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2017年7月17日月曜日

「22年目の告白 ―私が殺人犯です―」ネタバレ感想と映画・小説版を比較






『22年目の告白 ―私が殺人犯です―』の映画、小説共に見終えた。


原作は元々韓国の映画「殺人の記憶」であり、日本版のリメイクといえる作品である。





不勉強ながらそちらは未見なのだけど、どうやら韓国の映画に更に一捻り加えたのが今回の日本版の作品のようだ。

しかしながら日本の時効制度と事件の発生した95年という時代性など、日本ならではのアレンジが全く浮くことなくしっかり調和していた今年の中ではかなり傑作と呼べるサスペンスであった。
それを表すように公開から1ヶ月以上経っているが劇場は満席であった。

ということで小説版と映画版両方の感想を書いていく。どちらにもそれぞれの良さがあり、この作品に触れるならば是非両方を見て欲しい。


作品の資質上ネタバレなしで感想書くのは無理なので、以下はネタバレ感想満載で書いていくのでご注意を。



あらすじ




残忍な手口で5人の命を奪い、世の中を震撼させた連続殺人事件。未解決のまま事件は時効を迎え、完璧に逃げ切ったはずの犯人は、22年後、思わぬ形で姿を現した。
〝殺人手記〟出版記者会見――。
そこにいたのは、自らの告白本を手にカメラのフラッシュを浴びて不敵な微笑みを浮かべる美しき殺人者。

「はじめまして、私が殺人犯です」

あらゆるメディアを通じて発信されていく殺人の告白と、犯人の容姿。その男に日本中が惹きつけられ、逆撫でされ、そして欺かれていく――。日本中を巻き込む告白の行方とは?先の読めない結末に向かって、新たな事件が動き出す!


監督 入江悠

出演 藤原竜也、伊藤英明、夏帆、野村周平、石橋杏奈、竜星涼、早乙女太一、平田満、岩松了、岩城滉一、仲村トオル










映画と小説比較(ネタバレ感想)




殺人犯の告白本というテーマから始まり、最後のどんでん返し劇、これぞエンターテイメント作品といえるだろう。

まず、僕は先に浜口倫太郎著の小説版を読んでいた。







映画版では描かれない細かな描写などは、先に小説読んでたおかげで理解できたが、逆に映画版にしかない役者陣の熱演は、先の展開を何も知らずに観てもみたかったというのは贅沢な悩みだ。

映画→小説という順番が良かったかもしれない。


まず映画版を見始めて驚いたのが、主人公が違うことだ。
小説版では映画では数シーンにのみ出てくる出版社の編集である川北未南子が主人公である。





映画版では描かれない、曾根崎雅人が告白本を出版するまでの経緯が描かれる。
映画では出版社のシーンはほぼないので、こんな本を出版するに至るまでの過程は疑問への答えは小説でお読みいただきたい。

小説版の主人公の未南子は曾根崎(小野寺拓巳)の端正な顔立ちとともに、圧倒的な筆力に惹かれたことで出版を決意する。

実際に告白本を書いたのは刑事の牧村だが、なぜ彼が一冊の本を書き上げることができたのか、その理由も「顔のわりに本好き」という小説の設定が重要な意味を持っている。

その点で映画では牧村の部屋で大量の本が床に散らかっていることでビジュアルで説明をしている。けど映画だけ見ると分かりづらいかなと思う。
「またこんなに本散らかして」とかセリフがあれば映画だけでも牧村は本の虫というキャラクター付けができたんじゃないかなぁと思う。

ごく普通の青年だった小野寺拓巳があれほどのことを人前で振舞えたのか、最後海外に旅立つ理由は小説版で明かされる。


逆に映画でしか描かれない描写もある。
その一つが仙堂の動機である。もちろん戦場で知り合い親しくなったジャーナリストを目の前で殺されトラウマとなったことに起因する。

映画ではそこから一歩踏み込んで「同じ境遇の人間を生み出すことで自分の心理を探る」という動機の告白が入る。


「なぜ自分は生き残ったのか」という仙堂の心情に、小説より少しだけ説得力を増した演出ではないかと思う。ただしどちらの作品でも犯人はなぜこの被害者を選んだのかという描写はない。


