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2019年1月8日火曜日

映画「こんな夜更けにバナナかよ 愛しき実話」感想(ネタバレ無し、有り)





映画「こんな夜更けにバナナかよ 愛しき実話」を観てきた。
ということで、原作含めてネタバレ有無でそれぞれ感想を書こうと思う。

観た理由は云わずもがな、ポルノグラフィティが主題歌をつとめていたため。主題歌"フラワー"についても合わせて読んでいただければ幸いである。

そちらでも色々書いているので「高畑充希めっちゃ可愛い」「俺も◯※△×触りたい」だけで終わらせたいのだが、そうも行かないので書いていこう。


※原作表記に則り「障害」として漢字表記とする


こんな 夜更けにバナナかよ 愛しき実話
ネタバレ無し感想、ネタバレ有り感想




あらすじ




北海道の医学生・田中はボランティアとして、体が不自由な鹿野と知り合う。病院を飛び出し、自ら集めた大勢のボランティアや両親に支えられて風変わりな自立生活を送る鹿野。夜中に突然「バナナが食べたい!」と言い出すなど、いつも王様のような超ワガママぶりだが、自分自身に素直に生きる鹿野は、どこか憎めない愛される存在だった。ある日、鹿野は新人ボランティアの美咲に惚れ、彼女へのラブレターの代筆を田中に依頼するが、実は美咲は田中と付き合っていて…。奇妙な三角関係は、鹿野の主治医やベテランボランティアたちを巻き込んで大変な騒動に!しかし鹿野の病状は徐々に悪化、体はますます自由が利かなくなっていく。


監督 前田哲
出演 大泉洋、高畑充希、三浦春馬、萩原聖人、渡辺真起子、宇野祥平、韓英恵、竜雷太、綾戸智恵、佐藤浩市、原田美枝子
[上映時間:120分 ]



ネタバレ無し感想(観てない方向け)




ますばネタバレ無しの感想を。

見に行くか迷ってる人の助けになればいい。


小難しいことは置いておいて、まずは素晴らしい映画である、ということを書いておきたい。

障害者を描いた映画という時点である種、線を引いてしまうことも多いと思う。

そんな方のために、まず書いておきたい。「障害者」を描いた映画ということで最初に頭に浮かんだようなタイプの映画ではない。
なぜなら、僕自身がそういったタイプの話が苦手だからである。

確かに主人公の鹿野靖明は筋ジストロフィーを患う、要介護の重病患者である。しかし、その性格はワガママそのもの。それを受け取れるように、高畑充希演じる美咲というキャラクターは、何も知らない状態から、鹿野靖明という人間と関わるようになるストーリーとして、観る者がライドしやすい演出となっている。

最初はその性格に付いていけないことだろう。それから美咲がどういった感情の変化を見せていくか、そこに乗れれば障害と向き合う作品というイメージはだいぶ変わると思う。

そして、本作は基本的にコメディなのである。
ストレートなものから、ブラックなジョークまで揃っている。そんな構成の中で、中盤以降でほろりとさせられる場面が混じってゆく。

なぜそこで涙が出るか、それはその時点で鹿野靖明という人生にどっぷりとハマってしまった証である。

詳しくは後述するが、ノンフィクションとフィクションの狭間の物語、まさに「ボヘミアン・ラプソディ」と同じような感覚で見る映画だ。

ということで「愛は地球を救う」に何かわからないムズ痒さを抱くような、僕のようにひねくれた人間でさえ楽しめる、語弊があるかもしれないがエンターテイメント作品なのだ。


キャストも素晴らしく、それぞれがそれぞれの人生を鹿野に向き合っているか、それだけでも考えさせられる。
白石晃士監督信者としては、宇野祥平が出ているだけで嬉しい。それにしても、直近で「オカルト」を見返してしまっていたので、最後までこれほど良い人でコメディリーフをしているのを観ると、なんかホッとする。





是非観て欲しい。
そして、注意はエンドロール後にも映像があるので、そこは絶対観て欲しい。というよりも、ポルノグラフィティの主題歌の"フラワー"も聴いて欲しい。


ここからはネタバレ含めるため、観た方のみ進んでいただきたい。










フィクション的ノンフィクション




映画の前に原作を読んでいたので、果たしてどうやって映画化するのか、疑問だった。

原作は小説と言ってもノンフィクションルポルタージュで、著者である渡辺一史の取材中の目線から語られるからである。





ノンフィクションの過去の出来事を描くためにフィクション的な演出で見せる、これは折しも大ヒットを記録したクイーンの映画「ボヘミアン・ラプソディ」と似た構図ともいえる。

