ハナタレポンコツギタリストのブログ。 当初はギタリストの機材を調べるつもりで始めたのに、今ではすっかり歌詞解釈がメインとなってます。ポルノグラフィティ、ハルカトミユキ中心だけど、基本何でもあり。
2019年11月13日水曜日
新藤晴一の距離感と生きていく
ポルノグラフィティの"ブレス"において、最も胸を打たれたのは新藤晴一の「ありのまま 君のままでいいんじゃない?」というメッセージだった。
「ありのまま」とは、2014年には世界中で老若男女が聴いていたあの曲でも伝えられたメッセージである。
しかし、僕は新藤晴一という男の紡ぐ言葉に心の琴線を毒されて育ったので、同じ言葉であっても、それをこの男が書き、岡野昭仁が歌うことで、その意味合いはとても大きなものになる。
改めて考えると、実はこのメッセージは初期からずっと受け継がれてきているのではないかと思えた。
2019年9月23日月曜日
2019年4月29日月曜日
部屋片付けてたら買った記憶のないグッズがザクザク出てくる件について
ゴールデンウィークということもあり少しずつ部屋を整理していると、クローゼットからとんでもない量のグッズが発掘される。
いや、発掘するまでもない、嫌でも見つかる。
毎回ライヴがある毎にグッズは"それなりに"買ってしまう。
しかし、キーホルダーなど人生でそんなに使うわけがないのに、自分の持ってる鍵に1つずつ付けても有り余るほどキーホルダーがある。
貼る場所がないほどステッカーがある。
付ける場所がないほど缶バッジがある。
千手観音に付けるのかというほどリストバンドやラバーバンドがある。
入れ物のはずのポーチを入れておく場所がない。
かのように、並べていけばキリがないほど
そして、ひとつだけ失うのは、金。
俺はいつこんなに買ったんだ。
部屋片付けてたら買った記憶のないグッズがザクザク出てくる件について
2019年4月2日火曜日
2019年4月1日月曜日
自分なりの歌詞解釈のやり方を実例で紹介します 前編 "ワールド☆サタデーグラフティ"
先日「歌詞解釈ってどうやるんですか?」というコメントをいただいた。
返信すべく、鈴虫ほどの大きさの脳ミソをチリンチリン鳴らしながら考えた結果「俺歌詞解釈どうやってんだ?」という結論に至った。
自分の中では感覚的にやってることなので、いざ言葉にすると難解なのである。
ひとまず今回は実例編として実際に曲を例にして、どういう考え方でやってるのか書いていきたい。
と書き始めたら長くなったので、前後編に分けて、後編では続きと少し理論とまでは、ポンコツなりにどう考えているのか書いてみたい。
2019年2月22日金曜日
【心霊】ほんとにあった!呪いのビデオは「本物」か「やらせ」か
心霊ものが好きで「ほんとにあった!呪いのビデオ」をはじめ、様々なシリーズを見ている。
といっても、近年は本当に数が多過ぎて、とても網羅できる量ではないが、なるべく主要なものは見ている。何の義務感だろうか。
心霊ものの感想を書いてる人が好きで、見るたびに検索して眺めている。ホラーの感想はツッコミの勉強にもなるのでオススメしたい。
そこでよくサジェストされるのが「◯◯ 本物」や「△△ やらせ」などの言葉である。
面白いと思い、そのことについて書いてみたい。
本物かやらせ
そもそも僕は「やらせ」という言葉はあまり好きではない。
なにかとすぐ「やらせ」と言う人がいるが、そう言うことで面白くなることがあまりないからだ。
元も子もないが、心霊ものを楽しむ人で「これは本物か?」なんて目線で見ている人は、いるのだろうか。
「本物かやらせか」と気になっているのは、心霊ものを普段そこまで見ない人(つまりは普通の人)が、検索していることと思われる。
そこに、心霊もの好き(普通じゃない人)とそうでない人の決定的な差が生まれるのだ。
では、心霊好きは何を求めているか、そう言われるとまた、玉石混淆の趣味がある。本物っぽい路線を求める人、本物っぽさなんて度外視で強烈な映像を求める人どちらもいる。
近年、心霊ものが雨後の筍のごとく乱立したことによって、ホラーファンは映像に「刺激」を求めるようになった。なので、感覚的には後者が多いと思われる。
そして心霊ものの楽しみといえば、スタッフのドタバタ劇である。「そんなものいらねぇ」という派閥もあるが、心霊映像よりもスタッフの取材シーンで個性を出すシリーズは多い。
そんな取材シーンで個性を出そうとするほど、リアリティとは乖離していく。これも好きと嫌いがはっき分かれる要素である。
変に「騙されまい」とか「本物の映像が見たい!」と構えて見る人は、おそらくこの手のホラーは向かないのではないだろうか。
極論となってしまうが、「フィクションだと分かった上で、もしこれが本当なら?」という感覚で見るくらいのつもりで没入して楽しむべきなのである。
たとえば「ハリー・ポッター」の世界は実在しないのに、あの世界観を楽しんでる。実はホラーも同じで「そんな世界があるかもしれない」という世界観を楽しむものだと思う。
そう、ホラーとはファンタジーなのだ。
「ハリー・ポッター」に対して「え?これ本物なの?」と女の子に言えるだろうか、いや言えない(反語)。
「それじゃ『ほんとにあった!』は嘘ではないか」という声は大変正しい。だが、それを僕に言われても困る。
(これ消費者庁に「虚偽ですよね?」って言ったら負けるのでは)
解明
たとえば、あるBSの番組で海外の心霊とされるビデオを検証するものを見た。
