2016年12月24日土曜日

恥をかくシーンが苦手という"共感性羞恥"と共感について本気で考える





少し前に話題になった「共感性羞恥」というものについて書きたい。

話題になったし、あちこちで取り上げられてたので知ってる方も多いだろうけど、自分なりに書いていこうと思う。



共感性羞恥とは



「怒り新党」で取り上げられて、そこからTwitterをはじめネットで話題が広がっていった心理的な状態。

具体的には映画、ドラマ、アニメなどで「これから登場人物が失敗したり、恥をかいたりするシーンが苦手」というものである。
かなり大雑把な要約だが、ほぼこのような内容のことを示す。

ちなみにこの心理を持つ人は10人に1人と言われている。

ということなのだけど、その"恥"も様々である。

・主人公がこの後失敗して恥をかくのが分かると目をそらしたくなる
・フィクションに限らずドキュメンタリーでも苦手
・ドッキリ
・主人公が孤立してしまう展開

など例を挙げるとキリがなさそうなのでこの辺で。

ということなので「SAW」シリーズ見て『あー痛そうー』と思うのは、たぶん違う。








自分のコンプレックスの裏返しか



さて、多くはないけれど確実に一定数存在する「共感性羞恥」なぜこんな心理状態になるのだろうか。

1つ理由として思うのは自分のコンプレックス(或いはトラウマ)の裏返しだと思う。

上に挙げた例などの条件でその人物に「共感しすぎてしまう」というのは、自分を重ねてしまうからだ。

この「共感」という言葉がクセもので、SNSを筆頭に使われている「共感」は本当の共感ではないという話がある。

臨床心理学の方が書いている記事を引用したい。


ふつうの「共感」と、心理学の「共感」


普段、私達は、これらの感情や思考の動きを、「共感した」などと言います。

しかし、心理学で言う「共感」とは本質的に異なるものです。

もしも、あなたがクライエントに対して、「うんうん、わかるよ。」と言ってあげることが共感であると考えているのなら、それは大きな誤りです。
あなたはクライエントの何を分かっているのでしょうか。


「共感」という言葉は、もともと、「感情の共有」を意味します。相手が苦しいときに、「相手が苦しい」と理解するだけでなく、自分も苦しくなる体験です。共感の感覚としては、「まるで◯◯のように感じる。」という表現が使われたりしますね。

クライエントの感情を共有するということは、セラピストが、クライエントの気持ちを限りなく正確に汲み取るということになります。「まるで◯◯のように感じる。」という言葉は、「完全に◯◯になることはできないが、限りなく◯◯に近い感情になる。」という意味です。一瞬たりとも、セラピストとクライエントの感情は混じり合わないのです。クライエントの感情に巻き込まれずに、自分の感情をできるだけクライエントのものと近付けていく。これが非常に難しいからこそ、臨床心理士は専門家であるのです。


簡単に、「わかるよ。」と言ってしまう人がいます。でもそれは、多くの場合は「わかったつもりになっている」だけなのです。性格も考え方も、生活環境も全くちがう人が、そんなに簡単に分かるわけがないのです。

臨床心理士指定大学院 対策ブログ


この内容からも本当の「共感」とは表面でなく、もっとその対象の内面に踏み込んだところにあるものである。

僕は「共感性羞恥」というのはその経験を限りなく近い形で追体験してしまうからではないか。
それは主にコンプレックスではないだろうか。

僕のことで言えば人前で恥をかくということがとても辛い。いや、そもそも得意な人がそういないだろうけど、その気持ちが強いからこそ、そんなシーンが僕も苦手なんじゃないかと思う。

ひとつ自分の話をすると、僕は瀬尾まいこの「幸福な食卓」がとても好きなのだが、特に映画版での合唱の練習で佐和子が孤立してしまうシーンがあって、苦手で飛ばしたくなる。

それは間違いなく自分が人前で失敗してしまった時のトラウマが甦るのだ。おかげでネットが大好きになってしまった。


あと全く関係ないが、この映画の時の北乃きいは凄まじく可愛いので見て欲しい。






急に自分が当事者にさせられる恐怖心




「深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ」


言うまでもなくニーチェの言葉であるが、この言葉が近いように感じた。

僕はライムスター宇多丸のウィークエンドシャッフルの映画批評コーナー「ムービーウォッチメン(シネマハスラー)」が好きだけど、たまにこんな表現が出てくる。

映画をそれまで絶対安全な場所から観ていたはずなのに、あるシーンでいきなり当事者にされる恐怖。

ちょっとニュアンスは違うかもしれないけど、大筋は合ってるはず。

なかなか上手い例が思い浮かばないけど最近だと映画「何者」があった。

ネタバレになるので書けないが、僕は「何者」の拓人が終盤迎えるシーンはこの「共感性羞恥」の究極的な体現シーンだと思っている。


僕はもちろん胸が痛いシーンであった。


自分にとって安全圏から観ていたはずの作品で突然そんな自分の急所をふいに突かれるからこそ、心に迫ってくるのだ。思い出すだけで冷や汗が出てくる。

この、急に自分が当事者にさせられる恐怖心が「共感性羞恥」の本質のひとつにあるのではないだろうか。


ひとまずは、それほど物語にのめり込んでいるとポジティブに捉えることとしよう。

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