2018年12月9日日曜日

【ネタバレ感想 】映画「ボヘミアン・ラプソディ」歌と歌詞から見るQueenの軌跡







音楽はなぜ希望なのか。


最近あげた記事のテーマである。
そこで自分の中でひとつの答えを示したのだけど、そのまさに直後に、トドメになるような希望を見た。


それこそが話題の映画「ボヘミアン・ラプソディ」である。


映画「ボヘミアン・ラプソディ」ネタバレ感想
歌と歌詞から見るQueenの軌跡










Queenと自分について




ネタバレ感想である。

伝記映画にネタバレも何もないが。

まず、この映画について語る上で、僕がQueenをどれくらいの目線で見ているか書いておかねばならない。

僕はQueenについては、あくまでも一般教養としてQueenを聴いているレベルである。
なので、史実と違うといったような熱心なファンの方々みたいな指摘はできないし、僕にやる権利はない。

あくまでも映画と音楽を愛する立場としての目線で「ボヘミアン・ラプソディ」について書きたい。


内容については多くを語ることはないだろう。Queenというバンド、そしてフレディ・マーキュリーという一人の男の人生が描かれる。

まず、ほとんどの方がいうことと同じになってしまうので、宣言しておきたい。

傑作である。

音楽の史実映画は数多あるが、その中でも永劫語り継がれるレベルの作品である。

なぜ、それほどまで魅了されるのか。それはこの作品が圧倒的な音楽体験がそこにあるからなのである。

この映画のクライマックスはLIVE AIDのライヴシーンである。そこで僕らが聴く音は、かつて見たそれとは全く異なるものであった。

LIVE AIDについてはある種、教養のひとつとして昔に見ていたが、確かにQueenのパフォーマンスは凄まじい。しかし、この映画に受けた感銘とはまた違う類いの感動なのである。

それこそまさに「知を持つ」ということなのだ。世代も違うので一般的なイメージのQueenしか知らない。

そんな僕のような人間にとって、映画を通してQueenを知ること、フレディ・マーキュリーという人間を知ることを積み重ねてゆく。
もちろんそこに、熱心なファンの方が反発してしまう気持ちも分かる。しかし、それこそがある意味「映画」にすることの意義がいるのではないだろうか。



オープニングとクライマックスの対比




それが示されるのがオープニングシーン。目覚めて身支度をしてLIVE AIDの会場へ向かい、ステージに向かう瞬間までのフレディが映される。

このシーンがあまりに秀逸で周到なのである。

それはクライマックスがそこにあるという暗示であり、フレディ・マーキュリーが主役であるということも示す、そのためそこに向かうのはフレディ一人の姿なのだ。

しかし、本当のクライマックスでは、フレディはメンバーと共にステージまで進み、熱い包容を交わしてステージに向かう。そこでフレディが孤独から本当の家族を得るというストーリーの効果を最大限に高める演出となっている。


その演出をと言えるだろうか。もし、これが伝えたいメッセージが伝わらないような改変であれば、それはただの嘘になる。

しかし、メッセージが事実以上に観客に伝わるのであれぱ、それこそが演出であり、物語を生み出すということではないだろうか。

これが史実通りであれば、これほどの感動を得られただろうか、これだけの観客を惹き付けるような作品になっただろうか。それは、この映画がこれほどまでに熱狂的なヒットを見れば、火を見るより明らかだろう。

史実に忠実であるならば、そんなドキュメンタリーはミュージック・エアなどでいくらでも見ることができる。それを100とするなら、映画はそれを歪めていくことが演出なのである。

つまり、あえて下に沈めることで、その反動で100以上のメッセージが生まれてしまうのが映画の魔法であり、僕らが多くの作られた物語に人生を重ね感動してしまう理由なのではないだろうか。



Queen





これは伝記映画であるが、そこにあえて脚色を入れるということには、確実に意図がある。監督の度重なる交代劇など、紆余曲折を経た制作であるが、ラストでQueenの楽曲をいかに興奮の極致へ持っていきカタルシスを生み出すかが徹底されているのだ。

近年見た中ではオアシスのドキュメンタリー映画「スーパーソニック」があった。好きな映画であるが、ファンからすればほとんどのエピソードが"よく知ってる"ものばかりなのだ。

僕もそう思って見ていたが、結局最後のネヴワースでのライヴシーンで満足してしまう。だから、「ボヘミアン・ラプソディ」について思うファンの方の気持ちも分かるが、ここは、これだけ多くの人がQueenを再評価するキッカケとなった偉大な映画と思えないだろうか。

