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2018年10月2日火曜日

Zombies are standing outの歌詞の意味を徹底的に深読みする《後編》或いは《存意》






引き続きポルノグラフィティの新曲"Zombies are standing out"について書いていく。

前編はこちら。


Zombies are standing outの歌詞の意味を徹底的に深読みする《前編》或いは《本編》


前編でも宣言した通り、後編はほとんど歌詞から遠ざかって行く内容となっている。

それでもやはり「この時代に」生きる僕らは、考えることを止めてはならない。

考えを止め、思考停止してしまった瞬間、人は本当の意味でゾンビになってしまう。

僕らに必要なゾンビとは、立ち上がり必死に生を掴もうとする意志を蘇らせることなのだ。

それこそが、この記事の要約であり、伝えたい全てである。


ポルノグラフィティ
Zombies are standing outの歌詞の意味を徹底的に深読みする《後編》或いは《存意》






ジョージ・オーウェル『1984年』




※ここからさらに、どんどん面倒な話になりますが、スノッブを効かせたいわけではなくて、ちゃんとゾンビに繋げるので読んでいただければ幸いです


出だしのサビのフレーズ「荒みきった Crazy town」。ここで、思わず想像してしまうのは"ネオメロドラマティック"の荒廃した近未来のような世界観。

そして描かれるディストピアな世界。
※ディストピア:ユートピアの対義語で主に荒廃した未来世界を指す

ここで描かれる世界観、もちろんドラマの「ウォーキング・デッド」でカール!してるようにも見えるけど、僕にはジョージ・オーウェルの小説『1984年』で描いた世界に見えた。









『1984年』とは、Wikipediaから引用すると"全体主義国家によって分割統治された近未来世界の恐怖を描いている"という近未来SF小説である。


先日"辞職"を発表しTwitterで何かと話題のアーティストぼくのりりっくのぼうよみが2016年にリリースした"Newspeak" では「オーウェルみたいな世界になってくよ」直接的に触れているし、インタビューでも『1984年』について触れている。






というよりもタイトルの"Newspeak"が既に『1984年』からの引用なのだけど、その意図について、彼はこう発言している。


1曲目の“Newspeak”に<オーウェルみたいな世界>、つまり「全体主義的ディストピア」を示唆する言葉(ジョージ・オーウェルの小説『1984年』に由来。なおNewspeakというタイトルも同名小説に描かれた架空言語を指す)と、<哲学的ゾンビ>という言葉があるんですが、つまり主体的に物事を感じたり考えたりすることができない、言い換えれば生きている実感を持つことなくただ人形のように生きる人々がテーマになっていると思うんです。

ぼくのりりっくのぼうよみ、
初のEP『ディストピア』で描く現代社会への警鐘。
その真意を解き明かす


さらにこの曲の中に出てくる言葉、それが「哲学的ゾンビである。この言葉はデイヴィッド・チャーマーズが90年に提唱したもので現象ゾンビ(Phenomenal Zombie)とも言われる。

哲学的ゾンビとは、簡単にいえば「表面上は普通の人間と同じなのに、内面は意識がない存在」のことである。
……俺か?俺だ。


ホラーのゾンビとは別物という感じで、"Zombies are standing out"の歌詞にあるゾンビとは、つまりこの哲学的ゾンビを指すともいえるのではないか。


異常が正常になり、正常が異常となる世界が生まれるのである。

考えることを止めてしまえば、人はいつか無感覚、無関心、無目的の中へ落ちていく。



『1984年』と音楽




他にも『1984年』は音楽界でも度々その影響を受けた作品がリリースされている。

イギリスのバンドMUSEは2009年に「The Resistance」を発表。






このアルバムについてヴォーカルのマシュー・ベラミーは『1984年』からの影響を強く受けていることを公表し、


「資本主義による弱肉強食の淘汰、政治・社会のそこかしこに横行する隠蔽や不正、監視社会、抑圧される個人-と本質的に変化していないのではないかと問うている」

と発言している。

さらに、Radioheadのトム・ヨークは2003年にリリースされた「Hail to the Thief」に収録された"2+2=5"で『1984年』の言葉を引用している。






高校生だった僕は、当然『1984年』なんて知らないから初めて聴いた時にトム・ヨークって人はアホなんだなと思ってた。ごめんなさい。


「2+2=5」というのは作中に出てくる「二重思考(ダブルシンク)」という概念による。それは支配する党によって「2足す2は5だ」と主張すれば、それに従うしかないという思考を操作されることによる。

そこで主人公のウィンストン・スミスは「自由とは、2足す2は4だと言える自由だ。それが認められるなら、他の自由はすべて後からついてくる」とノートに記す。

もちろん小説の世界でも。身近なところでは作家の伊坂幸太郎は『ゴールデンスランバー』や『モダンタイムス』において『1984年』を彷彿とさせる世界観を書いている。新藤晴一と伊坂幸太郎も云わずもがなだ。






間違いなく新藤晴一も『1984年』を読んでるはずで。無意識にも、このテーマが含まれているのではないか。
してなかったら、わざわざ『1984年』読み返した僕が報われないから意識していると断言しておく。


そしてそのディストピアの先にある景色を、僕らはもう知っているではないか。


Utopia そこには探している完全な自由があって
僕には名前もなくて僕は誰かで紛れてく
消しさってくれるよMonkey POW!