現実の出来事をそのまま描くのではなく、あえて脚色を入れることで物語を"創り上げる"。「ボヘミアン・ラプソディ」ではファンから史実を歪めていると反発が起こった問題だが、結果的には僕はその方が良かったと思う。それは感想を読んでいただきたい。

「こんな夜更けにバナナかよ」も同じくボランティアの 田中(三浦春馬)と美咲(高畑充希)の2人を物語の中心に据える。そして2人の恋人関係を主軸に葛藤と喜びを描く。


原作でもボランティアの声は大きな意味を持つ。「なぜボランティアをするのか」、その理由はボランティアによって異なる。原作では当事者の言葉なので、そこに真実味がある。

しかし、それを「物語」にしてしまうと、どこか散漫になってしまうことだろう。

鹿野ボラとしての役割、葛藤をあえて2人のキャラクターに預けることで、第三者が理解しやすいものにしている。裏を返せばそこが人によって過剰な演出とも取れるかもしれない。
自分はわりと好意的に受け止めていて、原作のエピソード「浮気なのでは?」と恋人が鹿野のところとか、田中のキャラクターは原作のボラの内藤を踏襲しているところ等をうまく絡めていると思う。


強いていえば主題である「バナナ」のエピソードは、本来の意図の方が強烈だというくらいだ。
※原作ではバナナ1本食べさせるのに苦労する状態で、やっとの思いで食べさせたら、鹿野が飄々と「バナナもう1本食べたい」と言ってのけるというエピソード

「ボヘミアン・ラプソディ」でも書いたが、何が大切なことか、それは原作が、原作に登場する人物たちが何を伝えたいのかを物語が伝える役割を果たせているかだと思う。

その点で、どちらも僕は演出を効果的に使ってそれを伝えていると思う。だからこそ、感動を得られたのだ。

この映画が伝えるテーマとはつまり「障害」ということだけではない。それよりももっと原始的な「人と人」の関わりなのだ。

もちろん病気のこと、障害のことが世間により知られる機会にもなる。しかしながら、それと同じくらい関わった人々の「なぜ鹿野ボラをやるのか」という問い掛けがテーマにあるのだ。




鹿野に振り回される人々




映画を観るものは高畑充希演じる安堂美咲に感情移入するだろう。この美咲の目線にボラとして鹿野に関わること、そして第三者としてそれを見る原作者の渡辺一史の目線の両方が重ねられる。

渡辺一史自身も初めは外から鹿野とボラを見ていた。しかし、いつしか自身もボラとして手を貸すようになったのだ。それは映画における美咲の目線にも近いといえる。

「なぜ鹿野ボラをやるのか」

誰かがいないと寝返りも打てない、ワガママ、エロオヤジ、など鹿野靖明という人間は決して関わりやすいという存在とはいえない。原作でも「暇だったから」という理由すら上がる。

それなのに、なぜ無償で彼に手を貸してしまうのか。

ここで「自分を成長させるため」「社会をよくしたいから」とかそういった所謂「意識高い系」のものが主題だったら、語弊がある言い方だが、そこに欺瞞を見てしまったら僕は冷めてしまったことだろう。