オアシスと違い、フレディ亡き後も"The Show Must Go On"、Queenの軌跡は続いているのだから。


Queenはフレディのワンマンバンドではない。
ブライアン・メイ、ロジャー・テイラー、ジョン・ディーコンそれぞれの才能がぶつかり合う。

それだけ才能のあるメンバーでありながら劇中でフレディ自身が痛烈に告げるように「君たちは僕がいなかったら、今頃終末にバーでブルースを弾いたり。誰も読まない宇宙の論文を書いたりしていただろう。ジョンは、思いつかなかった」。この言葉に全てがあると思う。

圧倒的な才能でさえ、たった1人のカリスマの前では霞んでしまう。

そうでありながら、Queenというバンドはそんなメンバーによってフレディが最後に救われる。
そこにあるのは友情、信頼、そして家族という関係。










家族




映画で強調されるのが「家族」というテーマ。「ボヘミアン・ラプソディ」では主軸として3つの家族が描かれる。1つはフレディの親や妹との家族、2つ目は結婚したメアリーとの夫婦生活、そしてQueenとしてのバンドという家族。

喧嘩ができる、しょっちゅう起こるのが家族なのだ。喧嘩とは、つまり本音をぶつけ合うという行為だ。

ソロの活動において、自由を得たはずのフレディが「周りのミュージシャンは言いなりばかりだ。誰も反論したりしてこないし、リテイクも出さない」とメンバーに話す。

人は取り繕うとしてしまう。自身の性癖に悩み、苦悩していくフレディの姿はまさにそれである。そしてそれこそがメアリーとの間に戻らない亀裂を生む。

この映画における人間関係は本音を出した人間にこそ信頼が生まれる。そして、自分を守ろうとしたりしてそれを晒し出さなかった人間は次々フレディの元から去ってゆく。

しかし本音を晒け出す関係だから良いというわけではない。

普通、人間は誰しもが大なり小なり自分を偽って過ごしている。それは本音だけで世界は成り立たないし、そんな生活は疲弊しきってしまうからだ。

本来本音を言い合って、信頼を生むというのは苦痛を伴う。しかし、本当の意味でそれを乗り越え音をぶつけ合うことで音楽は人の本心に直接打つことができるのだ。



lyrics




このブログとしては、歌詞とストーリーのリンクに触れざるを得ないだろう。なので、いくつか歌詞を引用しよう。




Love of my life,
Don't leave me
You've stolen my love
And now desert me
Love of my life,
Can't you see?

愛しき人よ
どうか行かないで
あなたは私の愛を盗んで
そして今 見捨ててしまう
愛しき人よ
わかってる?
〜"Love Of My Life"


フレディからメアリーへ送られる曲である。メアリーへの想いでありながら、映画を観終わって見る歌詞はまるでメアリーの目線にも見えないだろうか。だからこそあえて「僕」とはせず「私」にしている。
メアリーを想いながらも、自身の性癖が生む葛藤。フレディの孤独はメアリーの孤独ともなる。ツアーの中、1人家にいるメアリーの心中とどうしても重ねてしまうのだ。



Let's hope you never leave old friend
Like all good things on you we depend
So stick around cos we might miss you
When we grow tired of all this visual
You had your time, you had the power
You've yet to have your finest hour
(Radio)

昔からの友達を見捨てないで
僕らがラジオに期待する素敵なことは
たくさんあるんだから
ビデオばかりに飽きたとき
淋しくならないようにそばにいて
〜"Under Pressure"


ポール・プレンターがフレディのもとを去るシーンでさりげなく掛かるのがデヴィッド・ボウイとの"Under Pressure"。
ポール・プレンターは映画では悪役として描かれるが、愛に迷い、愛に溺れてしまった悲しき男なのだ。



Why can’t we give love that one more chance
Why can’t we give love give love give love give love
Give love give love give love give love give love
なぜ俺たちにもう一度チャンスを与えれないのか?
なぜ俺たちはもう一度愛を与えられないのか?
俺たちは愛を与えられるはずだ 愛を…愛を…
〜"Radio GaGa"


ラジオについて曲なのに、このフレーズはどう聴いてもフレディとメンバーを歌っているようにしか聴こえなくなってしまう。
それはラジオがもたらすものは、出逢いだからなのである。



We are the champions, my friends
And we'll keep on fighting 'til the end
俺たちはチャンピオンだ 友よ
俺たちは戦い続ける 終わりまで
〜"We are the champions"


