音楽を聴いて怖いと思ったことがあるだろうか。
ポルノグラフィティのファンは頷くだろう。
なぜなら"メビウス(仮)"の衝撃を味わっているのだから。
ライヴで聴き、配信で歌詞を見て衝撃を受けた。
「続・ポルノグラフィティ」というツアーだったけど、あの瞬間だけは「ゾクッ・ポルノグラフィティ」だった。
それが"メビウス(仮)"だ。
※歌詞の表記でいくと「メビウスのわ」だけど、文章中だと読みづらいので、歌詞としてではない部分は「メビウスの輪」と表記する。他の表記も準ずる
前置き
新曲として発表された"メビウス(仮)"だが、情報はほとんどない状態だ。如何せんタイアップとかリリースとかの予定がないため、読み解くにはやはり歌詞を見ていくしかない。
読み解く上でひとつ重要な前置きがいる。
会報の内容に触れざるを得ないので迷ったのだけど、自分の考察の都合上、作詞が誰かに触れないわけにはいかないので書かせてもらう。
どうせ息巻いて"メビウス"の歌詞の話題に触れたくて読んでくれている方はほぼぼぼ重度のラバッパーだろ。
そうでなければ今すぐに入会しよう。
ということでネタバレというかわからないけど、作詞者には触れるのでご注意を。
さて"メビウス"の歌詞を手掛けたのは新藤晴一である。
驚いた、本当に驚いた。
自分の中で歌詞においては、ヴォーカリストとして直感的な言葉選びをする岡野昭仁と、ロジックで文章として歌詞を書くという新藤晴一という対比があるからだ。
もちろん一概にそうは言えないのだけど、あくまで作家性としてそういう傾向にあるという意味だ。
配信で改めて"メビウス"を見たときに、その歌詞のひらがなの多さに驚かせられた。歌詞全体でも、直感的な言葉選びの印象だった。だから僕は岡野昭仁作詞だと思った。
しかしながら蓋を開けてみたら、新藤晴一だった。
"カメレオン・レンズ"辺りでまた作家性が広がったと思わされたが、またとんでもないものを見せられた。
僕が偉そうに言うことではないが「またひと皮剥けて深化した」という恐怖にも似た感情になった。やだもう、一生ついてく。
改めて新藤晴一が書いたという視点から"メビウス(仮)"を考察したい。
"メビウス(仮)"
やさしいあなたは わたしのくびねをりょう手でしめ上げ 泣いてくれたのにうすれるいしきに しあわせみたしてはずかしい はずかしい ゆるしてほしいよ
ここだけ見ると、ある種"プレイとしての行為"のように見える。「はずかしい」という感情は、行為に対して抱いたものというイメージだ。けれど、そうするにはどこか違和感もあって、それはこの先の歌詞で広がっていくことになる。
冒頭のアレンジが新藤晴一とtasukuのギターの掛け合いになっているのは、音でも2人の関係を表しているのだと思う。
どちらもクリーントーンが美しく、甘いロマンチックなトーンにさえ聴こえるが、2人の本心までは読み取れない。
なぜかというと、ひとつ穿った見方もできると思っているからだ。
歌詞はあくまでも"わたし"の目線からほとんど描かれている。けど"あなた"が同じ想いであるとは限らないのではないかということだ。
まさに"カメレオン・レンズ"での新藤晴一のコメント。
『人は見たいものしか見ようとしない」というカエサルの言葉を思い出しました。この言葉通りなら、すぐ隣にいる人と手を繋いでも、肩を寄せ合っていても、全く違うものをみていることにもなるわけですが、恋愛では当たり前のことなんでしょうか。』
これにも表れている。
それでも。もしかしたら、"やさしいあなた"はその想いさえ汲み取って、わたしの想いを叶えてくれているのではないかという読み取りかたもできる。
というように冒頭からエグいほど深みにはまる。
(仮)のくせに一生語っていられる。
それを更に深みにはめてくるのがサビだ。
もうめぐらせなくてもいいのしぼんだはいのままでもねWasted love Wasted loveこわれてしまった すきだったんだけど
ここで歌われる"love"というものが、なにを意味するのだろうか。極端な話、そこに明確な答えがあるわけではない。
loveという言葉をどう捉えるか、それによってまさにカメレオンのように楽曲は変化する。
Wastedにはいくつかの意味がある。使われていない、無駄な、壊れたなどの意味がある。スラング的な意味では「殺された」「酔っ払った」というニュアンスも含んでいるという。