キッチンでポルターガイスト現象が起きて、カメラが撮るなか、一瞬にしてキッチンの整頓されていたものが散乱しているというものである。
そこで「ビデオがブレた瞬間に編集して画面を切り替えている」と紹介されていた。
それを見ても「……でっていう」という感覚にしかならなかった。
「カメラを素早く動かした瞬間に編集点を入れる」というのは、投稿もののセオリー、というのは心霊投稿ものにおいては常習手段なのである。なので、テレビというメディアを使ってまで、それをドヤられても、という話だ。
繰り返すが「本物か偽物か」という点は面白いかどうかには直結しない。
「ほんとにあった!呪いのビデオ」も監督の趣向によってリアリティを求めるのか、地味な映像になっている時期も定期的に訪れる。
しかし「ほん呪」もいよいよシリーズはナンバリングだけでも80を越えた。それを追い掛けてきた視聴者は、もはや「本物」を求めているだろうか。
いや、本当に求めるものは「見ている時間を楽しめる映像 」なのだ。
一概には言えないが、近年は目に見えて「フィクションとノンフィクション」、「本物と偽物」、「本当とヤラセ」などに線を引きたがる傾向が強い。
本来オカルトなどというものは、白と黒の間にある「グレーの世界」を楽しむものだ。
「本物じゃない=つまんねぇ」と思うのは先入観である。そもそもホラーの世界は「本物っぽい、けどつまんねぇ」で溢れている。
「やらせ」は好きではないが、ホラーという予算のない世界でアイデアでそれを乗り切ろうとするスタッフが愛しいのだ。
それはもう「やらせ」という概念では語れない。
それでも名の知れた、数を重ねているシリーズたちにはそれなりに魅力がある。
真実を求めることは楽しさを追求することではない、そんなグレーを楽しめる力こそ、ホラーを楽しむ大切な要素なのだ。
全くフォローになってないな。
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2019年1月10日木曜日
2018年12月4日火曜日
正直、コース料理って翌日何食べたか忘れる
タイトルの通りである。
と言いつつも、何を言いたいんだお前は、お前がアホなだけだろう、とお思いになるだろうが、その通りである。
たとえば結婚式に参列したとする。
披露宴では様々な料理がコースとして振る舞われる。
前菜からデザートまで1品1品、こだわりのメニューが並ぶのだ。
そんな料理だが、その場その場で美味しく味わって食べても、翌日にはどんな料理を食べたのか覚えていない。
メニュー表を見ても、「ブリニ」って何だ?頭を巡らせても、ブリニが何か思い出せない。
美味しかったはずのブリニが頭から欠落する。
僕がシェフだったら、こんなポンコツは排水口に捨てた人参の切れ端でも喰わせた方がマシだと思うだろう。
というか絶対ぶっ飛ばしたいと思う。
手間ひま掛けられた料理たちが、なぜ思い出せないのだろうか。
想像するに人間はどれほどの数感動しても、ひとつの大きな感動の前には霞んでしまうのではないだろうか。
僕はブルジョワな生活をしているので、コース料理に接する機会はある。
たとえば、先日もサイゼリヤという高級イタリアンレストランでサラダからドリアにいき、ティラミスで締める完璧なコースを味わった。
寝言はさておき。コース料理を食べるとしたら結婚式や誕生日、クリスマスなど何かしらのイベントがある場合が多い。
そうした時には、食事よりもイベントやお祝いが優先される。
なので、料理が主役とならないのだ。
これが日常繰り返される日々の食事であれば、何を食べるかが本題となり中心に据えられる。
自ら選び注文して食べたものなので、印象に残る可能性は高い。
思い返してみる。
シチュエーションが優先される時には「あそこのレストラン素敵だった」という記憶、食事に行って美味しいものに当たると「あれ美味しかったよね」という会話になる。
そう考えると、お祝いや友人たちと集まるという目的の結婚式で、料理の印象が後回しになってしまうのは、決しておかしくないではないか。
人間の感動の数には限界がある、という説を高らかに唱えたい。
そうはいっても他にも理由がありそうなので、それを踏まえてあらためて原因を考えてみた。
ポンコツだから
アホだから
味オンチだから
酒飲み過ぎ
おかしい。どれも心当たりがある。
思えばポンコツすぎてメニュー名が長いと覚えられない。「ミラノ風ドリア」が限界ギリギリである。
たとえば「ブルターニュ産 オマール海老のコンソメゼリー寄せ キャヴィアと滑らかなカリフラワーのムースリーヌ」のように「食材+調理方法+ソース」みたいな組み合わせがポンコツの僕に覚えられるわけないだろう。
「海老のゼリー キャビアとクリームで食え」みたいな方が分かりやすい。
そうした料理、馴染みのない調理方法やソース名が並ぶのでお手上げである。
文句があるならフェンダーのギター並べて片っ端から機種名答えてもらう。
味オンチも然り。味の受け止め方に対して「美味い」「甘い」「うめぇ」「肉!」くらいしか語彙がない。なので、ちょっと凝ったソースなど、頭が理解に追い付かない。
ということで、料理をしている方には本当に申し訳ない食べ方をしているという懺悔の念を込めてここに記してきた。
こんなポンコツのために、丹精込めて料理を作っていただいて、本当にすみません。美味しかったです。
これからは、ちゃんとブリニを噛みしめて味わいます。
SVB東京で新藤晴一考案オリジナルビール「THE BAY」を呑んだのでレポする
【疑問】アーティストグッズの缶バッジってどうしてますか?