それを感じさせられなかったことが、僕がこの物語を素直に受け取れた理由だ。

ボラたちの気持ち、それを表すのが高畑充希の美咲というキャラクターそのものなのだ。

「よく分からないけど、手を貸してしまう」


その感覚。映画を観たときに一番驚いたことだったのだが、鹿野が旅行先の美瑛の施設で(わざと)倒れた場面、あそこで場内に「あぁ」とか「あ…」とか声が上がったのだ。

それが、全てを象徴しているように思えた。
それほど物語として描かれた鹿野靖明という男に引き込まれていたのだ。


「なぜ鹿野ボラをやるのか」


その理由の多くは「鹿野靖明だったから」ではないだろうか。

そんな鹿野靖明を演じた大泉洋、舞台、映画、ドラマなどいくつも主演作品があるなかで、僕はこの作品の大泉洋を最も評価したい。



鹿野靖明という人




大泉洋


この人がいなかったら、この映画は決して成立しなかっただろう。

鹿野靖明という人を知れば知るほど、納得してしまうのではないだろうか。それほど、これ以上「適役」「はまり役」というものはない。

変な話だが、仮に原作をフィクションの小説として読まされ、この鹿野というキャラクターは大泉洋を当てて書いていると言われても僕は信じてしまう。

それほど「あ、鹿野だ」と思わされてしまう。

2人に共通することは数多くあるが、ひとつには「人を惹き付けてしまう」という人間的な魅力を秘めているからではないだろうか。

それは、一見するとワガママでおちゃらけているように見えながら、根はとても真剣で真面目だということだ。もしこれがただ、ワガママという表面的な性格を演じただけなら、鹿野靖明という人物はこれほど人を惹き付けないだろう。

原作を読んだ際に、なぜ鹿野に惹かれるのかを考えて「だれよりも懸命に生きているからだ」と思わされた。そして映画における大泉洋演じる鹿野靖明に惹かれてたのもまた、実在した人物だったからこそ手を抜くことはできない、という大泉洋の強い意志をそこに見たからだ。

役作りで体重を落とした姿、それは役者の役作りといえば当たり前のことかもしれない。しかし、役になるということと、実在した人間になるということは違う。

その点もまさに「ボヘミアン・ラプソディ」に通じて、これほど同じような感覚になる映画を続けて観たことが、何か象徴的に思えた。

演技についてどうこう言える人間ではないが、この映画の大泉洋は本当に素晴らしい演技だと思う。



フラワー




さて、最後にどうしても書かねばならぬ。ポルノグラフィティの主題歌"フラワー"について。

曲の感想もアホなくらい書いたのでそんなに書くことはないと言いつつも、あれはこの作品のネタバレなしで書いたので、ネタバレありで書けるからこそ書ける側面を。


鹿野靖明は2002年に42歳でその生涯を閉じた。
それは、渡辺一史による本の完成を待たずした最期となった。

それから16年経ち、こうして映画が製作されることとなった。映画はもちろん、主題歌としてポルノグラフィティは1人の、いや数多くの実在した人物たちの物語を真摯に受け止めて、製作した。

その作詞作業は、新藤晴一にとっても困難なものとなった。そして、苦悩の末に選ばれたテーマこそタイトルである"フラワー"、つまりであったのだ。


冬の気配が荒野を満たせば 風もないのに花びらが落ちてゆく
長い眠りが近づいていることを知って 小さな種を地面に落とした


この作品がと向き合うことと同時に描いたのがである。

鹿野靖明は夢を語る。しかし英検2級アメリカでエド・ロングと会うことも叶わず亡くなってしまう。

命と夢はどこか似ている。全うすることを目的として、そのために人は人生を築き、費やしていく。命の数だけ夢がある。

夢は抱くものだが、それは決して誇るためではない。それが自分自身のためのものであるからだ。もちろん中には世の中のためという夢を抱く人もいるだろうが、それは結果に過ぎない。

そして、その夢はいつしか周りにも影響を与える。

たとえば鹿野の語った夢が車イスの少年に力を与え、それが田中の夢に繋がったように。それは田中と美咲が再び縁を戻し、鹿野にとって大切な人間たちが戻ることになる。


誰もが一人じゃなくて、必ず誰かの心に種を残す。

鹿野靖明という人間がこの世に落とした種は、本となり、映画となり、多くの人々に種を植え付けた。

命も夢も、枯らしてしまうことはなんて容易いのだろう。

しかし叶えようとしたり、それを考え悩むことは、なんて苦しく辛いことだろう。

いや、それを問うことすら野暮なのかもしれない。
それは、2番で流れる花に「ねぇ 君は寂しくない?」と問いかけるバッタと同じなのではないか(なので、エンドロールで2番がカットされているのが悔やまれる)


生きるために生きること。

生きること。きっと夢も。

それは、ただそこにあって、それだけで何かを残していく。

それを受け入れることが、本当の強さなのではないだろうか。


I wanna be so strong, Even if I'm alone.
I wanna be so strong, Flower.


そう、花のように。


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