上野の森美術館で「ゴッホ展」が開催されている。
その特集を見ていたのだが、あることが思い浮かんだ。
ハルカトミユキやドレスコーズがゴッホにならないで欲しい。
種まく人
ゴッホの作品に「種まく人」という作品がある。
この作品は元々はミレーの作品の模写である。
さらに遡ると、それはルカの福音書に登場する。
イエス・キリストの言葉は以下の通りだ。
種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった。 ほかの種は石地に落ち、芽は出たが、水気がないので枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ち、茨も一緒に伸びて、押しかぶさってしまった。また、ほかの種は良い土地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ。
ミレーの「種まく人」には宗教画としての側面も色濃いとされている。種とはつまり、神の言葉という意味合いだ。
一方、ミレーに触発されてゴッホが描いた「種まく人」はミレーとは対照的な印象を受ける。
絵の中で畑の割合が増え、落ち着いたトーンのミレーに比べ、ゴッホは"らしい"ともいえるほど黄色やオレンジを効かせた明るい色調にまとめている。
ゴッホが農民の姿を描くようになったのはハーグ派の影響からである。なのでミレーに比べ、ゴッホの「種まく人」には、宗教画としての意味合いは見受けられないように感じる。
ハーグ派の影響で農民の姿を描き、印象派の影響で色彩が変化し、アルルに越したことでゴッホはそのスタイルを確立した。
僕がゴッホの「種まく人」から受けるのは強烈は生命力だ。
神の言葉ではなく、命そのものを描いているように見える。
ゴッホの「種まく人」を見た時に、ハルカトミユキの"種を蒔く人"という曲を思い出した。
舞い上がった声 遠くなった空
人はずっと種を蒔いてゆく
振り返る日々は なぜにあたたかく
去り行く友の憧れの跡で
~ハルカトミユキ"種を蒔く人"
人と人に触れた時、互いの心にそれぞれ種を残していく。
それが育つかどうかは分からない。
この曲について、少し長いが本人の言葉を引用したい。
「種を蒔く人」っていう曲をアルバムの最後に入れて、野音のアンコール一曲目に歌った
今生きているみんながそれぞれ、種を蒔く人なんだっていう思い入れがあって書いた曲。
生きてる間ってきっとほとんどが静かに耐える時間
華やかな瞬間なんてほんの一瞬
それが必ずくるともわからないし
何のために今じっと耐えているんだろうと思うことばっかり
もしかしたらそれが人生の全部かもしれない。
でもそれじゃあまりにもむなしいから
種を蒔いてるんだって思った。
それが今日咲かなくたって明日実らなくたって
毎日種を蒔いてるんだって
いつかの誰かが種を蒔くことをやめていたら
今私は生きていないかもしれない、歌っていないかもしれない
だから私が今やっていることもいつかどこかに繋がって花になるなら
それが生きている意味かもしれないと
人が種を蒔くのは、生きている証を残すためかもしれない。
ぼくはゴッホじゃやなんだ
だけどぼくがいなくて困る人なんか
いない、と毎朝思う
ぼくはゴッホじゃやなんだ
やっぱりゴッホじゃやなんだ
それはドレスコーズの"ゴッホ"の歌詞。
ドレスコーズの2ndアルバム「バンド・デシネ」のオープニングを飾る。叫びに近いポエトリーな出だしから、サビでは一気にポップで開けた世界になる。
この曲についてのインタビューを引用する。
ー「ゴッホじゃやだから。」というのは、ゴッホのようにいくら名声を掴んでも死んでからでは意味がないということ?