吉野家の牛丼の味が変わったという話

2018年11月21日水曜日
わかったよ。ポルノのドームライヴで俺がDJ警備員やればいいんだろ?
めざましテレビで取り上げられていたのだが「ラブライブ!サンシャイン!!」の声優達によるAqoursの東京ドーム公演で、誘導の警備員がAqoursの楽曲に因んだアナウンスをして話題となっていたらしい。イエモンの時も同じようなアナウンスが話題になってて、そっちは知っている。
今になって「絶対!運命!黙示録!」している人間なので、「ラブライブ」について知っている知識の全てが「女の子たちが歌って踊っている」しかない。
だが友人(横浜住み)がコンビニ感覚で沼津行く程好きだったり、ポルノファンで両方好きという人が多いので話題はよく見かける。
そんな状態だが、なぜ僕がこの話題に注目したかといえば、僕は昔東京ドームの誘導バイトやったことがあるからである。
そして、やってた警備員の人も見覚えあるような気がする……
つまり、僕なら成れるのだ、ポルノグラフィティ 東京ドーム公演のDJ警備員に。
ということで、話題になっていたというDJ警備員のように、僕もポルノグラフィティファンに向けたアナウンスをしようじゃないか。経験とDJ警備員の内容を元に考えた。
まぁ、といっても僕はアナウンスしたことないが。
※警備員の服はバイトで上のランクなのでベテランくらいやってる人
2018年11月17日土曜日
【映画マナー】桜井和寿vsグリズリー同時上映ハリーポッターとヒグマの工藤
映画館に映画を観に行くということ。
それは、映画館という映画を見るために完成された空間で、最大限に映画を楽しむということだ。
誰しもが映画を楽しみたいがためにそこに行く。
はずなのだが、どういうわけか観に行って、明らかにマナーがおかしい人がいる。
毎回のように。
そんな人々と、僕が高校時代に映画を一緒に観に行って「コイツとは二度と映画を観に行くことはないだろう」と思わされたマナー違反全乗せ男「工藤」を紹介しよう。
マナー
まず声を大にして言っておかなければならない。
僕だって小言のようにマナーがマナーが言いたいわけではない。
しかし、世の中には明らかに目に余るマナーを逸脱した行為があるのだ。
それは終電間際の中央線くらい無法地帯だし、朝の通勤時間帯に座席に横になって寝ているホスト崩れくらい無秩序だ。
またしても声を大にして言いたいのは、
「映画は一緒に観る観客次第で何倍にも面白くなるし、つまらなくもなる」
ということだ。
コメディ系の映画で笑うシーンで、ドッと笑い声が起こればそれにつられて自分も遠慮なく笑える(最近では「カメラを止めるな!」がそうだった)し、逆に泣けるようなヒューマンものの映画で会場からすすり泣く声が聞こえれば、堪えていた涙も零れるというもの。
では反対のケースはどうだろう。
前にも書いた記憶があるが、以前Mr.Childrenのドキュメンタリー映画「REFLECTION」を観に行った。
超満員の人気であり、辛うじて取れたのが、スクリーン最前列のセンターであった。
ライヴであれば狂喜乱舞してしまう席も、映画ではまた違ってしまう。
巨大な桜井和寿のアップを109分観ることとなった。
それはもとより、問題は横にきたオバサンである。確かに夕方からだったし、お腹が空くのも分かる。
でも、上映中に徐にビニール袋をガサガサと漁ってスーパーの惣菜入れるパックを取り出すのは、どうだ。ガサガサと書いたが、それでも生易しい。それは川で鮭を獲るために川面を叩くグリズリーの様相であった。
バリッバリ
ピリピリピリー
バリバリッバリー
とグリズリースーパーの惣菜を入れるパックを想像してもらいたい。普通に持っても五月蝿い代物である。それが桜井和寿の熱唱と最前列でぶつかり合うのだ。
僕はMr.Childrenの映画を観にきたのだ。
決して桜井和寿vsグリズリーを観に来たわけではない。
音楽の映画で音楽を妨げるというのは、もはや妨害ではないか。サッカーで乱入したフーリガンがゴールを決めるようなものである。
パックをガサゴソと漁ったグリズリーは、徐に割り箸(!)を割り、ムシャムシャとなにかを食べ始めた。
嫌でも匂いでわかる、唐揚げである。
家で唐揚げを食べながらミスチルを見ることはあっても、映画館でミスチル観ながら唐揚げ食べるのはどうだろう。
その後グリズリーは唐揚げをあっという間に平らげ、もうひとパックを開けて何らかのフライものを食べながら映画を観てゲップをして帰っていった。
グリズリーの突撃となりの晩御飯を見せられた後日、あらためて映画を観に行って感動しなおした。