"We are the champions"はもうQueenの楽曲として以上に、知らない人はいないのではない曲ではないだろうか。
このフレーズは、どれだけの回数を聴いただろう。語弊があるが、ある意味少しネタにされるくらいにまでメジャーなフレーズでありながら、このフレーズが高らかに鳴り響いた瞬間に、嗚咽が出るくらい泣いてしまった。

それだけ「友よ」というフレーズが、強烈に響くのだ。そう、この曲は「I」ではない「We」なのだ。
そして、それはステージメンバーだけではない、ウェンブリーで目撃した人、中継を見ていた人、そして時代を超えて届く1人ひとりの声。

その戦いには銃も兵器もない。あるのはただ、人の声。
しかし時に「声」は立ち向かう力にも、人を殺す力さえ持つ。声とは人類が持つ最強の兵器なのかもしれない。だからこそ、僕らは声や言葉を良い未来に向けて響かせなければならないのではないだろうか。



最後に、個人的な経験から感動が増したポイントをここに記したい。



感動した理由(個人的な)




ここまで心を揺さぶられたのには、僕がここ最近で感動させられた2つの出来事がある。あまりに個人的な理由なので、ノンビリ読んで貰えれば良い。けれど、同じように感動した人にはその人なりの何かしらの経験と重なっていることもあるだろう。それを考えてみてはいかがだろうか。


1つ目が以前記事にもしたBSの番組「アナザーストーリーズ」において特集された"We Are The World"の特集であった。その番組の最後に流れる、発起人のハリー・ベラフォンテ言葉である。

ここでも引用したい。


「争いはなくなると信じてる。それを出来るのがアーティストだ。彼らは表現者として、人々の目や耳を傾けさせることを喜びとしている。
もし 世界中のアーティストが力を合わせて『今は ここを見て』って、ひとつのことにスポットライトを当てる事に成功すれば、戦争だって止められるんだ」

「銃声の代わりに、歌を聞かせろ」


歌の力が信じきれなくなっていた僕に、もう一度歌の力を信じさせてくれた言葉だ。LIVE AIDのフレディの姿はまさに、そのものであった。

たとえば"We Are the Champions"が鳴らされるクライマックス。観客たちが自然に涙するように、咽びなくように泣けてしまう。

そこには、意味などない。でも意味がないからこそ人の心に届くのだ。

僕が姪っ子が踊る曲に未来を重ねたように、そこに理屈を越えた音楽の究極的ともいえる力があるのだ。理屈はないとしても、「理」とはつまり「ことわり」であり、道理である。そこにあるのは「筋を通す」ということである。


音楽が"人"を1つに束ねる瞬間、国も人種も性別も、時代さえ越えてしまう。たとえば映画は言葉を越えられるだろうか。僕らはそこに字幕という助けがあるではないか。

それが"We Are The Champions"は言葉を呆気なく越えてしまう。どんな心にも直接的に訴えかけてしまう。そんなことが、音楽には起こるのだ。


そしてもう1つ。それがLIVE AIDがチャリティライヴという点にある。

今年、ポルノグラフィティは広島県の地元でライヴを行った。開催発表後に中国地方は豪雨で甚大な被害が出た。そこでポルノグラフィティはライヴの収益を全て寄付すると発表した。

そして、2日目には地元の高校生たちをライヴに招き、"愛が呼ぶほうへ"という曲を合唱するという演出があった。しかし2日目は、避難勧告が出るような雨を受けて中止になってしまう。

高校生たちとの共演は叶わないまま終わるかに見えたが、後日ライヴビューイング形式で映画館で初日の映像が公開されることになった。その映像の合間にスペシャルライヴとして、生中継のライヴが上映された。そこで叶わなかった高校生たちとの合唱が、遂に実現した。

何が言いたいのかというと、このライヴは結果的にはチャリティとなり、そこでまず音楽の力で人を動かすという体験を実感した。
そして、高校生たち。彼ら彼女たちはボランティアとして合唱に協力している。様々な想いはあるにしても、その気持ちは純粋に音楽に向かっている歌への想いなのだ。

人の心を動かす歌というのは、それほど純粋な動機から生まれるのだ。誰かと歌うこと、歌で1つになること、その力があれば、世界は変えられるのではないか。


それにしても、この興奮は何だったのだろう。
1人の男が自分と向き合い、ウェンブリーで咆哮を上げるまでの歴史。苦悩と葛藤、仲間と裏切るもの、音楽の力、そして真実の愛。

わかった、これはあの映画と同じではないか。






バーフバリだ。

バーフバリとはつまりフレディ・マーキュリーであり、フレディ・マーキュリーとはつまりバーフバリだったのだ。


伝説はいつまでも、人々で語り継がれる。

それこそが、「伝記」ではないか。



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