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2017年5月8日月曜日

【25周年】Mr.Children「掌」歌詞解釈~手のひらを太陽に







2003年に発売されたMr.Childrenの25thシングル「掌/くるみ」の表題曲"掌"の歌詞について書きたいと思う。


何故今さらこの曲かということだが、まぁ書きたくなっただけである。



Mr.Children「掌」歌詞解釈




曲について




2000年代に入ってからもMr.Childrenの人気は衰えることはなかった。


リリースされた曲たちが良いのはもちろんだが、個人的には2001年のドラマ「アンティーク 〜西洋骨董洋菓子店〜」でミスチルの音楽が大々的にフィーチャーされたことも大きいと思っている。

個人的にこのドラマ大好きで、DVD-BOXが家にあるほどである。
昔はよく夕方再放送していたのに、放送されなくなってしまって思わず買ってしまった。






しかしそんな折に桜井和寿の小脳梗塞により活動休止となる。
この休止以降でミスチルはまた新しいチャプターへと進んでいく。そのキッカケとなったのがこの「掌/くるみ」というシングルであったと思う。


イントロのギターリフから印象的な曲である。
あとちょっと怖いPVがとても印象に残っている。







ちなみにライヴではCメロが長くなり、なぜか最後のサビがカットされるアレンジとなっている。最後のサビが好きな僕はとても憤りを感じるアレンジで、まさに遺憾の意である。


「シフクノオト」のツアーDVDが本当に大好きで擦りきれるくらい見ているんだけど、この部分でどうしても毎回引っ掛かってしまう。














では歌詞を見ていくと。


まずタイトルの「掌」のインパクトである。


たとえば羊毛とおはなの曲に"手のひら"という曲があるが、「手のひら」ってどちらかといえば包み込むとかそういう暖かいテーマとして使われることが多いが、掌はその逆である。


歌詞は「価値観の相違を認め、それでも人は分かり合えるか」というテーマである。


掌を介して、包み、撫で、愛し合う。

しかし、そこに刻まれている手相のように1人ひとり人間は異なる。それは歌詞にもある価値観、理念、宗教もだし、もっといえば自分自身の中でも自己矛盾という形となってしまう。


「掌を反す」という言葉もあるが、そんな物事が表裏一体となりながら、僕らは生きている。


Cメロにおいて繰り返し


「ひとつにならなくていいよ」
「認め合うことができればさ」


と歌われる。

これこそがこの曲の肝であり核となる部分だ。

認め"合う"ことが大切なのだ。つまり2番で歌われる「本物の印」のように「本物だ」と片方が主張するだけでは、真の意味で分かり合えることはできないのだ。

それができないからこそサビで思考と行動が矛盾する。喰い違う。


それはもう1つのA面曲である"くるみ"の


今以上をいつも求めるくせに
変わらない愛を 求め歌う


という歌詞とも通じる。



手のひらを太陽に



「てのひら」という言葉に僕はある曲を連想した。
やなせたかしさん作詞の童謡"手のひらを太陽に"である。


手のひらを太陽に すかしてみれば
まっかに流れる ぼくの血潮


今見ても「血潮」という言葉にドキッとしてしまう。おかしい言葉ではないんだけど、童謡の中で唐突に歌われる「血潮」である。思わず「おぉ」となる。


この歌詞はまさに生命賛美なのだけど、ミスチルの"掌"も同じではないかと考えたのだ。


ミミズだって、オケラだって、アメンボだって生きている世界、同じ種であるはずの人間はそれでも価値観の違いに翻弄される。


それでも僕らは生きている。
いや、だからこそ生きているのだ。


人それぞれに血が通っていて、沢山の矛盾を抱えて、それでもそれを認めあって。







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