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2019年10月26日土曜日

ドレスコーズ「ジャズ」日本一遅い感想レビュー







ドレスコーズのアルバム「ジャズ」について書きたい。
発売されたのは2019年5月1日。つまりは令和と共に世に放たれたアルバムである。

もちろんリアルタイムで購入し、今日まで何度となく聴いてきた。しかし、このアルバム何度書こうにも、途中でめげてしまっていた。それだけ情景量が多くまとまりきらなかったのだ。

なので敬愛する番組「山田玲司のヤングサンデー」で玲司先生とおっくんにまた死ぬほど語り倒してもらい、僕はそれをじゃがりこでもかじりながら見れば良いやと思っていた。
実は玲司先生に白亜のイベントで挨拶させていただく機会があり、「ジャズ回楽しみにしてます。何時間でもやってください」と伝えていたのだ。全力で他力本願していくスタイルだ。

ところが結果的にタイミングが合わずに、「ジャズ回」はどうやらないようだということが伝えられた。いよいよそうなると、僕のない頭で考えるしかない。

ということで今に至った、というのが言い訳である。

しかしながら、やはりこの傑作に対して、何も触れずにはいられない。正直まとまらない記事になると思うが、ご了承いただきお読みいただきたい。


ドレスコーズ「ジャズ」日本一遅い感想レビュー












まだ聴いていない人へ








↑「ジャズ」の楽曲を使用したショートフィルム


アルバムを聴いていないという方でこれを読んでいるという人がどれほどいるかわからないが、まず聴いてないという方のために、全力で素晴らしさを伝えたい。

2019年の中で"今"最も聴かなければならないアルバムだ。
(10月も終わろうとしてる今言うのもどうかと思うが)

それは何故か。このアルバムはドレスコーズ志磨遼平という一人のミュージシャンが、今の時代の空気を切り取ったアルバムだからである。







このブログでは何回か書いているが、今の音楽を聴くということは、リアルタイムで今の空気を味わいながら生きる僕らにしか出来ない特権なのである。

それは「流行の音楽」というのとも少し違う。もちろん時代を振り返る上でそういう特色の曲もあるし、時代性など関係なく、とんでもない傑作を出してしまうミュージシャンもいる。それと逆に時代が音楽を創らせるミュージシャンもいる。

つまりは僕のいうところの「今の音楽」とは「今この時代の空気を受けてアーティストが創り上げた作品」である。

たとえば、吉田拓郎の"祭りのあと"は学生運動のことを歌っていると言われている。でも、今の時代に聴いても、わからんじゃん。とりあえず僕は生まれてないし。

想像することはできる。学生運動というものが昔あって、こういうことがあったという時代背景を知識として「知る」ことはできる。しかし、「体感」することはタイムマシンが出来ないと無理だ。いや、それでも「当時の若者」でない以上はそれ以上感じることはない。

たまたまNHK Eテレの「SWITCHインタビュー」でレキシと三宅裕司の対談を見ていた。その中で三宅が今のお笑いに対してということを語った。「自分のお笑いは前フリからオチをつける昔からあるやり方。それでも笑いというのは"今の時代に生きていくもの"、昔のものの再演をしたりはしない」。

まさにこれで。今の時代のために創られた作品、今の時代が創らせた作品だからこそ、今の時代を生きる僕らしか受け止めることはできない。

「ジャズ」から1曲わかりやすい例を紹介しよう。


ぼくらの暮らす この国で
オリンピックがもうすぐある
~"もろびとほろびて"


この歌詞はとりわけ普遍性よりも、今この瞬間の「時代性」を切り取ることに重きを置いている。2020年のオリンピック、華々しいイベントのはずなのに、今の空気は1964年のそれとは違う。もちろん、1964年に僕は生まれてないので、これもまた当時の空気はリアルで知る由はない。けれども、2020年を迎えようとしている今の空気は感じることができる。いや"今"しか感じることはできないのだ。

来年の今頃、オリンピックが終わってから聴く"もろびとほろびて"と、オリンピックを目の前に控えた現在(いま)でこそ、曲のメッセージはより大きくなる。だから、とにかく聴いてみて欲しい。


あてどない 果てもない
チルってる
~"チルってる"



