでしか聴いていないが、それでも伝わってきた言葉が、自分の胸を貫いた。最後のサビ前のフレーズ。
ねえ どうしようもない時でも
結局最後に隣に君がいた 君がいる
自分にとって大切な人たちがいて。こんな自分に呆れながらも、隣にいてくれた人たち。それは友人であり、恋人であり、家族であり、そうでなくても出逢った全ての人々によって、今の自分はいる。
そして、そんな大切な人々と、もうひとつ自分の傍にいてくれたもの。それは、音楽だ。
音楽と出逢えたなら、人は孤独ではない。
どんな夜であっても、音楽は自分に寄り添ってくれる。
なぜならハルカトミユキは、そんな曲を僕らに唄って演奏してきたからだ。
早く、またこの曲を噛みしめたく、いつの日にかリリースされることを願う。
これが、この夜に僕が感じた全てである。
2人だけの舞台。
「2人だけだから、バンドでもない弾き語りでもないし」と葛藤してきたというミユキの言葉。
ハルカトミユキはアコースティックの弾き語りでもないし、バンドでもない、どちらでもないし、どちらでもある。だからこそ、2人なら何にでもなることができるのだ。
このひとつ前に見たライヴが、ハルカ1人で出た弾き語りイベントだった。その時に、「普段はもう1人いるけど、今日はいないから(ファンの人たちは)助けて」と言っていた。
それを経て改めて見ると、ハルカトミユキとはハルカとミユキだからこそ、ハルカトミユキなのだ。この2人でなければ、この音楽は生まれなかったのだ。
このベストアルバムツアーの初日の渋谷に行った。そこではインディーズ時代の曲を中心に披露した、貴重なライヴだった。その旅路を経た最終地点が、この日本橋三井ホールの扉だった。
そこで繰り広げられたのは、集大成で全てを出し尽くすようなライヴではない。過去と未来を繋げるために新たな挑戦をするハルカトミユキの姿だった。
ツアーを思うと、ツアーは最初期の"夏のうた"から始まり、そのツアーは新曲で終わった。
ハルカトミユキは毎回のように、ひとつの旅の終わりに種を手渡してくれる。それはライヴの発表やリリースといった、未来への希望の種だ。
"プラスチック・メトロ"で画面に映し出されていた表示板。そこには
「←PAST FUTURE→」
の文字があった。
ハルカトミユキにとってこのツアーはゴールではない。
今この瞬間、鼓動を鳴らしている僕らはいつだって過去の集大成の自分が生きているではないか。
それは特別なことではなく、あるがままにあるもの。それが生きるということだ。
今という扉の先にしか未来はないのだから。
【ライヴレポ】ハルカトミユキ Best Album Release Tour 2019 “The Origin” @渋谷LOFT HEAVEN ネタバレ注意
ハルカトミユキ「光れ」歌詞解釈〜手紙の返事に代えて
【レポ】ハルカトミユキ BAND TOUR 2019 @渋谷CLUB QUATTRO ライヴレポ
ハルカトミユキ"17才" の歌詞を読みとく アニメ「色づく世界の明日から」主題歌
【感想】ハルカトミユキ "手紙" (映画「ゆらり」主題歌)
ハルカトミユキ +5th Anniversary SPECIAL @日比谷野外大音楽堂 2017/09/02
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最近、映像作品があまり出てないので、今回のは是非出て欲しいなと願ってます。
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