そもそもマナーではなくて持ち込みはルール違反である。
マナー違反全乗せの男、工藤
高校時代に工藤という男がいた。
同じクラスの男で、見た目はヒグマのような男である。もしくはハグリットを思い浮かべて欲しい。
経緯は覚えてないが、ヒグマ工藤と映画「ハリー・ポッターとアズカバンの囚人」を観に行くことになった。
まず工藤は言った「吹き替えがいい!チケットは俺が取る!」。一切僕の意思は訊かれなかったが、まぁこれは良しとしよう。基本的には字幕派だが、吹き替えがいいという人間と、ヒグマだが、行くのにゴネるほどこだわっているわけではない。
そして吹き替えのハリー・ポッターを工藤が予約した。
スクリーン中央最前列である。
ライヴであれば狂喜乱舞してしまう席も、映画ではまた違ってしまう。
Mr.Childrenと同じような席であるが、決定的に違うのは観た劇場は、特に他の席が埋まってたわけではないということだ。というか、結構早めに予約したのだから、予約時には選び放題という状況である。
まぁ、それも仕方ない。
と思おうとしていたが、工藤自身が「観づらい」とボヤいたのだ。それも仕方ないと思う、ヒグマの工藤はあまり森から下りてこないので、里の映画館の座席がわからなかったのかもしれない。
しかし、それなら相談しろや。「俺が取るから大丈夫!」と言っていたではないか。
恋愛ものでもよく「大丈夫だから……」「大丈夫じゃないだろ?」と交わされる台詞のようくらい大丈夫ではない。
仕方ない。若干ハリーとロンをあの大きさで観るのは厳しいが、その分エマ・ワトソン(ハーマイオニー)をアップで観れるのだから、むしろプラスかもしれない。
いや、しかしハグリットのアップはどうだ。ただでさえ横にハグリットみたいなヒグマ男がいるのだ。
暑苦しいったらありゃしない。
その後もヒグマの工藤に「今の誰だっけ」と普通に話しかけられ、話すなという風に工藤を見ると、工藤は携帯を取り出して見始めた。もしかしたらヒグマだし、わからない日本語があるのかもしれないから仕方ない、わけないだろ。
工藤に限ったことではなく僕は映画館で携帯(現スマホ)を観る人間(とヒグマ)が許せないし、心の底から憎んでいる。
画面の明るさが目に入り映画に集中できないのだ。
いくらスマホに洗脳されている現代towsie、映画観てる間の2~3時間くらい我慢できないのか。もちろん時間確かめたいくらいつまらない映画だったのかもしれないが、普通にLINEとかしてるやつとか、なんなの。
本気で画面を女子大生のiPhoneくらいバリバリにしてやろうかと思う。
映画館で映画を観る良さのひとつが没入感である。たとえば「ミッション:インポッシブル」シリーズは画面に没入することで次々イーサン・ハント(トム・クルーズ)に訪れる危機を共有しながら進む。
そこにスマホの画面の光が入ると、没入感は一気に削がれてしまう。危機で焦ってるイーサン・ハントの手前でLINEの画面を見ることで緊張と恐怖は失われる。ちなみにその緊張は横のグリズリーに自分まで捕食されることの恐怖ではない。
話を工藤に戻そう。
ハリーのとんでもないアップで度肝を抜かれながら映画は終わり、エンドロールである。
ここで好みが分かれるだろうが、僕は絶対映画は最後まで観るというポリシーで生きている。かといって、それを無理強いはしない。確かに最近の映画のエンドロールは長すぎる。ましてや大作となれば、関わるスタッフの人数は膨大になり、軽くゲシュタルト崩壊を起こしそうになるくらい長い。
だから別に見ないなら構わないし、黙って先に出ててくれればいい。だから工藤、「えーもう出ようよー」と俺にゴネるな。お化け屋敷に入った彼女かお前は。なぜヒグマに急かされなければならないのだ。
結局工藤が五月蝿いため、僕はそのまま映画館を出た。人生でエンドロールで出たのはこれきりである。トイレ行きたくても「漏らしてもやむなし」と思ってまで観てたのに(※良い子は真似しないように)。
映画館は誰と言っても楽しめる場所だ。
それは、誰しもが観ている時は1人、孤独だからだ。
それは人生にも似ているかもしれない。
孤独になり画面の向こうの人物に人生を重ねる。
観客はそれを同じ場所で共通の体験をする。
だからこそ人はより感動するのだ。
途中入場やトイレなどで中座するのはやむを得ない事情かもしれないので仕方ない。でも少なくともスマホについては、上映中に見る必要ないだろう。もし緊急の報せが入るというなら、映画観てる場合じゃない、帰れ。
スマホの画面は見えなくても、その明かりは予想以上に目立つ。それが続くと映画館に行くのが億劫な気持ちになる。