「人の迷惑もかえりみない」
「ひたすら進め 輝く未来」
気付けばそんな気分でもない
この国はなんだかぼくみたい
~"もろびとほろびて"



興味を持って深く掘り下げて考えていくのは、後でもできる。けど、今の空気を感じながら聴いたという経験は、今の自分にしかできないのだから。

ただ、時代性がどうとか小難しいことを考えなくても、この音楽たちは十分魅力的だと感じることができる。テーマ性もあるけど、それ以上になんて楽しく美しい音楽なのだと、純粋な気持ちで人に薦めたい気持ちで溢れているのだ。


さて、ここからは聴いた人向けの内容となっていく。
ここまでで、もし少しでも興味が出たなら、是非聴いて欲しい。音楽は音源としていつまでも残るが、今この時の空気に音を震わせられるのは、今だけなのだから。





サブスクでも聴けるみたいなので、是非。



世界の終わりに君とダンスを




「世界終わってんなあ」


そう言ったのは、ハルカトミユキのヴォーカル、ハルカだった。ハルカトミユキ2014年に発表した"その日がきたら"という曲についてのコメントで、こう語った。


最初はラブソングを書こうと思っていたわけではなくて、「世界終わってんなあ」みたいなところから入ったんです。ノストラダムスの予言とかで「世界が終わる」って言われるとみんな焦るけど、もう世界は終わってるし、むしろ終わってるのに終わってない振りをして平然としてる、そっちの方が怖いと思って。じゃあ、そういう状況下で何をするかって考えたら、水を買って貯め込んでおくとかじゃなくて(笑)、何を犠牲にしても守りたい人がいる。これって究極のラブソングだなって思って、もっと突き詰めていこうと思ったんです。


いきなり他のアーティストの話を出してしまったが、ドレスコーズの「ジャズ」を聴いて、初めて思い浮かべたのが、この話だった。

隕石が落ちてきて世界は粉々になりました、ということがなくても、誰しもが肌で感じている。

世界は、終わってる。

豊潤がもたらしたものは、人間のエゴだけであった。
ドレスコーズの「平凡」というアルバムが描いたのは、まさにそんな欲望と資本主義の20世紀の末路と最期だった。






そんなドレスコーズ、志磨遼平がアルバム「ジャズ」で描いたのは、人類最後の音楽、「人類の行き着く果て」で鳴らされる音楽であった。







「タイトルは『ジャズ』」、「ジプシー音楽」、「東京スカパラダイスオーケストラの加藤隆志と茂木欣一がレコーディングに参加」という事前情報で、↑のアートワークな訳で、どう考えても一筋縄ではいかないアルバムだろうと発売前に身構えていた。

ものすごく前衛的なアルバムになると思っていたのである。その時点ですでに情報に「踊らされて」いた訳である。

ところが「ジャズ」や「人類の行き着く果て」といった事前情報に怯えなくても大丈夫なほど、どこまでもポップで耳馴染みの良いグッドメロディが詰まったアルバムである。

たとえば、それなりの言葉を並べただけでも、十分にロマンティックな曲になったであろう曲たちが12曲揃っている。なんとなく田中宗一郎がSuper Furry Animalsの"Presidential Suite"に対して「それっぽい甘い言葉を乗せれば素敵なラブソングになりそうなものを。歌詞は大統領への皮肉を歌っている」と言っていたのを思い出した。

無論、アレンジは相当に凝り倒しているし、演奏の素晴らしさは言わずもがなだろう。音楽性についてはインタビューでも触れていたし、僕にそこまでの音楽的語彙もないので、今回は歌詞に重きを置くため軽めに。

たとえば加藤隆志と茂木欣一が参加したアルバムのリード曲"エリ・エリ・レマ・サバクタニ"や、2トーンスカでアッパーな"プロメテウスのばか"などライヴで聴いたら堪らないだろうなと思う。
※実際ツアーは"プロメテウスのばか"~"エリ・エリ・レマ・サバクタニ"で始まったという。今回どうしても仕事の都合で見れなかったのでBlu-rayを心待ちにしている








