僕はひねくれているので"天才"という言葉を安易に使いたくないと思っている。
そんな僕であってもこの人は"天才"、いや"日本の宝"だといいたくなる存在がこの人である。
織田哲郎
いわずもがなのヒットメーカーである。
この人なくして1990年代のJ-POPはない、といえるだろう。
プロフィール
1958年3月11日生まれ、東京都出身。
父親が転勤族だったため、幼少期より様々な場所を転々とし、中学時代にはロンドンにも滞在していた。
そのことについてはインタビューにて以下のように語っている。
織田 父の仕事の関係で転勤が多く、子供の頃はひとつの場所に長く住んだことがありません。気が付くと別の街に住んでいたという感じですね。東京、神戸、高松、名古屋、そしてまた東京。中学2年からロンドンに2年滞在して、帰国後は高知で2年。そのあとまた東京へ…。「転校生」という立場を数多く味わったし、当時(1970年代)では珍しい存在だった「帰国子女」という立場にもなった。大人になって、後から考えてみると、得難い貴重な経験だったと思えるけれど、当時はそれなりにいろいろな思いもあったかな。
織田哲郎ロングインタビュー
織田哲郎ロングインタビュー
このロンドンでの生活で出会った音楽の影響は大きかったようで「TOP OF THE POPS」に出ていたT-Rexに興味を持ったそうだ。他には、
織田 デヴィッド・ボウイ、スレイド…、グラム・ロック以外でもエルトン・ジョンや当時ミック・テイラーが参加していたローリング・ストーンズ、モット・ザ・フープル、プログレではジェネシス、フォーカス。それとは別に、前にも話したけれど、サイモン&ガーファンクルやニール・ヤングも好きだった。ニール・ヤングの「Harvest」というアルバムは大好きでした。今でもよく聴きます。
と語っている。
手がけた曲は数知れず、意外な曲としては「ちびまる子ちゃん」でお馴染みの"おどるポンポコリン"(B.B.クイーンズ)を手がけたりしている。
当時は自分の娘のことを考えて仕事の依頼を引き受けたそうだが、当の娘の反応は『微妙(笑)だったかな。それほど良かったわけでもなかった(笑)』だったという。
誰でも知ってる 大ヒット曲たち
織田哲郎自身も様々な活動をしているのだが、その手腕が最も発揮されるのがなんといっても作曲家としての活動だろう。
あまりにも膨大で紹介しきれないほどのヒット曲の作曲を手がけている。
あまりにも有名な曲ばかりで選びきれないのだが、代表的なものをいくつか紹介しよう。
いつまでも変わらぬ愛を / 織田哲郎
まず、自身の曲で最もヒットしたのが1992年に発表したシングル"いつまでも変わらぬ愛を"である。
29歳で亡くなった兄へ向けて書かれた曲だという。
提供曲のイメージが強いが、この人の声はやはり素晴らしい。
シーズン・イン・ザ・サン / TUBE
織田哲郎を作曲家として注目させたのがこの曲である。
今でも夏といえばこの曲というイメージが強い。
TUBEがTUBEと足らしめるようになった最大の功績の曲である。
世界中の誰よりきっと / 中山美穂&WANDS
手がけた中で最大のヒットとなった曲。
僕はもうWANDSが大好きでして。
上杉時代も、和久時代も好きなのだが、やはり上杉昇の声は本能に訴えかけるような素晴らしい声だ。
僕はリアルタイム世代であったなら、今ポルノグラフィティが好きなレベルでWANDSを崇拝していたことだろう。
このまま君だけを奪い去りたい / DEEN
そういえばこの曲ってDEENのデビュー曲なんだよなぁ。
明らかに貫禄ある曲に聴こえる。
実は上杉昇が作詞ということ、WANDSがセルフカバーしていることを知らなかった。
あーもう最高。
マイ フレンド / ZARD
織田哲郎の提供したアーティストで忘れてはならないアーティストの1つがZARDだろう。
この曲は「スラムダンク」のエンディングテーマに起用された。
聴くとなぜか無条件で涙腺が刺激される。
DAN DAN 心魅かれてく / FIELD OF VIEW
僕らの青春。
アニメはクソでも主題歌は最高だ!でおなじみの「ドラゴンボールGT」のオープニングテーマ、"DAN DAN 心魅かれてく"である。
僕らの世代ではカラオケの鉄板ソングであるといえる。
もうあれやこれやで相互カバーがされているのだけど、坂井泉水ver.の破壊力は凄い。
個人的に、2番が特に坂井泉水節が全快なので、聴いていて楽しい。
本当に挙げればキリがないので、検索して是非たくさん聴いてください。
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