歌詞の流れからすると「こわれてしまった」と続く歌詞とリンクすると考えるのが自然かもしれないけど、スラングの意味まで含めると愛に酔い、愛ゆえに迎えてしまった結末ともとれる。
ちなみに過激派としては「こわれてしまった」というフレーズを聴くとどうしても「一度壊れた愛は戻らないと/綻びのないルールがある」という"ルーズ"の歌詞が浮かぶ。
最初は男女の"行為"ともとれるニュアンスだったけど、サビまでの展開を聴くと、また世界が全く違ってみえる。
ここで最も気になるのが「すきだった」というフレーズだ。
冒頭からの展開を考えても2人の関係は浅いものではないはずなのに、ここで「あいしてたんだけど」ではなく「すきだったんだけど」となる点が、とても引っ掛かる(メロディに合うかという前提はわかるが)。
もちろんloveのひとつの感情ではあるんだけど「すき(好き)」というものは、愛よりも恋(≒like)というイメージに近い。
手をかけ涙するほどの感情を経て行き着くのが「すきだったんだけど」になるのが、どうしてもしっくり来ていなかった。考えた末の自分なりの答えは後ほど書く。
ツアーの考察ではサビが"あなた"の視点ではないかというニュアンスのことを書いたけど、やはり最初から最後までわたしの目線だったのではないかと思うようになった。
ここはひとまず次に移ろう。
2番はCメロまでまとめて引用してしまう。
わたしの体は ゆびあみ人ぎょうやさしくほどけば なんにもなくなりそのくせなんども なまえをほしがりごめんなさい ごめんなさい わすれてほしいよもうとじてしまっていいよあかい目で見ていたくないWasted love Wasted loveチャイムがなっている うちにかえらなくちゃあなたがいないあさから わたしのいないよるまでメビウスのわのように ねじってつなげましょうえいえんとは かくなるもの
段々と「エルデンリング」のメッセージに見えてきた。
ここで「やさしく」とあるのは、一番Aメロで出てきた「やさしいあなた」が紡ぎ、ほどいていくもの。
このゆび編み人形の描写はどこか、岡野昭仁が"小説のように"で書いた「あなたに愛される事で/僕は輪郭を縁取られ色が付いてここにいる」とかにも通ずるようなニュアンスを思わせる。
それっぽいことをいえば「あなたがわたしに生きている意味を与えてくれた」みたいなイメージではないかと思う。
特に2番から幼児性というか、ちょっと子どものような目線の描写が見え隠れする。なので、子どもだったのではとも考えた(一時は本気で心中の曲だと思った)。けど、改めてこれは"わたし"と"あなた"の曲であると信じたくなった。
そこで先に書いていた「すきだったんだけど」というフレーズの意図と繋がるんだけど、幼さを見出だしたのは、そこに2人の「はじまり」があったからではないかと考えた。
ちょっと飛躍した解釈になってしまうんだけど「あなたのいないあさ」って、ずっとこの行為が行われた当日の朝だと思っていた。けれどこれが遠い昔、「あなたに出会う前の朝」だったなら。
そこから「わたしのいないよる」までを切り取って繋げたとしたら、そこにあるのはあなたとの日々。しかも、ただ輪にして始まりと終わりを円環で繰り返すことではない。それを永遠にするため、メビウスの輪のように、ねじってつなぐことができたならば。
始まりも終わりも、終わりも始まりもない世界。
もうひとつ、それが童心からの記憶であったならば。
夕方のチャイムが鳴ってそれぞれの家に帰れば、あなたにはわたしのいない夜がやってくる。うちに帰ればわたしにもあなたのいない朝がやってくる。反対も同じだ。
ツアー考察でもこの「チャイムがなっている/うちにかえらなくちゃ」がとにかく異質に浮いてると考えて深みにはまったのだけど、現時点で最もしっくりくるのがこれだった。
こうしてメビウスの輪は終わりなき永遠をめぐり続ける。
様々な解釈の可能性を秘めている歌詞だけど、自分なりにひとつの光景を思い浮かべてみた。"カメレオン・レンズ"的な解釈もできたけど、最後にしっくり来たのは、やはりたしかに愛し合っていた2人の姿だ。
──"わたし"は意識がほとんどない状態が続いている。何もできず、ただ眠っているだけで、目覚めることはない。
"あなた"はそんなわたしに寄り添い続けた。けれど、本当は気づいている、わたしが回復する見込みがないのだと。