もうちょっと言うと、芸術の為だけに死ねるかという話。これは反語ですけどね。芸術には一生を捧げたり棒に振るくらいの価値はあるけれど、ゴッホは自分の絵画、自分の芸術の完成を夢見て一生をそこに全部つぎ込んだのに、結局間に合わなかった。あれを寿命とするならね。本当はすごいところまでいっていたけれど本人はそうは思わず、ずっと続けて一生をかけた。芸術とはそれでも届かない位に大きなものだけど、音楽もそうだと思うんです。これは僕がよく話すことだけど、例えばタワーレコード渋谷店にあるCDの在庫を全部連続再生していったらどれ位の時間なんだろうって。
僕自身、あまりに多趣味で節操のない人間だとつくづく思う。音楽に映画に読書にその他諸々、あらゆるものに手を出している。
その全てを味わい切れないことへのもどかしさが、いつも心にある。
音楽をはじめ、作品は人の限り生まれ続ける。
宇宙のようにその未来は広がり続けていく。
世に数多限りなくある音楽だから、その中に埋もれてしまうものもある。
それでも、ハルカトミユキもドレスコーズも時代としっかり向き合って作品を創り続けている稀有なミュージシャンたちであると思っていて。
だからこそ、今聴かれないことに意味がないとさえ思ってしまう。そして、そんなミュージシャンに人生の中で出逢えたのだから、僕は嬉しくて仕方ないのだ。
2019年にリリースされた「ジャズ」があまりに素晴らしく、こんな作品がリリースされたら、もっと世界が騒ぎ、人々の心を揺さぶるほどのアルバムではないかとさえ思えたのだ。
「『ジョーカー』観た?」くらいの気軽さで「ドレスコーズの『ジャズ』聴いた?」と語れる世界線はないだろうか。
音楽に鮮度はないけれど、時代と向き合って出来た作品をその時代を生きる人間が聴かなくてどうするというのか。
種を蒔く
ミレーやゴッホが描いた「種まく人」。そこで蒔かれる種は何を意味するだろう。
先にも書いたとおり、ミレーは宗教的な意味合いとして「神の言葉」を種に重ねたかもしれないし、ゴッホはそのまま農民によって蒔かれた「命の種」としてそれを描いたかもしれない。
正解はない。それは眺める者の心によっても変わることだろう。
それは音楽も同じだ。ミュージシャンたちは音楽という種を人々の心に蒔いていく。
種が芽を出してくれるか、ミュージシャンには知る由はない。だからこそ、せめて自分が信じている音楽を送り出してやることしかできない。
ならば、せめてそれが最高だと、素晴らしいと思った聴き手として、拙い言葉ででも伝えようと思った。それが僕に出来る唯一の種を蒔くことだった。
売れる売れないが全てではない。けれど、メジャーレーベルだからこそ見れた景色だってある。それは、きっとこれからもある。
そのためには、売上は切り離せない。僕はなんとしても日本武道館でハルカトミユキのワンマンを見たいのだ。
せめて出来ることがあるなら、僕は言葉を考えてこじらせ続けるだろう。
ゴッホにとって弟のテオがほぼ唯一パトロンとしての支えとなった。しかし、ゴッホの自殺の原因は、テオが家庭を持って離れてしまったからではないかという説が有力だ(諸説あります)。
今のゴッホのような扱われ方をしていたら、ゴッホは死ななかったのだろうか。それは分からないし、結局は芸術のために身を削っていたかもしれない。
それはきっと、どんなミュージシャンも同じだろう。
そもそもこんな事を書いている時点で余計なお世話甚だしい訳だ。
それでも、パトロンなんて大それたものではなくとも、ただの音楽の一ファンとして、やれることは限られている。CDを買う、ライヴに行く、些細なことでも支えられるなら。
種を受け取った1人として、これからもささやかながら、その種を育てていこうと思う。
その種がまた僕を生かしてくれるのだから。
ドレスコーズ「ジャズ」日本一遅い感想レビュー
ドレスコーズ「dresscodes plays the dresscodes」final 新木場スタジオコーストライヴレポ
ポルノファンへハルカトミユキの歌詞と音楽をプレゼンさせてください
2017年を振り返る アルバム・オブ・ザ・イヤー TOP5
ツイート
↑この映画とても面白かったし、興味深かった
0 件のコメント:
コメントを投稿