それは映画という文化を破壊してくものだ。
そんなことにならないように、1人でも多くの人が楽しめる空間になればと願ってこの記事を終える。
ライヴと同じなのだ。
「ルールはないけどマナーはある」
ファンがアーティストを殺すとき、King&Prince新幹線問題とミスチル地蔵事件から
【ライヴマナー】ライヴ中よく分からないタイミングで叫ぶ人のことを例えると……
アミューズフェス(Amuse Fes)に見るライヴマナーとルールの違い

2018年10月29日月曜日
ポルノグラフィティファンのためのクリスマスプレゼント提案書2018 12選
もうすぐ年末がやってくる。
え?マジか。もう年末か……
今、世間はハロウィンまっしぐらでカボチャ色に染まっているが、終わればイルミネーションが始まり、すぐにやってくるのがクリスマスである。
毎年プレゼントを何にしようか頭を悩ませている老若男女や宇宙人その他が多いことだろう。
そこでポルノグラフィティのファンとして、ポルノグラフィティの彼氏、彼女、夫、妻カップル等々の方へのプレゼントを提案したい。
ポルノグラフィティに因んだというふざけた発想で書き始めたが、思いのほか難易度高くて後悔の
真っ最中である。
ポルノグラフィティファンが貰って喜ぶというテーマで、どう考えてもファンの見る割合が多いこのブログでプレゼンするのがネックであるが、この際仕方ない。
ファン同士のカップルや夫婦もいるだろう。
男性向き、女性向き呉越同舟で紹介するので、男女相互でプレゼントとして検討されてはいかがだろうか。
もちろんクリスマスだけでなく誕生日や記念日にもオススメだ。
なお、しっかりアフィリエイトリンクを貼るので、みんなそこから買ってもらい、収益でサンタになろうと思う。
※アフィリエイト不快という方はごゆるりとスルーしてください
気になる商品があったら、リンクからでなく商品名でググってもらえればアフィリエイト回避できます。
2018年10月26日金曜日
2018年のポルノグラフィティファン心境推移「この日 この時 この想い…」
2018年も佳境に向かっている。
さすがに日の流れが早すぎないだろうか。
皆様新年に誓った想いは叶ってますでしょうか、覚えてますでしょうか。
僕は、全く思い出せません。
さて、そんな2018年のポルノグラフィティファンのテンションの上がり下がりが激しすぎる。
血圧だったら異常値なんてもんじゃない。
身体に悪いくらい色々なことが起きすぎているので、ここいらで一度整理したい。
合間に自分で書いた記事のリンクも貼っておきます。
ちなみにニュース出た日と実際に行った日が混同しているが、気にするな気になるから。
2018年のポルノグラフィティファンの心境推移
2018年10月18日木曜日
映画プロモーションで芸能人の吹き替え起用とか日本版主題歌とか、止めません?
タイトルの通りである。
最近どれだけあるか分からないが、怒りがぶり返してきたので、ここいらで淡々と発散させてもらいたい。
そういうこともあって、取り上げる題材が若干古いのはご容赦いただきたい。
芸能人の吹き替え起用
めざましテレビを朝の眠さの死んだ目で見ているとエンタメコーナーで流れる「俳優の◯◯が映画吹き替えを担当」、「女優の△△が吹き替えに初挑戦」。
何が「初挑戦」だ。その女優が初挑戦だろうがなんだろうが、その作品はこの世に1つしかない。それを話題性重視のためにだけ俳優や女優を起用するというのは、冒涜ではないか。
たとえばコメディとかであれば、ナンラカノ化学反応を起こすこともあるし、それ自体をギャグに持っていけるかもれない。
コメディでなくとも「トイ・ストーリー」や「モンスターズインク」のような天文学的な確率でピタリと当てはまることも、なくはない。どちらもピクサーではないか。
しかし、名誉のために名前は出さないが何故MI6のヘンリー・カヴィルがウィッシュになるのか分からないし、ハンコックでウィル・スミスが巻き貝みたいな名前の人になるか分からないし、プロメテウスがZOZOTOWNになるか分からない。
最も怒りを感じたのは言うまでもなく「ザ・シンプソンズ MOVIE」である。
「ザ・シンプソンズ」を愛して止まない僕は映画のニュースにスミサーズ!と叫ぶほど心踊った。
しかし、劇場公開に際して吹き替えに当てられたのは、テレビシリーズでお馴染みの名前ではなかった。
ホーマー(父):所ジョージ
マージ(母):和田アキ子
バート(長男):田村淳(ロンドンブーツ1号2号)
リサ(長女):ベッキー
スミサーズ!
