2022年1月3日月曜日

【考察】「続・ポルノグラフィティ」とはなんだったのか






「続・ポルノグラフィティ」ツアー最終日、岡野昭仁は言った「今回のセットリストはマニアックです」「深掘りしてくれたら」。

今まで勝手に自分はライヴのたびに考察という名の空想を広げていたけど、ヴォーカル直々に挑戦状を叩きつけてきやがった。

(まぁ話の文脈からしてマニアックな曲ばかりだから、ポルノにはこういう曲もあるんだって楽しんでほしいって意味の「深掘り」だと思うけど)。

いずれにしても言われなくてもやるので始めよう。

徹底考察のお時間だ。

…と意気込んで始めたけど、今回は本当に難儀だった。
正直、色々とお手上げです。




IT'S A NEW ERA




ライヴレポで書いた「"IT'S A NEW ERA"がこのツアーのキーである」ということから始めたい。

ツアー最終日、ライヴ終了後にツアーを総括するエンドクレジットが流れた(「Porno Graffitti will return」って出て欲しかった)。

そこで合わせて流れた曲は"IT'S A NEW ERA"だった。
普段だったら直近のA面曲であった"テーマソング"が流れそうなものではないか。

なので"IT'S A NEW ERA"が流れたのには何かしらの意味があるはずだ。

配信を見てたらライヴ前のリハ映像で"テーマソング"流しちゃったから、な感じはちょっと受けてしまったけど気にするな、気になるから。

それでも本編で"THE DAY"の前に岡野昭仁が「それこそ"IT'S A NEW ERA"、私たちの場所、新世界ですよ」と語っていたこと、1曲目に選ばれたことを思えば、やはりこの曲が重要な役を担っているのは間違いない。そうでないと俺がバカみたいではないか。バカだけど。


手を伸ばせば 触れられるもの
見つめれば 微笑むもの
それが真実 明らかなこと
あなたのこと 確かに感じているの



かつて「SWITCH」ツアーで、ライヴとは目には見えない音楽を花束にして渡す場所がライヴだと、彼らは言った。

見えるものと見えないもの、触れられるものと触れらないもの。

音楽が目に見えなくとも、ライヴ会場で鳴らされた音はスピーカーを通して空気を震わせ僕らの鼓膜を震わせる。

触れることは触ることとは違う。皮膚と皮膚が交わらなくとも、ライヴ会場に響く音楽は心の琴線に触れ、感動をくれる。

変わってしまった世界で、声が出せないという変わってしまった客席。しかし、ステージから届けられる想いは何一つ変わりない。いや、むしろこの状況でら、会えたことの喜びが勝るほどだ。

その中で、この考察の行き着く先「NEW ERA」は、僕らにとって現在地なのか、それとも目的地なのかということだ。


世界の裏表




ここからかなり妄想と憶測の濃度が高まるが、自分なりに考えたことを記しておこう。

最終日が始まる前に相棒と話していて、脅しをかけるためにセットリストが凄すぎて頭がわけわからなくてバグる感じを、ネタバレなしで例えるのに苦労した。

個人的には「地獄でなぜ悪い」だったんだけどわかりづらいので候補を考えて、ふとクリストファー・ノーラン監督の「TENET/テネット」を例に出した。





それがなんとなく自分の頭に残ってて、ライヴを見ていてある時にふと気づいた。考察がメンドクセーのが同じだ

全てが表裏一体なのだ。

セットリストの多くの曲が自分の内へ内へと向かうような、内面的で内省的な曲が多く並んでいるように感じた。

自分の心を深く掘り下げるたび、そこには自分の周りの世界が色濃く反映されている。自分の内面が外の世界へ影響を与え、外の世界が自分の内面へ影響を与える。

常に影響を与え合って裏表は繰り返す。 そこには始まりも終わりもない。

それって、何かと同じではないか。

それこそ、まさに「メビウスの輪」ではないか。

メビウスの輪は、細長い帯を一度ねじって両端を貼り合わせることで生まれる、裏表のない存在だ。

だから「いま届けたいもの」は"メビウス"だったのではないか。

人間とはアンビバレンツな存在だ。誰もが多かれ少なかれ、矛盾を抱え、捻れた心を持って生きている。僕なんてカバンに入れたイヤホンくらい酷いもんだ。困ったものです。

だから"ハネウマライダー"に感じる力強さは、止まることも曲がることもできない不器用なバイクに惹かれるからかもしれない。


さて、ここから少しずつ核心に触れていく。

「TENET/テネット」が頭に浮かんだのは、それが時間を逆行させる物語だったからかもしれない。

物語の時間軸として過去から未来を、未来から過去を描くものだったのだ。

ポルノグラフィティは過去の曲たちから未来を描いた。

そして未来を示す曲は、今まで歩んできた過去があるからこそ生まれたのだ。

今回のツアーを見て、漠然と頭に「SWITCH」ツアーと「ポルノグラフィティがやってきた」ツアーが思い浮かんだ。曲は時代に関係なく、満遍なくやっているけど、その頃の曲が特に印象に残ったのだ。




