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2020年5月31日日曜日

フジファブリック"若者のすべて”の歌詞の花火は何の花火だったのか









人は儚さの中に美しさを見出だす。

混迷の世などものともせず、今年も美しく咲いて散っていった桜のように。

花火もそのひとつだ。

夜空に一瞬の輝きを放ち、消えてしまう。

一瞬が永遠となる。

そんな花火に、人は魅了される。

フジファブリックの"若者のすべて"を聴くとそんなことを思ってしまう。







花火









最後の花火に今年もなったな
何年経っても思い出してしまうな


人は記憶の中で生きていく。

"自分"というものを築いていくのはなんだろうか。

それは、自身で築いてきた歴史の積み重ねだろうか。
或いは、積み重ねてきた記憶の集合体とも言えるのではないだろうか。

集合体とはつまり、自分のものだけではない。
自分と関わってきた人々、間接的にも触れてきた人々によって構築されたのが、"自分"と呼ばれる存在なのだ。

人と過ごした時間だけ、自分の人生の一部が相手の人生の一部になる。その逆もまた然り。
たとえ、相手がいなくなってしまったとしても。

フジファブリックの"若者のすべて"はそんな"記憶"を歌った曲だ。

フジファブリックの"若者のすべて"は2007年に発売された10枚目のシングルである。
僕はフジファブリックはかなり遅まきのファンで、2007年頃はほとんど海外バンド(マイケミにドハマりしてた)を聴いていたので、リアルタイムで聴いてはいなかった。

ライヴも2019年のROCK IN JAPAN FESで初めて見たというほどなので、ガチファンの方には色々ご容赦いただきたい。

そのROCK IN JAPAN FESで聴いた"若者のすべて"が、忘れられない夏の思い出のひとつとなったのだ。
詳細は当時のライヴレポにも書いたけど、少し引用しよう。


最後の音が鳴り止んだ時、今日という日にフジファブリックを見れたことが、どれだけ幸せなことかと思えた。歩み続けてくれたからこそ、この感動があった。

万感の想いでいると、突然爆音と共に花火がステージから上がり、続いてステージ裏から花火が上がった。

GRASS STAGEのラストで花火が上がるのは通例だが、たしか他のステージでは上がらなかったはずだ。

(RIJFが)20周年だからこそのサプライズだったのかもしれない。

それが「最後の花火に今年もなったな」という歌が溶けたPARK STAGEに浮かんだ瞬間、それが志村正彦への手向けの花に見えた。

花火も音楽も消えてなくなってしまう。

けれど、人の心に忘れられない記憶となって残っていく。

誰もが同じ空を見上げていた。


まさに、何年経っても思い出してしまうような瞬間だった。









若者




"若者のすべて"が素晴らしい点は挙げればキリがないが、そのひとつがタイトルだろう。

「若者のすべて」というタイトルを聞くと、ルキノ・ヴィスコンティの映画(1960年)だったり、萩原聖人と木村拓哉が主演したドラマ(1994年)を思い浮かべる人もいるだろう。

若者という言葉から連想を繋げてみる。それは「青春」ではないだろうか。

「青春」という言葉は古代中国の陰陽五行思想に由来する。


夕方5時のチャイムが
今日はなんだか 胸に響いて


街灯の明かりがまた
一つ点いて 帰りを急ぐよ


1番と2番のBメロで共通して、夕方の情景が描かれている。

青春、青さそれから青い空が重ねられているのではないだろうか。

夕暮れ、それは青さの終わり、つまりは青春の終わりという意味も重ねられる。
それは「真夏のピークが去った」というフレーズも同じで、こうした奥行きのある表現の数々が仕込まれている。

花火と同じように、瞬く間に過ぎてしまう青春の日々。
その中にいる内はまるでそれが永遠に続くように思えてしまうが、過ぎてしまえば違うものだ。

名残惜しさに後ろ髪を引かれる想いとは裏腹に、時間は容赦なく人生を削り取って進んでゆく。

どんな時も、いつかは過ぎ、戻ることはない。

"空"と同じように、"時"もまた変わらない存在なのだ。

それこそが、世界の理(ことわり)なのだ。

変わっていくものと変わらないもの、その狭間で。

もう戻らない"あの日"があるからこそ、それは掛け替えのない存在として記憶の中で永遠となる。



変わらないものと変わっていくもの




変わらないものの中で、変わり続ける人という存在。

表現とはそんな葛藤との闘いではないかと思う。

人がつくり上げるものに、同じものなどない。
たとえ映像や写真、或いは音楽でいえば音源として残されたとしても、それは記録であり記憶ではないのだ。

変わらない記録は、人の心の中で変わり続ける記憶となる。
人が音楽を音源として録音して残すのは、変わらないものへの抵抗ではないだろうか。

その日までの自分の結晶を形として、残すことで時に自分を刻むのだ。

アーティストはなぜ、そんな音源として残っている音楽を、ライヴで演奏するのか、していくのか。
それは、人が記録ではなく記憶への問い掛ける行為だからではないだろうか。

志村正彦という男の時が2009年12月24日に止まってからも、その記憶は歌い継がれていく。


「運命」なんて便利なもので
ぼんやりさせて


「運命」は変わってしまうものなのだろうか、変えていけるものなのだろうか。


最後の花火に今年もなったな
何年経っても思い出してしまうな


このフレーズを聴くたび、胸が絞めつけられるような気持ちになる。

もしも運命が決まっていて、人がそれに抗えないとしたら、ひとつの記憶をつくることは、ひとつ終わりに近づくということだ。

止まってしまったあの日は、1歩ずつ遠い過去となる。

けれど、まぶたの裏にそれが浮かぶ限り、それは色褪せない記憶となっていく。

ピクサーの映画「リメンバー・ミー」のように、その記憶さえなくなってしまったとき、それがただの記録になってしまったときに、本当の終わりはやってくるのかもしれない。


最後の最後の花火が終わったら
僕らは変わるかな
同じ空を見上げているよ


さて、最後にこの記事を書くキッカケとなった、タイトルの話に入ろう。

歌詞の花火について、僕は自然と打ち上げ花火を想像していた。

それは「同じ空を見上げているよ」をという歌詞があったからだろう。

しかし、一つ僕の中で解釈が生まれた。

たとえばそれが線香花火のような手持ちの花火だったとしたら。

最後の花火の火が消えた時。

ずっと下を向いていたのをやめ、上を向く。その逆も然り。

心もまた同じではないだろうか。

いずれにせよ、消えてく花火はいつまでも心に残り続ける。

人それぞれの花火が胸にある。

変わってしまっても変えることができないものがある。

喜びであっても、悲しみであっても。

それが続いていく限り、僕らはまた空を見上げることができる。

大切なものをその瞳に浮かべながら。



《追記》


5月30日に八王子の花火大会が予定されていた。いつもは夏の隅田川花火大会と同じ日に裏で目立たずやっていたのだが、今年はオリンピックの兼ね合いで日程が早まっていたのだ。

ある理由があって、八王子の花火大会を見ることが特別なものだったのだ。

しかしながらコロナウイルスの関係で中止が発表された。

得たものを失うことは悲しいことだ。

同じように、得られるはずだったものを失うこともまた、耐え難い悲しみを生み出す。

夏はまだこれからだ。

何が起こるか、誰にもわからない。

変わらないものも、変わっていくものも、全てを抱いて。

散らなかった花火を心に宿し、また新しい明日を迎えにいく。


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