~"空想科学少年"


斯くして"Zombies are standing out"のことを考えているはずなのに、『1984年』に行き着いてしまうのだ。


『1984年』が取り沙汰されるとき、世相は決して明るいとは言い切れない。それはジョージ・オーウェルはこの作品でスターリン体制下のソ連を暗に描いているからだ。

それを示すかのように、2017年にドナルド・トランプがアメリカ大統領に当選した際にアメリカで脚光を浴びることとなるのだ。









思考停止と再起動




折しも先日、がん免疫療法開発でノーベル医学生理学賞を受賞した本庶佑氏は、会見で「研究にあたって心がけていることやモットーは?」と訊かれ、こう答えた。


私自身の研究(でのモットー)は、「なにか知りたいという好奇心」がある。それから、もう一つは簡単に信じない。

よくマスコミの人は「ネイチャー、サイエンスに出ているからどうだ」という話をされるけども、僕はいつも「ネイチャー、サイエンスに出ているものの9割は嘘で、10年経ったら残って1割だ」と言っていますし、大体そうだと思っています。

まず、論文とか書いてあることを信じない。自分の目で確信ができるまでやる。それが僕のサイエンスに対する基本的なやり方。

つまり、自分の頭で考えて、納得できるまでやるということです。


これ、マスコミは普通に報道していたけれど、強烈なアイロニーであり揶揄だと思ったんですよ。

「言論の自由」を盾に既得権益を貪り尽くしている報道への。
「教科書」という言葉を使っているが、マスコミへの強烈なカウンターにしか見えなかった。

マスコミや広告代理店によって、云われるがままに操られる人々
ゾンビって、ウイルスによって死んだ身体が操られて勝手に動かされるって存在なわけですよ。

それはまさに思考を失った哲学的ゾンビではないか。

そこで本当に大切なのは「自分の頭で考える」「自分の目で見たものを信じる」こと。

このブログでよく名前を出すが、ハルカトミユキの「溜息の断面図」を僕が愛して止まないのは、正にそれを問い掛け続けるアルバムだからだ。

アルバム最初の曲"わらべうた"から喰らわされる。






白か黒しかわからない
想像力のない奴ら


という強烈なフレーズ。





そしてジョージ・オーウェルの『動物農場』で訳者の開高健が後書きに残した言葉。


しかし、つねに、「自由か、あらずんば死か」の覚悟をしたたかに下腹につめてペンを運ぶ気風と気迫が電流のように紙からつたわってくるのが魅力だった。政治家の汚職だろうと、個人の私行だろうと、モンダイになるものが発生すると、たちまち集団ヒステリー症を起こしてシロかクロかの議論だけしかできなくなるニッポン人の全体主義者風の心性にはがまんならないが、これはどうやら根がどこまで入っているのかまさぐりようがないくらい、深くて、しぶとく、そして卑小である。その心性が明をも生み出し、暗も生み出すのだが、今後もずっと肥大し続けることであろう。


これは1984年の言葉である。


時代の写し鏡として




"ゾンビ"映画が暗に戦争を比喩していたように、『1984年』でも全体主義への危惧が描かれる。

こうして時代を越えてそのテーマは蘇り、受け継がれる。

一見荒唐無稽なゾンビという存在は、現実の写し鏡である。
ゴジラが、メタファであるように。

そう、込められたメタファにこそ「現実という名のBullet」はある。
見て見ぬ振りしてはならぬ存在だ。

たとえば、本来自由なはずのネット、SNSで生き苦しさを感じることはないだろうか。

それは世界に伝わるということは、世界に監視もされているからだ。見えない全体主義が根底に流れている。
誰しもが個人主義で自由なようでいて、実は何かに縛られている。

オーウェルの言葉を使えば「自由は隷従なり」である。

それでも得られる本当の自由とは何か。


"ブレス"の歌詞において新藤晴一は「君は君でいい」というメッセージを書いた。

しかし、裏を返すならば本当の夢のための責任も努力をすることも自分自身の決断に責任を持つということではないか。


ゾンビのように見えない思考に操られているのではないか。だからこそ、ゾンビたちは立ち上がり、叫ばなければならない。

それこそが真に"生きる"ということではないか。


「Zombie」とは喪失感や諦念に抗い、何度でも立ち向かう、立ち上がる象徴なのだから。


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