いくつか感想を見ていた中では「途中で真犯人わかった」とかそういうのもあったが、小説版の作中で曾根崎雅人こと小野寺拓巳は「他人の時間を奪うことこそが快感である」と語っている。

とどのつまり最後まで小説を読んだり、映画を観たのであれば、受け手は製作者たちに時間を奪われた形になる。その時点でいくら「途中で真犯人が判った」とドヤされても結局は製作者の手のひらの上ではないかと思ってしまう。

このシーンあらためて考えると殺人犯でない小野寺拓巳が語っているのだから興味深い。
犯人を求めるあまりに深淵に触れてしまったかのような発言だ。


もう1つ思い出した改変があった。

テレビの放送の中で仙堂が拓巳に替え玉を殺させるために万年筆を差し出すシーンがあるが、小説版では仙堂の友人の形見である大切な万年筆を使わせたくないとその日だけ別の万年筆を持っている。
これが拓巳が仙堂を疑う決定打となるのでこれも入れて欲しかったなぁとちょっと思ったり。

ラストについて、仙堂は戸田(早乙女太一)に刺し殺される。

僕はこのオチについては、殺されるのではなく、死刑判決を受け絞首刑に処された方が良かったのではないかと思う。
手足を拘束され絞首によって死ぬことほど、仙堂にとって皮肉なことはないではないか。



役者陣



映画は何よりキャストの勝利といえるだろう。
それほどどのキャラクターもハマっていた。

主演の藤原竜也はいつもの藤原竜也である。
相変わらず凄まじいほどの喜怒哀楽を存分に発揮していた。時間を経過するごとの表情の変化は脱帽である。




さらに白眉だったのは伊藤英明である。
小説を読んだイメージとして牧村はイメージとしてはもっとゴツいイメージだったので、伊藤英明ではちょっと線が細いのでは思っていた。

しかし映画を観ると、そんな当初のイメージは一瞬で払拭された。新米時代、そして今の刑事として貫禄がついてきた姿、どちらも素晴らしいものであった。





そして、真犯人である仙堂を演じる仲村トオル
特に終盤の別荘での壊れ方は迫真に迫るものがある。

精悍さと知性、そしてそこに宿すサイコパス性、これを観てしまうと仲村トオル以外の仙堂はちょっと想像つかない。


この主要人物3人の牽引力がこの映画を成り立たせているので「絞殺をポリシー」と言っておきながら爆破やんとかいう疑問はあまり考えさせずに最後まで見てしまう作りだ。


挙げていけばキリがないが、その他の役者たちもどんなサブキャラクターであっても人間くさくて魅力的だ。

感覚ピエロの主題歌も良かったし(真面目な歌も歌えるんだな)、劇中のノイジーな音楽の使い方も面白かった。


強いていえばテレビ局映画でよくあるのだけど、ワイドショーなどのシーンで局アナをそのまま使うのは個人的にはあんまり好きではない。あの微妙に冷める内輪ネタ感。



本を売ること




確かにサスペンスやミステリの要素が強い作品ではあるが、僕が小説を読んだときに最も胸を打たれたのは本を売ることにフォーカスを当てたことだ。

掲載されていた作者のコメントでも、


以前から『本を巡る物語』を書きたいな、と考えていた。ただ作家や書店員を主人公にした小説は、世の中にたくさん存在する。そのまま書くのは面白くない。違う切り口がないかな、と思案したがいいアイデアが中々思いつかない。そういうときは、一旦頭の引き出しに入れて宿題にしておく。そうすると、また時間が経ったときに思いつくことが多々あるからだ。


と語られており、これは殺人事件を舞台にした本の出版、言論の自由を訴えかけるテーマなのだ。

良い本を売りたいという想いは未南子も、書店員である美晴も同じ想いである。
しかしながら未南子の手掛けた本には美晴の両親が殺害された描写が克明に書かれている。

もし、これが美晴には全く関係ない事件を書いていたとしたら、果たして美晴は本を売り出そうとするだろうか。
実際にこれを書いた牧村はどんな気持ちで美晴の刃を受けたのだろう。

もちろん「文章が良かった」という点で未南子が本を売り出したいと考えた経緯もあるが、そのセンセーショナルな売り出しは、結果として芸能的であり、小説中で揶揄されていたタレント本となんら変わらない売り出し方になってしまうことが皮肉だなと思う。



ということでサスペンスとして僕はかなり好きな作品でした。









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