Mr.Childrenの"fantasy"
アルバム「REFLECTION」のオープニングを飾るナンバーである。
新しいアルバムが出ていながら、なぜこのタイミングで"fantasy"なのか。
それは今朝、突然頭に"fantasy"が流れて、この曲の歌詞について書けというお告げを受けた気がするからである。頭がおかしいと思うだろうが、実際そうで一気に書いてしまったので、自分の中で何かがあったのだろう。
ということで、今回は"fantasy"の歌詞の意味について見ていこう。
Mr.Children「fantasy」歌詞解釈
「REFLECTION」前までに漂っていた空気を払拭するようなイントロのギターから回帰を思わせるほど、ポップでそれでいて毒を仕込んだ、まさにMr.Childrenという楽曲になっている。
なんとなくなんだけど音楽好きでミスチル好きというと「ありきたり」みたいな印象を持たれる。ポルノグラフィティもなんだけど。
舐めてるのかと。どれほどの熱量の「好き」だと思ってるんだ。
上田啓太さんのブログ「真顔日記」で、
aikoが「好きだけじゃ済まなくなりそう」と言い出した時の、まだ変身を残していたのか感について
というエントリーがある。
この中の言葉を用いると、
たとえば気まぐれで入ったカフェの珍デザートを食べた女子の言う「あたしこれ好きかもー」をカナブンとするならば、aikoの「好き」は巨大なゾウの足である。ズシンという音の一発でカナブンはつぶれて死ぬ。
aikoが「好き」と言った場合、「あなたのことで18年200曲書けます」くらいの意味が平気で込められているのであり、この人が何かを「好き」と言ったならば、それはもう身震いするほどに凄まじいことなのだ。
という言葉と同意義である。僕もポルノグラフィティとMr.Childrenでなら200記事ずつ余裕で書けるし、ポルノに至っては、もう書いている。
というわけで(?)。そんな「ありきたり」みたいなことをいう連中を"fantasy"という象の足で踏み潰そうと思う。
日常と幻想
歌詞は比喩だったりが多く、ややこしいようだが紐解くと実は明確に歌われている。そのテーマこそが「日常と幻想の境」である。
隣の人に気づかれぬように僕らだけの言葉で話そう
知られちゃマズい 大層な話は特にないけれど
出だしでそのテーマは、わりと明確に打ち出されている。
人と親しく付き合ってきて、ずっと話しているとその人との間に共通認識として理解しあえる言葉が生まれる。
とある界隈ではお馴染みであるが、知らない人からしたらポカンとしてしまうだろう。そんな親しい者同士の共通言語こそ「僕らだけの言葉」ではないか。
たとえば「ハリー・ポッター」などのファンタジー作品を見たり読んだりしていると、当たり前のように魔法世界の言葉が登場する。或いは「ロード・オブ・ザ・リング」の世界でエルフならエルフ語のように、種族ごとに独自の言語を話す。
それはファンタジー世界でも、現実の今生きている世界でも変わりはない。
国境をひとつ越えれば言葉は変わり、大阪の府境を越えれば別の国に行けるように。
「僕らだけの言葉」とはつまり、2人だけの世界を表している。
また「僕らだけの言葉」とは、人の言葉を借りない自分たちの本心を話し合うという意味合いにも取れる。
普段乗っている電車であっても、そうした自分たちだけの世界を創り上げることができるということを冒頭2行ですべて言い表すのだ。
そうして見ていくと、"fantasy"の歌詞は様々な角度から「日常と幻想の境」を唄っていることが判る。
なので並ぶ言葉たちについて、あまり深く触れる必要はないだろう。
そして、忘れてはならないのは。
この「日常と幻想」が紙一重であるというテーマこそ、Mr.Childrenがずっと唄ってきたテーマなのだ。
世界と自分
それを最も端的に示しているのがアルバム「Q」に収録された"CENTER OF UNIVERSE"だろう。
あぁ世界は薔薇色
総ては捕らえ方次第だ
ここは そう CENTER OF UNIVERSE
「総ては捕らえ方次第」で景色は一変する。
本当に価値ある物でさえ、自分の心次第。たとえ世界がどうであっても、それを選ぶのは中心にいる自分でしかない。たとえ現実世界でもファンタジーの世界であっても。
これを突き詰めていくとメッセージはたった1つ「世界が自分を変えるのではなく、自分自身の在り方で世界は変わる」というメッセージになるのだ。
前に「なろう小説は異世界ものばかり」ということを書いたけど、まさにそこで。
みんな異世界というファンタジーへ逃避したいんだと痛感するほど、異世界ものばかりが目立つ。
小説投稿サイト「小説家になろう」の人気作品が異世界ものばかりだった件
しかしながら、それは所詮フィクションの世界で。たとえこの瞬間異世界に飛ばされないとしても、この現実をファンタジーに変えることだってできる。
しかし、言いたいことも分かる。
現実はそんなに生易しいものではない。
それでも、そんな空想の世界は日常の中から生まれたのだ。
だからこその、
「出来ないことはない」「どこへだって行ける」
「つまずいても また立ち上がれる」
いわゆるそんな希望を勘違いを嘘を
という歌詞になるのだ。歌手は時として必要としてこれらの言葉を唄わなければならない。たとえ綺麗事だと分かっていても。自分を変えることは容易ではない、そんなことはとっくに知っているのだ。
それでも、それを希望に生きている人もいる。だからこそ唄い続けなければならない。それこそが桜井和寿という一人の人間がMr.Childrenというモンスターバンドで唄い続けることの決意であり楔なのだ。
それを唄っているのが"彩り"において語られる桜井和寿にとっての日常だ。「何てことのない作業」でありながら、それが日本全国或いは世界へ広がり、誰かを笑顔にしてゆく。
そんなロマンチックでファンタジーな世界ですら、桜井和寿にとっては仕事であり、日常の作業でもある。
そして僕がMr.Children、桜井和寿の歌詞にずっと惹かれ続ける理由こそ、その日常の中のファンタジーを切り取る鮮やかさなのだ。
インタビューで語ったのか、MCで言ったのかわからないが、"fantasy"がライヴを唄った曲であるというのをよく見る。
もちろん、その要素も持っているだろう。
しかしそれだけに留まる曲でもないことも確かだ。ライヴという空間は"それぞれの日常"を持ち寄って生まれるファンタジーな空間なのだ。
だからこそ「これができたら死んでもいい」と言い放ったアルバムのオープニングナンバーとして、これほど相応しい曲はない。
この日常と非日常を思う時、僕はどうしても「この世界の片隅に」を思い描いてしまった。
淡々とした生活の中で起きる戦争という非日常。まさに幻想と思えるような戦火のなか、日常を生きる人々を描いたのが「この世界の片隅に」である。
空想であれば良かったような出来事も、現実を痛感させる生活も、それでも感じる幸せも。全ては日常の中にある。
ファンタジーなのかリアルなのか、それは自分自身の心が決めることなのだ。
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