個人的に好きな曲を挙げれば"ニューエラ"と"カーゴカルト"が好きで、アルバム全体でも再生数高い中で更に特出して高い再生数になっている。"わらの犬"のノワール感もたまらないし、挙げ出せばキリがなくなる。


トータルでも50分ほどのアルバムで、聴こうと思えばさらっと聴けるし、その中で踊れる曲、聴き入る曲のバランスも良くて何度聴いても全く飽きない。

しかしながら前回の「平凡」と同じく、その踊れて楽しい地表の下には、とてつもない深さの層が潜んでいる。歌詞を眺めながら聴くたびに発見があるほど、情報が散りばめられている。

それを語りきることはできないだろう。踊り考えるうちに50分というラップタイムは瞬く間に過ぎてゆく。気づけば「あ、もう終わっちゃう」と思いながら。人生も同じなのかもしれない。やり取りことをやるには、人生はあまりに短い。

アルバム全体の所感を書いたが、ここからは歌詞について見ていきたい。歌詞については正直、細かなディテールを書き出したら、本人の言葉を借りれば本になる。

なので「終わり」というテーマに絞り、書いていきたい。









人類の最後




最果て、"でっどえんど"から物語は始まる。

歌詞において「レミングの集団自殺」が取り沙汰されている。
実際にはディズニーの「白い荒野」という作品のイメージなどによるもので、本来レミングは集団自殺するようなことはないという。

これがデマであるとしても、志磨遼平がそのイメージに人類の終演を見たように、曲のなかの人々は当時崖から落ちるレミングに、自分たちを重ねていたのではないだろうか。

或いは、高度成長の果てには衰退という未来が待っていて。それこそが、人々がレミングに重ねた増殖からの集団自殺ということに重なって見えてしまう。







たとえば伊坂幸太郎が『終末のフール』で書いた世界。
それは世界が三年後に隕石の衝突で滅ぶと予定された世界を描いた作品だ。

人々はそれぞれに、終末への日々を過ごしている。
自暴自棄になる者もいれば、暴動を起こす者もいるが、大半の人が淡々とした普通の日々を過ごしている。

世界が終わるとしても、案外人は受け入れてしまうのかもしれない。なぜなら、生まれたものは、皆死ぬことが定められているのだから


シガー・ロスを狙ったという(アルペジオはレディオヘッド的)、残響の陰影が美しい"ニューエラ"。「パラダイム」と「パラダイス」の韻の踏み方と意味のシフトも最高だが、最後の一節に思わず息を飲んでしまう。


星になれるのよ 死んだらね


悟りのように、受け入れる最後。しかし、人間は決して強い生き物ではない。その続編にあたるという"クレイドル・ソング"では


ぼくは ふいに泣いた
しぬのは こわかったわ


というフレーズがある。
終わりを覚悟したとしても、それを迎えるかもしれない瞬間に、人は後悔をする。飛び降り自殺に失敗した男は、飛び降りた瞬間にそれを後悔したという。死にたいという願望を生存本能が上回った瞬間だ。

インタビューによれば、いずれ人は老いや死すらも克服し不老不死になるのでは、死というものがあった最後の世代になるかもしれないという話を読み「しぬのは こわかった」と書いたという。それは"エリ・エリ・レマ・サバクタニ"でも語られる。


ラッダイト ヒト科の旅の終わり
末端の世代だったんなら それならば

神よ なぜ ぼくを見捨て給うや




「クレイドル」の意味は歌詞にもある通り「ゆりかご」なのだけど、ITの世界ではモバイル端末を接続するスタンドのことでもある。ドッキングステーションとも呼ぶ。都市伝説の範疇になるが、いずれ人類の中には電子世界に意識を転送し、その世界の中でアバターを身体として生きていくという説がある。

そんな絵空事のような未来がもし来たとしたら、違った意味での不老不死を人は実現してしまうのだろうか。そうなれば、ゆりかごというクレイドルは、ドッキングステーションというクレイドルにさえ変わってしまうのではないだろうか。そんな「ニューエラ(新時代)」が待っているかもしれない。


