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2017年8月20日日曜日

M・ナイト・シャマラン監督作品 映画「ヴィジット」がちょっと最高だったのでネタバレ感想書いておく







世の中には2種類の人間がいる。

M・ナイト・シャマランを好きな人間とそうでない人間だ。

さて、今日、そんなM・ナイト・シャマラン監督映画「ヴィジット」を録画したものを観た。

世間では最新作「スプリット」が(少なくともシャマラニストの間で)話題となり、続編が発表されたご時世だが、旧作となりつつあるこの作品を語りたい。

なぜなら周りがホラー苦手な人ばかりで語る相手がいないので、ここに独り言を残すしかないのである。

とにかく良かったんだよ。
そのことを記録として残しておきたい。

ネタバレなど一切気にせず語っていきたい。そもそも2015年の映画なので、ネタバレどうこういうのなら、この台詞を言うしかない。


「観てないお前が悪い」



あらすじ



休暇を利用して祖父母の待つペンシルバニア州メイソンビルへと出発した姉弟。都会の喧騒から離れて、田舎での楽しい一週間を過ごす予定だった――その時までは。優しい祖父と、料理上手な祖母。しかし出会えた喜びも束の間、就寝時、完璧な時間を過ごすためと、奇妙な「3つの約束」“楽しい時間を過ごすこと"“好きなものは遠慮なく食べること"“夜9時半以降は部屋から絶対に出ないこと"が伝えられる。この家は、何かがおかしい。夜9時半を過ぎ、異様な気配で目が覚める二人。部屋の外から聞こえるただ事ではない物音に恐怖を覚えた彼らは、絶対に開けてはいけないと言われた部屋のドアを開けてしまう。そこで二人が目にしたものとは――?


監督・製作・脚本:M・ナイト・シャマラン
製作:ジェイソン・ブラム、マーク・ビエンストック
製作総指揮:スティーブン・シュナイダー、アシュウィン・ラジャン
撮影:マリス・アルベルチ
美術:ナーマン・マーシャル
衣装:エイミー・ウエストコット
編集:ルーク・シアオキ
音楽監修:スーザン・ジェイコブス
出演:キャスリン・ハーン、ディアナ・デュナガン、ピーター・マクロビー、エド・オクセンボールド、オリビア・デヨング



シャマランに対する自分のスタンス




M・ナイト・シャマラン監督作の感想を書いている、語っている人は不思議な程毎回「シャマランに対する自分のスタンス」を語ってから感想を書き出す。

要するに「俺にとってシャマランは」ということを最初に示すのだ。


一応僕もそのフォーマットに則って、そこから書いておこう。僕はシャマラニストというほどではないが、基本的には大好きな監督である。

後述するが、「シックスセンス」は本当に大好きな作品である。「サイン」も世間の評判に反して好きだし、あんまり話題にも上らない「ヴィレッジ」が凄くすきだ。
ただしシャマラニストかどうかの踏み絵といわれている「レディ・イン・ザ・ウォーター」は観れてないですすみません。スカーフで首を絞めて死のうと思います。


それにきてもシャマランに漂う「なんかこの人憎めないんだよなオーラ」は何なのだろう。人懐こい笑顔だからだろか。





「シックスセンス」は何が素晴らしいかといえば、シングルマザーの母と子の親子の修復と救済の物語だからである。死人のブルース・ウィリスはどうでも良い。「シックスセンス」でどんでん返ししか語らない人に僕は本当に映画観てたのかと言いたい。

「シックスセンス」におけるクライマックスシーンは車中で母親に「幽霊が見える」と告白するシーンなのだ。僕はあのシーン毎回泣いてしまう。

最後のシーンはエンドロール後のおまけみたいなものだ。あまりに好きすぎて小説版も何度も読んだし、続編に当たる小説『生存者』『逃亡者』『密告者』は何度となく読み直したほど好きだ。






なぜ「ヴィジット」の感想でこれほど「シックスセンス」を語っているかといえば、「シックスセンス」とのテーマと通ずるものがあるからである。
つまり「親子のつながり」の話なのだ。

前置きが長くなったが、「ヴィジット」の感想を書いていく。










「ヴィジット」ネタバレ感想




さて「ヴィジット」であるが、この作品の素晴らしいと思う点はいくつかあるが、テーマについて書いたので、最初にそこを書いてしまいたい。

話の中心は祖父母(だと思ってた人たち)と子どもたちの攻防であるが、そこで描かれるのが「子どもたちの成長譚」「親子の赦しの物語」なのだ。

その親子について、まずは主人公であるベッカとタイラーの子どもと母親との関係がメインでもあるが、同様に出て行ってしまった父親への赦しも描かれている。嫌いだと言っていたベッカが、自身の創ったドキュメンタリーの最後に父親とのホームビデオを入れたことの意義が感動的である。

そして、もう一つの回想として母親と祖父母の関係の物語でもある。これがとても切ない。
わだかまりを抱えたまま15年が過ぎた母親。本当に許せなかったのは自分自身なんだよね。だからこそ「怒りを捨てること」とベッカに語る母親の姿は、自分自身に言い聞かせる形にもなっていて、胸を打つ。

母親は両親を異常者に殺された挙げ句に、娘と息子も殺されかけたという点でも一番明るい振る舞いだったキャラでありながらも可哀想なキャラクターだなと思った。そういえば役名あったっけ?




このテーマ性が個人的にもとてもハマるテーマだったために、これだけでも僕はこの映画を観て本当に良かったと思えた。
その上で、下に書いていく内容も面白かったために、僕はかなりの満足を覚えたのだ。


「子どもたちの成長譚」という部分では子どもたちそれぞれの抱える問題を、終盤で自身でしっかり乗り越えるといったところは、分かってはいても作りが丁寧で、これもまた感動的だ。ベッカが鏡で反撃をすること(これはこれでトラウマだろ)、タイラーのタックル(からのメル・ギブソン)どちらも成長を見事に描いている。


さて、ここまで主人公側からの視点で書いてきたが、この映画を観て最も心に残るキャラクターは間違いなく祖父母に成り済ました異常者、特に祖母を演じていたクレアだろう。





この人のキャラクターがなければこの作品は魅力が半減どころではないのだろうか。誰一得の半ケツ徘徊シーン、真っ裸で壁を引っ掻き回す、包丁を持ち出して子どもの部屋へ向かうなどの奇行。

もっといえば、序盤での床下での鬼ごっこ。このシーンでヤバいのが来たと驚いて慌てて逃げるベッカに「おばあちゃんだよ」となって笑わせるシーンだが、2回目に観るとこのシーン、完全にシャレにならない。


「コメディとホラーの割合のバランスをとても考えた」と監督のインタビューにあったが、まさにそれを体現するのがこのクレアのキャラクターではないだろうか。「コメディとホラーは紙一重」ということを説明するのに、まさにこんなキャラクターという存在であった。

この気持ち悪さの感覚はサム・ライミの「スペル」のババアに通じるものがある。

ジジイの方もジジイの方で、トラウマ必須の「オムツ」シーンのヤバさである。タイラーは基本的に「生意気なガキだな」と思って観ていたが、さすがに気の毒になった。「潔癖性」の設定をここで持ち出すというのが本当に性格が悪い(ニンマリ)

最後に、いくつかサイトを見ている中で見かけたのが、↓の"謎"。







……何で????



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