当時の「ザ・シンプソンズ」って吹き替えでこそ、ってファンの人が多かったと思う。それほどキャラクターと吹き替えの声が同一視されていた。それが、なぜこうなってしまったのだろう。
20世紀FOXの担当はホーマーに首を絞められるべきだし、バートのように黒板に「話題性だけで芸能人を吹き替えキャストにしてはいけません」ってひたすら書いてこい。
当然ファンからは猛抗議の声があがり、署名活動にまで発展した。それでも公開時の声は代わらず(分かってはいたが)、なんとかDVD発売時にテレビシリーズの吹き替えキャスト"も"収録された。抗議や署名がなかったらそれすらなかった可能性があったかと思うと末恐ろしい。
しかし劇場でテレビシリーズの声での「ザ・シンプソンズ MOVIE」を見ることは遂に叶うことなくなった。
この問題、そもそも「字幕見れば?」「英語覚えれば?」という意見もごもっともである。
繰り返すが「ザ・シンプソンズ」は吹き替えで見るものなのだ。
しかし採算のために、作品を汚すような行為が、許されるのだろうか。もちろん最初から救いようもない、どうしようもない作品もある。しかし、それすらも歪めてしまうのは、作品に携わるものとして、正しいと言えるのだろうか。
もうひとつ「日本版エンディングテーマ」問題について触れてみよう。
日本版エンディングテーマ問題
まず「日本版エンディングテーマ」ってなんぞや?って方のために簡単に説明したい。
海外の映画作品が日本で劇場公開される際にプロモーションの一環で、日本のアーティストが楽曲を提供して主題歌として流れるという不思議なルールが存在する。他国ではあるのだろうか。
用いられ方は主に予告だけで使われるパターンか、エンドロールで差し替えられて使われるパターンがある。
以前「バイオハザードⅢ」を劇場に見に行きまして。内容は世間の酷評に反して僕はわりと好きだったのだが、エンディングでどんなショッキングシーンより驚いた。
日本版のエンディングテーマ(イメージソング)が流れたのである。
その曲は。
倖田來未"LAST ANGEL feat.東方神起"
※ここからは荒れるのでファンの人は見ないでください
はああああああ!?
と劇場で叫びたくなった。僕は絶対にエンドロールの最後まで観る主義だが、初めて外に出たくなった。何をどうしたらイメージが倖田來未になるのか分からないし、曲がイメージになっているとは思えない。
せめて吹き替えだけとかならいいし、そういう映画も多いのに、これは字幕版にも容赦なく倖田來未されるのだ。
どうせ、あれだろ、決めたのこういう連中だろ。
決めた人間たち、桜井和寿ではないが、まずはお前らがゾンビに喰われればいいんだ。
いや、日本版主題歌を否定したい訳ではない。
手前味噌だがポルノグラフィティの"Zombies are standing out"であればスタンディングオベーションしていた(完全なる偏見)
吹き替えの奇跡的な化学反応のように、もし曲が映画と合っているのであれば、むしろ面白さを増すことにもなる。
しかし、なぜバイオハザードに倖田來未やら東方神起なのだ。どう考えてもavexがねじ込んだしかないではないか。
ちなみに本来はCollide の"White Rabbit"だった。
"White Rabbit"
うさぎじゃねぇか。
カメラ止めろ。
白うさぎということで、アリスがモチーフの歌詞である。
なぜかといえば主演のミラ・ジョヴォヴィッチの役名がアリスなのである。そうした、リンクがあるのだ。それ以上でもそれ以下でもないが。
日本でもせめてColdrainとかなら合いそうなものなのに。
これらのどこに問題があるかといえば、誰も得しないところにある。
映画も役者もアーティストも客も、配給という名のマーケティングに踊らされて。
無論映画自体つまらないのもあるし、収益を得るためには必要なのかもしれない。それくらいしなければ救いようもないどうしようもない映画もある。
それでも、評価は映画に対してされるべきではないか。作り手の意図しないプロモーションによって反発が起きたり、署名活動に発展したり、それほど悲しいことはない。
そんな悲しみがこれ以上続かないことを、ただ願う。
映画「カメラを止めるな!」原作と原案 この問題の本質はそこではないのでは
小説投稿サイト「小説家になろう」の人気作品が異世界ものばかりだった件
「面白いかどうかは二の次で、バカな子供と主婦から搾取できるガチャを設計しろ」は正論

2018年9月27日木曜日
"Zombies are standing out"に向けて"全く役に立たない"ゾンビ豆知識
ポルノグラフィティの配信シングル"Zombies are standing out"のリリースが決まった。
配信はなんと発表から3日後。
というか、今晩0時。
