『一般的に比喩表現というのは、わかりにくい事柄を身近なものにたとえてわかりやすくしたり、人物の心理や状況を詩的かつ映像的に表現したりするために用いるものである。』
というのは、作詞家のいしわたり淳治の言葉である。
そう、比喩表現というのは、一般的にこうした使われ方をする。
未知の料理を食べた時に、この味はあれに似てると例えたり、僕の顔はいらすとやのよく見るあの男の顔に似ている、などに使ったりする。
しかし歌詞という世界においては、比喩は誰もが知る言葉に新しい意味をつける作業といえる。
比喩があればご飯何倍でも食べられる僕ですが、やはり新藤晴一の書く歌詞におけるメタファは、恐ろしいとさえ感じる。
これが自分にとって心地いい比喩表現なのは、隠喩表現が多いからではないかと思った。
※中盤で白状しますが、考え始めた瞬間に上記の理論は破綻しました。ということで、とりあえず「新藤晴一の比喩表現凄すぎやろ」という記事になりましたので、念頭に置いて読んでいただければと思います
直喩
『男はまるでおしっこを漏らしてしまったような顔をしている』
このように「~みたいだ」「~のようだ」という表現は直喩と呼ばれる。
そのまま直接的に何かに例える様だ。
一方。
『男はおしっこを漏らした顔をしている』
これが隠喩である。もしくは本当に漏らしている。
新藤晴一の書いた歌詞を見ると、比喩表現は多く使われているが、直喩のものが少ないことに気付く。
もちろん、直喩がない訳ではない。
音楽や絵画にあるように
過ぎていく日々ひとつひとつに
ささやかな題名をつけて見送ってあげたい
~”オー!リバル”
失われていく様を 勤勉な監視官のように じっと見つめてる
~“素敵すぎてしまった”
だって知っている言葉はほんのちょっとで
感じれることは それよりも多くて
無理やり 窮屈な服 着せてるみたい
~“パレット”
夜を抜けた街は飴細工みたいに
恋人たちの想い 巻き込んだまま
歪んで捻れ 混ざって溶けてゆく
そしてすぐに形作る 繰り返す夜は 束の間の舞台
~“ルーズ”
いくつかピックアップしてみてわかると思うが、直喩にしてもレベルが尋常ではなくておしっこを漏らしてしまいそう。
「勤勉な監視官のように」なんて下手に使えば逆にわかりづらい比喩になってしまうんだけど、すんなりと受け入れてしまう辺りが凄いところだ。
他には「カメレオン・レンズみたいに」とか「悲しみが友のように」とか「楽しげな話しが尽きたように黙った月の夜」などの直喩がある。というか他にも”瞳の奥をのぞかせて”みたいな秀逸な直喩を多用した歌詞もあるし、この記事の着眼点が全て間違っていたことがもうわかった。新藤晴一、天才。
直喩はある感情について、客観的な視点から見た様を書くことが多い。
直喩といえば、新藤晴一も敬愛する村上春樹の得意分野だ。
「元気だよ。春先のモルダウ河みたいに」
~『スプートニクの恋人』
まるでセロリの筋をいっぱい集めてそのままどんぶりに入れた料理を見るような目つきで眺めながら
~『ねじ巻き鳥クロニクル』
ほっそりとした冬の鳥のように. 彼女が一枚ずつ服を身にまとっていく様は、ほっそりとした冬の鳥のように滑らかで無駄な動きがなく、しんとした静けさに充ちていた。
~『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』
村上春樹にももちろん直喩と隠喩の両方があるけれど、印象的には直喩が多いイメージがある。
知ったようなことを書いているが、正直僕は村上春樹に明るくない。
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