「ポルノグラフィティがやってきた」ツアーは、日程ごとに本編のセットリストが丸々引っくり返るという、かなり特殊な形態のツアーだった。

1曲目だった曲が次の日には最後の曲に変わり、最後の曲が最初の曲へと変わる。

これでやったことって、まさに裏表のないメビウスの輪ではないか。

そして「ポルノグラフィティがやってきた」のセットリストで裏表の中心に位置していた曲が"鉄槌"だった。"鉄槌"は今回のライヴでも中盤のヘソとなる役目であった。
まぁ僕はチケット落選して参戦してないけど

なぜ「ポルノグラフィティがやってきた」なのかというと、このツアーがアルバム「PORNO GRAFFITTI」を引っ提げていたからだ。





このアルバムはセルフタイトルを冠しているだけに、ポルノグラフィティにとっては他のアルバムとはまた違った決意が込められている。

この時点ではメンバーが手掛けた楽曲が最多で収録されたアルバムとなった。

そして一番大きなポイントは、アルバムの楽曲制作のデモをまずメンバー2人で詰めてからスタジオで収録していったことである。

初回付属のDVDのドキュメンタリーにも表れているけど、この時2人はポルノグラフィティとはというものを問い直している。

そこで出たのは岡野昭仁、新藤晴一こそがポルノグラフィティであるという答えだ。

ドキュメンタリーで「俺の曲に口を出していいのは昭仁だけだし、昭仁の曲に口を出していいのは俺だけ」という新藤晴一の言葉が出るが、それは傲りではなく「俺たちがポルノグラフィティである」という意志を再確認したからこそ生まれた、決意表明なのだ。

Tamaが脱退したあと、ポルノグラフィティを続けることを決め、また歩みはじめた岡野昭仁も新藤晴一。そしてそれを背負うことを決意したからこその「PORNO GRAFFITTI」というタイトルのアルバムは生まれた。

アルバムの内容は賛否あるが、このアルバムがあったからこそ、今のポルノグラフィティに繋がっているのだと僕は思う。

そんなアルバムのツアーだったからこそ、"Again"のように、もう一度その意志を示したのではないかと思ったのだ。


では今回のツアーのキーとなる最初の曲、"IT'S A NEW ERA"は、果たして新たな始まりの曲だろうか、はたまたもう始まってしまっている世界の歌なのだろうか。

考えても答えは出ないだろう。

この風にも行くあてなどないように。

最初から答えなんてないのだから。

巡り巡る。

すべては堂々に巡っている。

それはシングルが"テーマソング"ではじまり"REUNION"を経て"IT'S A NEW ERA"で終わるのに対して、ライヴは逆に"IT'S A NEW ERA"からはじまり"テーマソング"で終えたように。

コロナウイルスという存在に、人々の暮らしは大きく変わった。コロナ禍のいまを新しい世界とするか、それを乗り越えた世界を新しい世界とするか。

答えは人の数だけあることだろう。

それが世界なのだ。



メビウスの輪




ということで"メビウス"の考察がどうしても必要だ。 長いポルノグラフィティの歴史でもまた難解な曲が誕生してしまった。

その歌詞の衝撃に、多くのファンがいまでも夜な夜な考察をしていることと思う。「ポルノグラフィティ、全盛期はこれからです」のリアルタイムまじでヤバい。


やさしいあなたは わたしのくびねを
りょう手でしめ上げ 泣いてくれてたのに



出だしからいきなりこっちが首を絞めあげられている気持ちになる。
テレビで流せんやろ、これ。

ライヴレポでも書いたけど、会場で最初に聴いたとき自分は「わたしのくびれを」に聴こえていた。
だから「セクシーな雰囲気」というのは、そういう艶やかなものと受け取っていた。或いは"フィルムズ"的な視点なのかと。

まさか「くびね」だと思わんかった。そう聴こえていたとしても、脳がそう認識することを認めなかった感じだ。
そんな衝撃のフレーズから始まる"メビウス"だけど、この曲で自分が最もドキッとしたフレーズは、これだ。