他のアーティストではしばしば見かけることはあるが、ポルノグラフィティもいよいよそんな時代になったのだなと感慨深くなる。
このシングル発表に伴って公式サイトに掲載された言葉に、とにかくワクワクさせられた。
2018年8月12日日曜日
ファンじゃない人にも聴いて欲しいポルノグラフィティ2番の歌詞
ポルノグラフィティがシングル等をリリースして、テレビ出演する。
その時は大抵、2番がカットされたりギターソロやアウトロなんかもカットされることもある。
もちろんテレビ出演してくれるだけでも有難いのだが、ファンとしてはもどかしい気持ちもある。
「2番の歌詞もいいのに!」と。
そう、ポルノグラフィティの2番の歌詞にはとりわけ素晴らしいものが多い。
そんなことをつらつら書いていこう。
まずは個人的に好きな2番の歌詞を5曲紹介したい。
2018年4月8日日曜日
【これはヒドイ】輝け!ダサい邦題大賞ノミネート〜映画編
日本の映画配給会社は時に寝ぼけているのかと思うような邦題をつけることがある。
変な邦題について、最近「神様メール」を初めて観まして、これがとりあえず不思議で不思議で、でもとても素晴らしい映画で。
それなのに原題「Le Tout Nouveau Testament(THE NEW BRAND TESTAMENT)」」(=新・新約聖書)がなぜ「神様メール」になってしまったのか。これについては、記事があったので、そちらを見ていただきたい。
原題と邦題に「ギャップありすぎ」の映画『神様メール』が話題。邦題はどうやって決めているの?
もちろん配給会社として、なるべく映画がヒットしてくれなくては儲かることができない。
なので、なるべく多くの人が興味を持ちやすいようなタイトルにするというのは理解できる。
だが、作品は永久に残るものだ。
だからこそ、コピーライターの如く作り手たちは作品のタイトルをじっくりと推敲するのだ。
僕はやはり興業収入のために作品の顔であるタイトルを捻じ曲げてしまうというのは、納得がいかないものである。
本当に愛される作品であれば、今の世の中はしっかり届くと信じている。
興業のためと思って付けられた邦題も結局機能せず、結果誰も得をしない結末を迎えるものばかりではないか。
もちろん中には良い邦題もあって、特にディズニー、ピクサーはわりと邦題の方がいいのが多いような気がする(「カールじいさんの空飛ぶ家」の原題は「Up」)
そんな残念な結果となってしまった邦題をここに残すこととしよう。
そのうち気が向いたら音楽編もやります。
2018年3月17日土曜日
【関ジャム】いしわたり淳治がやらないなら俺がやる ポルノグラフィティ失恋ソング特集
ということで。
先日放送された関ジャムの失恋ソング特集を見た。番組自体はとても楽しく見ていたのだが、ポルノファンとして納得いかなかった人も多いことだろう。
……失恋ソングといえば……!
……サウダージだろうが……!
とカイジみたいなテンションになった。
ということで勝手に憤りを感じたので、いしわたり淳治に代わって俺がポルノグラフィティ失恋ソング特集してやる、と思い立った訳である。
せっかくなので岡野昭仁と新藤晴一の曲を2曲ずつ取り上げることにする。
1. サウダージ
まずはなんと言っても"サウダージ"だろう。
"サウダージ"の妙とは何か。それは男の女々しさを女言葉に置き換えて表現した手法だろう。以前にも触れたことがあるが、ここであらためておさらいしよう。
"サウダージ"の特徴といえば女言葉を用いた歌詞だが、それは実は男の心情を女言葉に置き換えて歌詞にしているのだ。その理由は心情をそのまま吐露してしまうと女々しくなってしまうからである。なので、あえて女言葉に置き換えることで、ウェットだけどドライさもあるという絶妙なバランスの歌詞になっているのだ。
もちろんそのまま女性の心情として捉えても十二分に歌詞として素晴らしいが、その裏の意図があることで、老若男女問わず人を惹きつける曲となっている。
では"サウダージ"の最も秀逸な歌詞はというと、おそらく多くの声が上がるのが2番サビの一行だろう。
あの人に伝えて…寂しい…大丈夫…寂しい
この一行だけで、主人公がどんな人物なのか滲み出ている。本当は強がりたい、しかし最後にはどうしても弱さを見せてしまう。2回目にくる「寂しい」は最初の「寂しい」の比ではないほどの哀しみが詰まっている。
この繰り返しの手法はサビにも使われている。「その日までサヨナラ恋心よ」というフレーズは1番と最後のサビで繰り返される。
1番で時系列は現在である。そこから2番では2人の過去に焦点が当たる。
時を重ねるごとに ひとつずつあなたを知っていって
さらに時を重ねて ひとつずつわからなくなって
たった二行のフレーズ、しかしこれに共感するという人は多いだろう。
