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2017年10月14日土曜日

【感想】印象派 アルバム「印象派は君に問いかける」は"今"聴くべき傑作






大阪-東京の遠距離OLテレパシーユニット印象派がアルバム「印象派は君に問いかける」をリリースした。

これまでは1年ごとにミニアルバムをリリースしてきたが、今作はアルバムとしては2年ぶり、初のフルアルバムとしてのリリースとなった。2016年はミニアルバムのリリースはなかったものの、「LOVELETTER FROM KAMATA .ep」のリリースであったり、ライヴ活動などで精力的に活動していた。そんな印象派が満を持して(これほど似合う言葉はない)リリースしたフルアルバムこそが今回の「印象派は君に問いかける」である。

「LOVELETTER FROM KAMATA .ep」に収録された"連れてって"(epとはバージョン違い)や薬師丸ひろ子の""Woman"Wの悲劇"よりのカバー。さらに、突然配信リリースされた"Kiss!Kiss!Kiss!もいっちょKISS!!"や"秘密"を含む2016年から2017年の印象派の今を総括するような10曲。その内容は印象派らしくジャンルレスで個性豊かな曲たちだ。アルバムの中で似た曲がないどころか、これまでリリースされている既存曲とも似て似つかないものばかりである。

ロック、ダンス、ファンク、ヒップホップ、フォーク、ヒップホップ、そしてJ-POPなどなど、ありとあらゆる音楽のエッセンスが散りばめられている。毎回不思議に思ってしまうが、普通であれば跛行的になりかねないその多彩さが、それであることが必然であるかのようにスッと箱に収まってしまうことだ。そしてそれを力業と思わせないスマートさが印象派の魅力がある。

どこまで意図的なのかは分からないが「形態の明確な描写よりも、それをつつむ光の変化や空気感など一瞬の印象を捉え、再現しようとする様式」という印象主義と呼応しているような気がして、印象派という名前の意義はここでより一層強まったように感じた。





リード曲となった"檸檬[le: mon]"。梶井基次郎の『檸檬』が基となっており、歌詞中においても檸檬が登場する。小説『檸檬』では「以前の私」と「その頃の私」が居て、元気であった「以前の私」から生活がむしばまれてしまった「その頃の私」との対比が描かれる。むしばまれた生活に幸せをもたらしたのが果物屋で買ったひとつの檸檬であった。
「以前の私」が拠り所としていた丸善を檸檬が爆弾となって吹き飛ばさないか、という妄想で終わる。





歌詞の中でも《吹き飛ばせ檸檬》と歌われている。
檸檬の爆弾は抑圧からの解放である。小説では何か得たいのしれない不吉な塊に押し付けられている心に対してであるが、印象派はこれを現代社会で歌う。

現代社会において得たいのしれない不吉な塊とされるものは歌詞の中に登場する。《互い違いのライフ見せ合って/陰部見せつけてるふりわして/こぼれそうなのに見張りあうのどうして?》《加害者になれない/逆は言うまでもない》などテンポ良く歌われる歌詞の中でピリピリとしたスパイスのように散りばめられている。アルバムタイトル「印象派は君に問いかける」の名のとおり、1曲目からあまりにも強烈な一撃だ。

そんな抑圧からの解放は何か、それこそが《やめないでダダダンスビート溺れて》である。このフレーズを聴いてドレスコーズの"ゴッホ"における《悲しい時代でもぼくらは踊ってすごしたよ》というフレーズを思い返した。
更には「ロックンロールは、別に俺たちを苦悩から解放してもくれないし逃避させてもくれない。 ただ、悩んだまま躍らせるんだ」というピート・タウンゼントの言葉に繋がっているのではないか。

アルバムの中盤は"秘密"からそのまま音が続く形でタイトルトラック"印象派は君に問いかける"に繋がる。この曲は歌詞カードには、ある仕掛けがあり、まさにタイトルのとおり聴き手は印象派から問いかけられる。それがどのような仕掛けかはCDを手にとっていただきたい。この仕掛けはまさに《脳みそで考えた》にあるとおりであり、人のものではなく自分の言葉で物事を考えよというメッセージにも見えた。


アルバム後半は比較的ミディアムで黄昏色のナンバーが並ぶ。だが、 前半よりもさらに刺さる言葉が散りばめられている。僕はその言葉たちに何度も涙腺をやられてしまうことになる。

"球状"における《悲しいこと忘れたいこと/ないことにするのもどうかな/伝えにくい事なんかは/胸にしまっちゃうもんだな》
"僕らは永遠じゃない"における《2度と明けない夜が来る わからないよ僕は/二人の時は流れてる 漕げない舟のように》
"夢であった猫"における《くりかえしだね まわる時間は/思い出とよぶか 日常とよぶか》

例を挙げればきりがない。

特に後半の曲たちは歌声にさらに重きが置かれている。とりわけ、フジファブリックを連想させる"球状"や"僕らは永遠じゃない"のような郷愁さがアフレル2人に歌声は自然な程に涙を呼ぶ。パツパツに音が詰まったダンサンブルなナンバーが印象派のイメージだが、"キューポラ"にあるようにこうした旅情的な曲も僕はとても好きだ。






印象派の音楽性は確かに奇抜である。毎回褒め言葉として使うが、正気の沙汰ではない。全ての要素が暴走しているのに、不思議なバランス感覚で印象派という音楽の筐体に収まってしまう。

奇抜を演じることは簡単だ。しかし奇抜さを必然とさせ、そこに説得力を持たせる力がなければ奇をてらうことはただのパフォーマンスとなってしまう。印象派の曲にはその説得力がある。それは、一見してふざけているようで、そこにしっかりと日常が根付いていて、日常の中にある異常をトリミングして忍ばせている。
だからこそ奇抜なだけで終わらず、普遍的な音と言葉となり、僕らに響き渡る。


音楽は時代から生まれる。だからこそ今まさに生まれて放たれていく音楽をリアルタイムで聴いていくことが、今を生きているものの特権なのだ。「印象派は君に問いかける」は2017年の今だからこそ響く、必要とされる言葉が詰まっている傑作である。














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