それでも"クレイドル・ソング"には希望も灯されていると思う。

冒頭で歌われる情景はサンデーパーク、つまりは日曜風景。
なんなら"でっどえんど"でも「サンデー・モーニング」だ。


やがて 夜がきて
月に 火が灯る
まぼろしのときよ
いそがないで


曜の夜が来て、、火が続く。意図的かは定かではないが、それがとても良いなと思えて。
終わりは次の始まりと人は云う。その終わりが人生の終わりとしても、文明の終わりとしても、人類の終わりとしても、時間だけはただ過ぎていく。

時間とは人類が生み出したひとつの区切りに過ぎない。それはある種、人が作ったまぼろしだ。日付であっても、曜日であっても、人は何かの節目を感じながらその時の自分を残していく。

それを令和の最初の日に発売されたアルバムが問うというのが、少しゾッとするほど奇跡的なタイミングだ。そこにも僕は、このアルバムを今聴かなければならない要素があると思う。



カーゴカルト




1920~30年代を中心に第2次世界大戦後までみられた,メラネシアにおける宗教的・社会的運動。土着主義運動などと呼ばれる運動の一つで,「積荷崇拝」とも訳される。預言者の「今日ヨーロッパ人の手にあるさまざまな財は本来島民のもので,近い将来先祖の霊がそれらの財 (カーゴ=積荷) を汽船や飛行機に積んで戻り,われわれに至福の世をもたらしてくれる。そのとき世界の秩序は逆転し,現在の支配者であるヨーロッパ人に対してわれわれが優位に立つことができる」という言葉に基づくもの
コトバンクより


「カーゴカルト」は元々こういった意味合いである。かなり抜粋しているが、言葉の意味を掘り下げていくと、これだけで本ができるくらいになってしまうボリュームになってしまう。

アルバム前半は「もたらされるもの」が多く描かれる。自分と神を歌っている曲が多いからだろう。

対してアルバム後半では"プロメテウスのばか"で「神は死んだ」と歌われるように反転する。それを象徴するように中盤で"銃・病原菌・鉄"がくるのが興味深い。

結果的に、終盤はかなり意図的に「あなたとわたし」の歌が並び、もたらされるではなく「もたらすもの」という印象に変わる。最後に"人間とジャズ"がその帰着を示しているように聴こえる。


ごらん 壁に飾った たましいよ
あれは ヴィトンに売ってる
~"カーゴカルト"


というライン、とても好きと同時に不思議な感覚になるユニークな歌詞だ。ルイ・ヴィトンが現在の世の中ではヨーロッパの財の象徴となっているという皮肉だろうか。むつかしい。

20世紀は物質主義であり、物質が数多く産出された物質たちが世に溢れかえった。そして人々は物質で心を満たしていった。所有欲とも呼べるかもしれない。ある種カーゴ(=積み荷)を偶像ともしているのだ。

また「SWITCHインタビュー」の三宅裕司の言葉になるが、新作の舞台のテーマが「幸福」だという。そのキッカケは数年前にブータンが幸福度ランキングで1位になって、文化的に豊かな生活をしている日本が何年も50位台にいるのはなぜだろうというのが発端だった。

その理由をレキシに問われ「色々なものが便利になりすきて人は"求めすぎて"しまっている。求めてえられるものは物質的な喜びしかない」と答えた。世の中が便利になりすぎて、幸せすらも飲み込んで気づかなくさせてしまう。


カーゴカルトとはまた、こうとも呼ばれる。


「千年王国運動」


終末の日が近づき、キリストが直接地上を支配する千年王国(至福千年期)が間近になったと説く。千年王国に入るための条件である「悔い改め」を強調する。また、至福の1000年間の終わりには、サタンとの最終戦争を経て最後の審判が待っているとされる。千年王国に直接言及する聖書の箇所は、ヨハネの黙示録20章4節から7節。
Wikipediaより


パラダイス 千年紀元年の地上を
さあ 去らねば
~"ニューエラ"


もうひとつ興味深いことに「カーゴカルト・サイエンス」というものがある。大切な本質が抜け落ちた、科学のふりをした「似非科学」とも呼ばれる。なんと皮肉なことだろう。
インタビューから引用すると。


ここで僕が言う「神様」というのは、貨幣や国家、輝かしい未来といった、僕らが頭ごなしに「ある」と信じているものも指しています。ニーチェの時代に神様を信じなくなって、それだけならまだしも、神様の次に信じた「近代思想」や「技術革新」みたいなものも信じられなくなっているっていう。あれ? 僕らは進歩してるんじゃなかったっけって。