こうして物語に奥行きを持たせ、過去を思い、寂しさと強がりを抱えたまま主人公はそれでも最後に恋心へサヨナラを告げ歩み出す。
この2回目のサヨナラに込められているのは、1番のそれとは違っている。
そんなフレーズの繰り返しによって深みを持たせながらも、繰り返しというものにもう1つの意味が込められている。まさにそのままの言葉が登場する「繰り返される よくある話」というフレーズだ。これがあることで"サウダージ"は聴く者1人1人の心情に染み渡り、それぞれの"サウダージ"となる。
誰しもが経験すること、人がいつまでも繰り返している出逢いと別れ。"サウダージ"は架空のストーリーでありながら受け手の中で形を変えていつの間にか"実体験"のような感覚になるのはそういうためである。それこそがいつまでも人を惹きつける理由だ。
これ以上やると"サウダージ"だけで終わってしまうので、次へ行こう。
2. 別れ話をしよう
「アゲハ蝶」のカップリングナンバーである。
そのものズバリのタイトルである。
舞台は東京のどこかにあるバー。ある2人の別れ話。
これは"サウダージ"において女言葉に置き換えられた男の心情がストレートに表現されている。
別れを切り出したのは主人公であるが、それでも残る未練。それは「この煙草を消したら」「このこおり溶けるまで」、少しでも君との時間を終えたくないと、その瞬間を引き延ばしてしまう描写に現れている。
君との時間が終わり、店を出てしまえば最後君の全ては「僕のもの」ではなくなる。
"サウダージ"での恋心への別れは、それすらも受け入れて歩き出すというものであったが、"別れ話をしよう"においての「じゃあ さよなら」は未練と弱さに飲み込まれてしまっている。だからこそ、最後に主人公は「恋人」と言ってしまう。
しかし、それも"リアル" なのだ。誰しもが強いわけではない、失恋とはむしろそういうものなのだ。それが…このような別れなら…なおさら!
すみませんカイジネタやめます。
新藤晴一の歌詞はフィクションでありながらも、まるでどこかで本当に起こったことのようなリアリティを持っている。それでいて具体的な描写をあまり使わないことで、それぞれの中でストーリーが膨らんでいく。
では、ここからは岡野昭仁の書いた失恋ソングを見てみよう
3. 冷たい手~3年8ヶ月~
"サウダージ"のカップリングである。
新藤晴一はどちらかというとストーリーテラーのような部分があるが、岡野昭仁の歌詞はまたそれとは違っていて、その表現の違いがポルノグラフィティの楽曲の裾野の広さになっているのだ。
ここで描かれるのは"別れ話をしよう"とは真逆のような、未練すら残さない愛の結末である。
3年8ヶ月、決して短くはない年月だ。
しかし、その愛はもうとっくに乾き、冷えきったものになってしまっている。
怒りにも似た諦めという感情、しかしそんな歌詞の中で1つ、あるフレーズがあることで、この曲はより心に響くものとなっている。それは
今さら確かめても? きっとそこにあるのは
ただ美しい過去だけ
あらためて歌詞をじっくり読んで「確かめても?」に?がついているのに気づいた。
現在は冷えきってしまった2人、しかし逆説的にそれほど最初2人は熱い関係を築いていたということだ。そんな過去を否定せず、「ただ美しい過去だけ」と言い切ってしまうところに、2人の3年8ヶ月という重ねた日々の重さが詰まっている。
だからこそ君の匂いすら返してあげると言ってしまうほど乾いた2人の姿さえ、どこか愛しく写るのだ。
4. 夕陽と星空と僕
ファンの中でも圧倒的な人気を誇る「愛が呼ぶほうへ」のカップリングナンバー。
最も心を射ぬかれるフレーズがこれだ。
君の前では流せなかった涙が今ごろ頬を伝う
風もない静かな夜だからそのまま足元に落ちた
比喩でも誇張でもなく、ただありのままの光景。しかし、このフレーズが持っている哀しみはあまりに大きい。
僕の心の動揺はとてつもなく大きい。
そんな心の動揺と相反するように、その夜はあまりに静かだった。
君の前で流せなかった涙、それは素直になれなかったから。しかし、1人になってからその涙は呆気なく落ちていった、ただ真っ直ぐに。
違う部分を肯定しあうこと、それこそが愛や恋だった。しかしそれはいつしかただのすれ違いとなっていた。
これはまさに上記でも書いた"サウダージ"の「時を重ねるごとに~」のフレーズと相通ずるものだ。
どこまで行っても、最後に人と人は完全にわかりあうことはできない。しかしそれでも、いや、だからこそ人は人に惹かれ、人を愛してしまうのだ。
失恋ソングがいつまでも人を惹きつけるのは、そういった側面があるだろう。受け手によって様々に形を変える。
そう、まるでカメレオン・レンズのように。
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