祈りと願いは似て非なる。
祈りとは他の幸せを願い見返りを求めないもの。
願いは自分の想いを届け見返りを求めるものである。
何度かこのブログには書いたことがある。
僕は、3人のポルノグラフィティが見れていないことが、トラウマ、或いはコンプレックスとも言えるほど、悔いている。
この度あらためて、その気持ちがコップを溢れてしまったので、それをここに慚愧の念として、ここに記したい。
3人と2人
ポルノグラフィティを好きになった時に、そこに3人の姿があった。
それが当たり前だと思っていて、それがずっと続くと思っていて。
しかし。それはずっと続くことはなかった。
僕が初めて生で見たポルノグラフィティは2人になっていた。
それでも。それからの2人は1人欠けた穴を埋めるため、懸命にポルノグラフィティは戦ってきて。その姿は、幼き僕に衝撃を与えた。それ以来、僕はずっとポルノグラフィティのライヴに魅せられてばかりだ。
現在のポルノグラフィティは、当時の自分では考えられないくらい進化をしていて、これだけ歳を重ねた自分を驚かせてくれる。
『ギターマガジン 別冊俺』こと、『新藤晴一 ポルノグラフィティ (GUITAR MAGAZINE SPECIAL ARTIST SERIES)』
そのインタビューは、因島時代から未来までを語るものだった。
だから、そこでは当たり前のように『Tama』という名前が出てくる。昨年の「しまなみロマンスポルノ」でも当たり前のように「その時はTamaもおって」と岡野昭仁は語った。
20年という節目に向かい、また過去を振り返ることが増えてくることだろう。
普通に名前が出ることが嬉しくて、どこかホッとさせられて。
当たり前だ。別に喧嘩別れしたわけではない。
メンバーにとって変わらない大切な存在だ。
それは、ファンにとっても。
ベーシスト
そんな想いを抱えているうちに、久しぶりにベーシストとして帰ってくるという報が届いた。
感情はよくコップに入れられた水に例えられる。
縁にギリギリたまった水が、一滴の水で決壊してしまうように。
いや、そんなものではなかった。自分でも驚くほど、想いは大きかった。
やなわらばーのアルバムに参加して、そのコメントで久しぶりに見せるベースを持った姿。
僕のコップに、決壊したダムから水が降り注いだ。
確かに、本間さんが度々Tamaの姿をアップしてくれてはいた。しかし、ミュージシャンとしての彼の姿を見たのはいつ以来だろう。
コメントと、そんなに大きくない写真が1枚。たったそれだけで、感情はコントロールを失った。
白玉雅己というベーシストの回帰は、僕のワガママな感情に再び火を着けてしまったのだ。
祈りと願い
いつも、心の片隅で期待してしまう自分がいる。
たとえば、「FANCLUB UNDERWORLD 5」ではアルバム「ロマンチスト・エゴイスト」の全曲ライヴがテーマとなった。
そんなコンセプトだから、少し期待してしまって。
それ以外にもアニバーサリーとかそういうことの度に、ほんの少しでも「もしかしたら」を考えてしまう。
人は後悔をしながら生きていく。それは後悔を償うように。
過去は決して戻ることはない。だから、今この瞬間を後悔しないために、僕らは懸命に命を燃やすのかもしれない。
どこかで「サプライズ」を待っている自分がいて。
それでも、わかっている。
だって、あの人がどれくらい自分の決断を貫く性格なのか、よく知ってるから。あの人、頑固だもん。
離れるという決断は、僕なんかが語っていいほど生易しいものではないのだ。
だけど、それでも僕は願ってしまう。
そうなったとしても、誰も非難なんてしない。
みんな、あなたのことが好きなんだから。
だからたった一度だけでもいい。
もしかしたら、僕はそうして償いたいのかもしれない。誰に対してでも、何のためでもない。
それは祈りのようで、願いなのだ。
しかし、願うだけでもいいではないか。
たとえ、そこが星降る夜空の下ではなくたって。
本当の気持ちを言葉にさせてしまった。
最後にはポルノグラフィティに帰ってきてしまう
明日ポルノグラフィティが解散しても幸せといえますか
岡野昭仁の歌詞間違えが生み出したミラクルな歌詞
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