それがどうしても"20世紀(さよならフリーダム)"の歌詞と重なる。


──さよなら どうもありがとう
ムダばかりの100年よ
~"20世紀(さよならフリーダム)"


信じてきたものたち、それがカーゴカルト・サイエンスのように、決定的に本質を欠いていたとしたら。

消費の時代が終わり、人々は物質ではなく精神によって心を満たすタームへ入ったのかもしれない。そうすると、前半と後半でもたらされるものもとらすものの対比となっていることの意味にも繋がる。たとえば"わらの犬"の「ありもせぬもの」のように。

多少こじつけになるが、そうすると「平凡」に収録された"マイノリティーの神様"で「ありふれた人に ぼくがなれたら/その時は ぼくこそが神様」という歌詞にも繋がるのではないか。


それにしてもドレスコーズは歌詞を眺めながら読むと、耳で聴いて想像していたものと違ってることが多々ある。"カーゴカルト"は特にそれが多くて。

さりげなく「ルートを」と歌っている箇所が、最後では「ルート音」になっていたり、油断できない。漢字とひらがなのバランスなど、音だけでなく言葉や文字としても印象が変わってくるので、歌詞を読みながら聴くのが本当に楽しい。




摩擦




摩擦もさけたい
それじゃ熱は生まれない


と"もろびとほろびて"で歌われる。インタビューから言葉を引用すると。


人類というのは、生き物として、もしかしてすごく緩やかに……人類というものはすごく進化して、成長して、より良い方向に向かって、繁栄もここに極まれりということになったわけですけど、生物としては、すごく緩やかに衰退しているのではないか? という気がしまして。生き残りをかけて競い合うような熾烈な時代は終わって、これからはすごく穏やかに、みんなで和やかに、譲り合って許し合って、“いやー平和だね良かったねー”と言いながら、徐々に数を減らしていって地上からフェードアウトするのでは? という気がしたんです。


野生の動物たちが争うのは、生き残るためであり、自分の子孫を残していくためだ。しかしながら、人類だけは譲り合いながら、摩擦を避けていく。そこで生まれる熱。

人の摩擦は興味から生まれると思う。それはネガティブなものだけでなく、たとえば恋愛であっても、捉えようによっては人と人が生み出す摩擦だ。お互いの凸凹した感情を時に重ね合わせ、時に擦り合わせて通わせていく。

もっといえば、セックスという行為がまさに直接的な摩擦によって熱を生み出していると言える。 たとえば少子化だったり、日本の既婚者のセックスレスの率が年々増している現状が、どうしてもインタビューの言葉と重なってしまう。

それが良い悪いという話ではない。その"繁栄"の時代はもう終わったということだ。なぜなら人類は「知恵」を授けられてしまったのだから。

その知恵が上で書いたような不老不死を招いていくとするならば、もはや人類にとっては生き残りの争い、子孫を残すことすら過去にしてしまうかもしれない。神を生んだのも、神を殺したのも人なのだ。

折しも消費税増税という大きなトピックがあった2019年。
ボンヤリと選挙が終わり、誰しもが納得しないまま、迎えた10%への増税。もはや今の若者にとって、消費は人生を豊かにするものではなくなっている。

その欲求が消費ではなく「生み出す」ことに向いた時、またそこに新しい音楽が生まれる。そう思うと、やるせなさの中でまだ未来へ希望が抱ける。


「Utopos」という言葉がある。この単語を「ユートポス」と読むと意味は「理想郷」となる。ユートピアと語感が近いことからもわかると思う。しかし、この単語を「ウートポス」と読むと、「存在しない架空の場所」となる。『嘘喰い』で知った。





散る運命のアントロポシーン(人の時代)の先に待つの「Utopos」はどちらだろうか。

どちらにせよ、僕らはきっと最後のその時まで踊り続けるのだろう。



ドレスコーズビギナーがアルバム「平凡」を聴いた感想と志磨遼平の魅力
ドレスコーズ「dresscodes plays the dresscodes」final 新木場スタジオコーストライヴレポ
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