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2020年3月2日月曜日

解釈の余地がない歌詞ばかりになったら、音楽を嫌いになるかもしれない







いつものように「関ジャム」を見ていた。

少し前になるが、その時の特集は本間昭光と松尾潔がゲストで「教科書に"袋とじ"にして載せたい曲」というテーマ。

いつもなら自分なりにそのテーマを書きたいのだが、今回はそれよりも松尾潔のコメントについて、どうしても触れたくなった。

それが「今は解釈の余地がない歌詞が求められる」というもの。

歌詞を愛する者として、このコメントを看過できない、由々しき事態だ。







解釈の余地がない歌詞



まずひとつハッキリとさせておかないポイントがある。

古今東西、様々な音楽があり、一概に「昔は良かった」とは言い切れない点だ。昔にも解釈を委ねない直接的な描写の歌詞、もしくはなんの意味もない歌詞など数多とある。それは現代も同じだ。
あと、アンダーグラウンドだとなんでもありという感じなので、あくまでもメジャーシーンという点に限る話だ。

しかし、ある点において過去と現代で全く異なる部分がある。

「『解釈の余地がない』というオーダーで求められる」

という点だ。

「関ジャム」の中で意見のひとつで出たのは、現代は解釈によってコンプライアンス上の問題が起こりうる描写を予め避けたい、というのだ。

昨年(2019年)のヒット曲を一通り見てみたが、特にタイアップがあった曲たちの多くはやはり、平易な言葉と表現が多く、あまり解釈の余地がないというのも頷ける曲が多いことに気づく。

しかし、Mr.Childrenの桜井和寿の発言からも、それは浮き彫りとなる。


それに伴って歌詞の書き方も変わってきた。「重力と呼吸」では、生きるとは、自分とはという大きなメッセージは影を潜め、ごく身近で具体的な景色を歌う歌が目立つ。

「リスナーの想像力をあまり信用していないっていうか、もうきっとここまでのことを深く掘り下げて書いても理解しないだろうな、ただ通り過ぎていかれるだろうなっていうのがあるんです。だから、意図的に淡泊に言葉を書いているところはあります」


この言葉を読んで衝撃だった、そしてあまりに悲しくなった。
創り手さえ、僕らリスナーを信頼していないのだ。

結果的にMr.Childrenのアルバム「重力と呼吸」は、サウンド面では最高ながらも、歌詞の面では残念ながら決して満足しきれなかった。

もちろん「音楽」なのだから、歌詞はひとつの側面に過ぎない。

けれど、日本の音楽の表現を豊かにしてしたのは、日本語というものの表現の豊かさがあったからこそだ。ひとつの感情に対して様々な描き方ができて、時には直接的に、時には間接的にそれを描く。

そして、なぜ想像の余地がある表現が必要か、その点について書きたい。








解釈の余地がある歌詞








ここまで書いてきた「余地」とはなにか、という話になる。
そのためには、自分が美しいと思う表現が詰まった曲の歌詞を見るのがいいだろう。

自分なりに、この歌詞を袋とじにして載せたいというのも兼ねて書きたい。

新藤晴一も敬愛する森雪之丞の歌詞。
その中でも"天使の遺言"という曲を紹介したい。オリジナルは早川義夫だが、斉藤和義がカバーしており、僕はそちらで知った。恐ろしいほど大好きな曲だ。



死ねなくて 走っているのか
死ぬために 走っていたのか
天国から堕ちて 平らな斜面を
転がる ダイスの様に


このフレーズで一気に引き込まれる。
特に最初二行のラインはたった二文字変わるだけで、全くニュアンスが違ってくる。「平らな斜面」によって、ただ転がりもう戻れない気持ちを表している。


逃げたくて すがっているのか
逃げきれず すがってみたのか
乳房の丘の サナトリウムで
心は 震えるばかり


ただ転がっていくだけの運命がすがったもの。
「乳房の丘のサナトリウム」ってどうやったらこんな表現出てくるんだ。


昔天使に もらった手紙を
月の灯りで 読み返してみる
迷うことが 生きることだと
恥ずかしそうに書いてある


天使というのは、森雪之丞の歌詞ではしばしば使われるモチーフで、こんなコメントをしている。


雪之丞:僕にとっての天使は、“人を映す鏡”なんです。人が天使を頼りにしたり、天使がいたらと思う気持ちになった瞬間、天使にその人が映る。こういうふうに言ったら、天使に怒られるかもしれないけれど、天使は僕の大事なキャストの一人。天使が出てくることで、より人の何かが表現できるのかなと思っています。


これはある種の「神頼み」する心理にも通じるかもしれない。

自分を写す天使という存在、ではなぜ天使は「迷うことが生きること」と悟ったのか、続く歌詞が衝撃的だ。


あの日天使は 悪魔に抱かれて
白いお尻を くねらせたらしい
迷うことが 生きることだと
汚れた羽根を 血に染めて

泣く前に 歌えばいいのか
泣き終えてもまだ 歌うのか
アバラの檻に 閉じ込められた
心が 暴れる夜は


天使という存在について、様々な想像ができないだろうか。
その上で、天使に重ねる主人公の心もまた多層である。

たとえば誘惑に負けてしまった男ともとれる、

ポルノグラフィティのファンにとっては、思わず「天使の中にも住んでいる悪魔」を描いた"Devil in Angel"を思い浮かべる人もいるかもしれない。

天使は決して清廉潔白ではない。それが人を写す鏡である限りは。


解釈の余地とは何か。
その余地だけ、人は想像力によって、様々な想いを重ねることができるのだ。

ではなぜそんな解釈の余地が求められなくなったかといえば、コンプライアンスの問題の他に、それだけ触れられるコンテンツが増えたということもあると思う。

音楽はサブスクリプション、映画やドラマなどの映像はNetflixやYouTubeなどの配信サービス、人生を何周もしなければならぬほど、僕らの周りはコンテンツに溢れている。

いちいち深読みして解釈をしている暇などない。なんせ、それにはかなりエネルギーが必要だからだ(僕は"天使の遺言"を聴いて毎回クラクラしてしまう)。

しかしながら、一筋縄ではいかない歌詞に触れ、自分なりの受け止め方を考えることで、特別な存在となる。もちろんストレートな歌詞からそれを導くこともできる。けれど、ほとんどの場合、表現者がストレートな表現をする時はそのままの想いを素直に書いていることが多いのだ。

どちらも大切だけど、解釈の余地がない歌詞ばかりになってしまったら、僕は何にクラクラすれば良いのだろう。

それがなくなったら、僕は新しい音楽に希望が抱けなくなってしまうかもしれない。



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