長い間、あなたとわたしは共に過ごしてきた。
あなたがいる朝も、わたしがいる夜も。
しかし"わたし"は目覚めることのない日々に「いつまでもわたしといる生活」を申し訳なく思い続けている。何もできないのに、あなたは日々を尽くしてくれて、はずかしくても、何度ごめんなさいと謝っても、言葉にすることはできない。
あなたは決して望んでいなかった。
けれどやさしいあなたは、わたしの想いもわかってくれていた。この日々を、この手で終えるのだと。
だからあなたは泣きながら、やさしい手をわたしの首に掛けた。あなたが作り上げてくれたわたしを、ひとつひとつほどくように。こんな想いを忘れてほしいのに、きっとあなたはいつまでも覚えている。誰よりもわたしを想ってくれていたのだから。
チャイムが鳴っている。それが外から聴こえるものか、わたしの記憶で鳴っているものかはわからない。
うちにかえらなきゃ。だって、あなたにはわたしのいない夜が待っているから。
Wasted love Wasted love
あんなにすきだった日々を。
わたしがこわしてしまったから。
だから、あの時といまをねじってつなげましょう。
えいえんとは、かくなるもの──
ある意味、ここにあるのは愛憎とさえ呼べるかもしれない。
主人公が回帰した純粋な想いの強さが、この"メビウス(仮)"の狂気にも似た感情を生み出している。
僕にはそう思えてしまう。
歌詞の世界観としては、自分なりの精一杯はここまでだ。
けれど、もう1つ考えなければならないことがある。
なぜ「続・ポルノグラフィティ」で選ばれたのが"メビウス"だったのかということだ。
なぜ"メビウス"だったのか
「続・ポルノグラフィティ」というツアーで、これからを示すためにセットリスト入りした新曲"メビウス"。
「いま皆さんに届けたい音と言葉」と言われて出されたのがコレということで「えぇ…」と困惑したファンもいると思う。
だから「なぜ"メビウス"だったのか」ということをずっと考えていた。
最初の糸口はまさに歌詞にあるように「えいえんとは
かくなるもの」というメビウスの輪の性質から追おうとしていた。
始まりと終わりのない永遠の輪が、「続」というテーマに対してどうなるか考え深みにはまった。
しかし考えてみたらメビウスの輪が表すものには、もっと一般的な意味合いもある。
それは「裏も表もない存在」だ。
メビウスの輪の上をなぞると、表はいつしか裏になり、裏だった面が表になる。
そして終わることのない円を描き続ける。
やはり20周年がひとつのターニングポイントになったと思う。
故郷であるしまなみから始まり、まさにファン向けの"裏ポルノグラフィティ"と呼べるマニアックなセットリストの「UNFADED」を経て、《ルール無し、これがポルノの総力戦》と謳いこれまでのポルノグラフィティの全てを詰め込んだ「神vs神」、「REUNION」を経てまたマニアックな「続・ポルノグラフィティ」へと。
まさに表も裏もなくポルノグラフィティは全てをぶつけてきた。
サブスクリプションによって、シングルやアルバムのようなくくりがなく音楽を受け入れられる状況で。パブリックイメージのポルノグラフィティと、ファンがよく知るそれだけではない顔。すべてが平等に並ぶ世界。
そして新藤晴一という人は僕らへの手紙にこう記した。
それは瞼の裏の光 遥か青春の日仄かな温もりが残るよ時間は距離じゃない~"一雫"
瞼の裏に浮かんだ光景を、彼は目の当たりにした。
僕らはその1つひとつになった。
僕らは信じている。いつまでも、こんな日々が続くのだと。
けれど、彼はわかっている。
この旅路の果てで待ってて~"一雫"
終わりは悲しいけれど、そこから始まることもある。
そして、僕らにはいつか必ず終わりがやってくる。
だからこそ。彼はこのツアーで、この曲がテーマをついていると主張したのだ。
Love,too Death,too そこに美しい終わりがあるから流した涙で人は思い出 繋ぎ止められる~"Love,too Death,too"
なぜなら、当たり前のことを忘れていたからだ。
終わりがあるからこそ、「続く」という概念が生まれるのだということを。
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