チャイムがなっている うちにかえらなくちゃ


歌詞を通して全体的なひらがなの多さにも度肝を抜かれるが壮絶な歌詞の中で、この一文が最も恐ろしさを感じさせる。 全体を通してもこの一文だけが、明らかに浮いている。

そもそもこの曲って全体的に不穏な雰囲気がいつまでも残る、とりわけサビ辺りは特に、誰の視点なのか定まらないからだ。限りなく、"あなた"の視点になったようなのだけど「もうとじてしまっていいよ」「あかい目でいたくない」は互いに心を写しているようだ。

それだけ互いを向き合っていたような描写が続いたのに、ふと2番の最後にくるのが、このフレーズなのだ。このフレーズは最初聴いたときも印象に残ってて、不思議な感覚になった。

我に返るように、それがさも当然のように「うちにかえらなくちゃ」と歌われる。お前は「バイオハザード4」で鐘が鳴ったら帰る村人かよ。




どういう映像を思い浮かべてもサイコパスなんだけど、マジでどう受け止めたらいいんだ、これ。

正しさとか理解は置いたとして、究極的に恋愛のひとつのカタチとして、こんな愛の終わりを選んだ2人が世にいたとしてもおかしくないのに、それを呆気なく手放してしまうような。

この一文がなければ、ひとつの壊れてしまった愛の物語だと受け取れたのだけど、この一文がすべてを狂わせる。

強いていえば、あまりの放心状態に聞こえてきた音に無意識に身体が動いたみたいな感じだろうか。

場面だけ見ればいくつもの想像が浮かべられるだけに、こういう曲は難しい。
たとえば時折ニュースに流れる介護疲れとか、そういうものも当てはめられそうだし、偏愛でも純愛でもある。

正直、今の時点では、ここまででギブアップです。 今後世に出る際にインタビューなどで片鱗が掴めると期待している。

引っ張られそうなのでこれを書くまであまり他の人の解釈をちゃんと読まないようにしてたから、人によって違う様々な解釈を見ていきたい曲だ。

ちなみにライヴレポなどでも書いたけど、僕は作詞岡野昭仁だと思ってる。

「続いていくこと」を見つめるツアーでありながら、そこで届けた新しい言葉は「終わらせること」の物語であったことに意味があるのかともちょっと思えた。

そして忘れてはならないのは、そんな"メビウス"の先の「いま届けたい音と言葉」として届けられたのが、もうひとつの未発表曲"ナンバー"だったことだ。






ナンバー




僕は今回発表された"ナンバー"の歌詞が、ポルノグラフィティの楽曲でもかなり上位に入るほど好きになっている。
もちろん、歌詞にうさぎが入っているからだけではない。

"ナンバー"は大好きな"何度も"のメッセージを再認識して描いているように思えたからだ。


じっと両手を見つめて
途中から数え直して
どこで躓いたのか
確かめられたとしても
同じ痛みをなぞるだけなら
~"何度も"


これに対して"ナンバー"は、


数えるのではなく 満ちるの待っているの


数えるのではなく 欠けるの知っているの


自然を生きる生き物にとって、数えることは意味のない行為かもしれない。このツアーを指折り数えて待っていた僕は、まさにそうだ。

けれど、それがヒトという存在であると歌っているように聴こえたのだ。

意味のないことに意味をつけて、時に意味のあることを見落としてしまう。

どこまでも果てしなく不器用で。

それでも。

それが、ヒトという存在で。

だから、ヒトは愛おしい。

人間は、面白い。

あるがままでいることを描いた歌詞の裏に、僕はそんな意味を見出だした。自分がこんな妄想紛いな解釈を書いているせいかもしれない。

それでも。

だから、人は幸せについて本気出して考えるのだ。



始まりと終わりの円





"IT'S A NEW ERA"が始まりの曲であり、辿り着いた場所のひとつなら。

大切なのは、そこと繋がっている曲。

それは2曲目に演奏された"幸せについて本気出して考えてみた"ではないだろうか。


幸せについて本気出して考えてみたら
いつでも同じ所に行き着くのさ


新しい世界で見出だす幸せも、いつもそこにあった幸せも、どちらもが表裏に存在する。

そんな時代に。

ポルノグラフィティが向き合った場所は、どこか。

LINE CUBE SHIBUYA

その場所はコロナ禍でREUNIONを果たし、新たな旅(ツアー)の始まりとなった場所。

そこで初めて披露された、届けたかった新たな音と言葉。



指先で 輪を作れ
連なって 環を広げよ
波のように 押し寄せる
感覚の圧に委ねよ
始まりと終わりが完全な円に閉じられてゆく
~"REUNION"


円が意味するもののひとつは永遠だ。

前に、大して考察になってない考察記事でポルノグラフィティが描いてきた「永遠」について考えて見事に失敗した。

ポルノグラフィティの歌詞における『永遠』を定義してみた

その時にポルノグラフィティは永遠を否定することで、想いの強さを表すことが多いと書いた。


永遠ってものはこの世界にはないようだ
それはこの上ない淡く厳しく儚い真実
だからこそ僕らは一度きりの人生を一秒たりとも忘られぬほどに愛し合おう
~光のストーリー


永遠でなくてもいい 限りある命と
愛しい時が流れて
小さな泡になって消えていく瞬間
それさえ愛したい
~グラヴィティ


僕が"永遠"を好まないのは
今日の次にある明日を求めるから
~Mugen


などのフレーズに表されているものだ。

円は永遠も表しているのだけど、メビウスの輪はどうだろう。終わりがないようでいて、それを生み出すには、帯の端と端という"終わり"が必要になる。

その終わりと終わり、或いは始まりと終わりの両端をねじって繋げることでメビウスの輪が生まれる。

ややこしくなってきたので結論へ行きたいんだけど、それって岡野昭仁がMCで直接語っていたことなのだ。


「みんな手が痛くなるくらい叩いて、その痛みを次に会うときまで覚えておいて。そして次の曲をみんなで一緒に歌おう」


"テーマソング"の前のMCで岡野昭仁が言ったこと。
その円環が完成するのはまだ先かもしれない。

始まったライヴは終わってしまう、ツアーも最終日がきてしまう。

けど、自然と「また会いたいな」と思えて。それを励みに僕らは自信持っていこう、胸張って行こうの言葉を心に抱いて、明日へと向かう。

終わりがあるからこそ、寂しくて、会っているそのひと時を大切にして、その瞬間が愛おしくなる。


Love,too Death,too そこに美しい終わりがあるから
流した涙で人は思い出 繋ぎ止めてる
Love,too Death,too 小さく紙に落としたピリオドから 愛した人よ
そこに残した想いを見つけて


命さえ、いつか尽きてしまう。

だから。

出せなかった声を想いに変えて。

クラップをしながら噛みしめた幸せを。

終わりがあるから、終わりなき幸せが胸に残る。

指折り数えて待ち焦がれた日が、満ち足りた時をくれる。

幸せについて本気出して考えてみたとき、いつもそこにあなたがいて。

だから。


あなたが幸せならば それで良いと言いたい


それはポルノグラフィティがいつも僕らに伝えてきたこと。

だから。

僕らもそれに応えてきた。

そうやって22年の歳月が過ぎていった。

そして今ポルノグラフィティは23年目の歩みを進めている。

年月が続いているのは、ただ時間が過ぎているからではない。

想いを繋ぎ合わせてきたからだ。

終わりなき存在、終わりのある存在、始まりと終わり。

改めて振り返ると、それを多く描いてきたのは岡野昭仁ではなかったか。


はじまりも終わりもなく どこまでも続きそうで
一人きり震える 君よ Don't cry Don't cry
~"Montage"


たとえ何度生まれ変わっても
何度もまたキミに巡り合う
きっといつも温かい場所へ
まっすぐに帰る渡り鳥のように
~"wataridori"


それは運命に導かれたんだ
辿れば僕らは一つだったから
輪廻転生の 消えない記憶で
何度も出会っているのだろう
また新しい旅に出る
~"海月"


めぐりめぐる君を辿る
僕がすべて抱いてあげる
~"ROLL"


新藤晴一は未来を描くと、このブログでもよく触れる。

対して岡野昭仁は今を描くのだと、僕は思う。

そして新藤晴一はロマンチストであり、岡野昭仁はリアリストだ(どちらの要素もあるけど比較的という意味で)。

この2人だからこそ、ポルノグラフィティの世界は広がっている。

この2人だからこそ、僕らはどんな時代になっても居場所を見つけられるのだ。

そんな旅路が続いていく。

途切れることのないメビウスの輪の上で。


【余談】
メビウスの輪に平行した二本の線を入れて切り込みを入れると、どんなカタチに展開すると思いますか?

答えは、実際に見た方が早いと思う(他力本願)





そして、共に歩く人が増えればどうなるか。




平行の数が増えるごとに増えるメビウスの環(輪)たち。

共に行こう拳あげて、


連なって輪を広げよ、


私のための 場所がそこにある、


約束はついに果たされるのさ。


その場所こそが。


IT'S A NEW ERA


なのかもしれない。



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