2016年12月29日木曜日

イエモン"JAM"の歌詞の意味にまつわる誤解の誤解「乗客に日本人はいませんでした」









THE YELLOW MONKEYを代表する曲"JAM"。
2016年の紅白でも歌われる予定の曲だ。

この曲の歌詞についてよく揶揄されていることがある。

それは、


外国で飛行機が墜ちました ニュースキャスターは嬉しそうに
「乗客に日本人はいませんでした」
「いませんでした」「いませんでした」


という部分。

この歌詞を額面どおりに受け取っている人、それに反論している人などが多くいる。
しかし、どれもいまいち自分の考えと合わない。

こんな90年代に散々言われたであろう事柄を、それこそ紅白で初めて聴く中学生とかがちょっと覚えた知識でTwitterにでも書いてしまったら将来的に書いた本人がとても可哀想なので、解釈を書いてみることにした。








歌詞に対する指摘記事について



まず指摘内容について、要約すると。


海外の事故などでの「乗客に日本人はいませんでした」というのは、大使館などに問い合わせが殺到しないようにしているための配慮である。


ニュースで伝える内容としてはこれが紛れもなく「事実」である。

しかしながらその部分だけを切り取って浅はかな指摘をしている記事がたくさんあるのだが、果たしてそれで終わらせていいのだろうか。

こういう上っ面だけ切り取って批評して得意になっているような人たちが嫌なんだよ。

歌詞というものの性質について、思慮しなければいけないのだ。



誤解の誤解




しかし"JAM"でこのフレーズを使っていることの意図は別にあると僕は思う。

この曲で主人公はずっと暗い部屋で鬱蒼とした気持ちを抱えている。
ただひたすらに君への想いを切々と歌って。

ここで1つ定義しなければならないのだが、歌詞というのは「正論を振りかざすもの」ではない。


そして"JAM"における歌詞とはあくまでも主人公の主観に基づいているものなのだ。


「この世界の片隅に」はまさにそんなストーリーであった。
劇中で時折誇張した映像となるのは主人公すずの目を通した世界だからである。


"JAM"の主人公も同じではないのだろうか。
暗くした部屋でそのニュースを聞いたこと、それが主人公にとっての全てなのだ。

つまり、世間一般での「正しさ」ではなく、主人公の中での「正しさ」が歌われている。
そしてその憤りは社会にではなく自分自身に向けられているといえるだろう。

というかそもそも指摘記事書いた人間が額面どおり受け取るなら「前前前世から君を探してた」って歌詞にちゃんと「そんな訳ないだろう」って指摘したんだろうな。




本質



話はそれるがポルノグラフィティに"∠RECEIVER "という曲がある。その中でこんな歌詞がある。


雨が家を沈め 波が町ごとさらった 奪った
大地は揺れて避けた 人はうろたえるだけの無力さよ


この曲は3.11の震災の1年前に発表されたものである。

震災のあとにファンの間では様々な憶測がめぐっていた。もうお蔵入りになってしまうのではという内容が主だったものだ。

しかし、震災から半年経ったライヴでポルノはあえてこの曲を演奏した。

それはこの曲の本質がそういった災害や悲劇から逃げないで受け止めるという決意が歌われていたからだ。


何が言いたいのかというと"JAM"について上記の歌詞が取り沙汰されるが、この曲の本質はそこではないということだ。


この曲の本質は主人公の男が自分が本当に求めているものを見つけることにある。
ニュースキャスターのコメントはキッカケとなる要因であって、たとえ他の出来事に取って変わっても何ら影響はないのだ。

そんな社会の中での悲劇がキッカケで主人公は自分にとっても大切なものがなんであったかに気付くのだ。
その大切なものこそが「いませんでした」の先にある歌詞で、それこそ単純明快な答えなのだ。

なんだかんだ言われても紅白は影響力高いので、少しでもこの曲が意図せぬ批判を受けるのが嫌なので今回言葉にした。


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5 件のコメント:

  1. この世界の片隅にを引き合いに出さないでください、イエモンは浅はか

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    1. なぜ僕は貴方個人の主観でしかない基準の"浅はか"に対して、「引き合いに出さない」という選択をしなければならないのでしょうか?
      貴方がイエモンを浅はかと思うのは自由ですし、否定するつもりもないですが、貴方の溜飲を下げるためだけに自分の表現を直す理由はないと判断させていただきました。

      まさか「自分が気にくわない表現は排除してやる」なんて浅はかな理由で書く方でもないと思うので、ここまで書かせていただきました。

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  2. 90年代にもよく言われた話ですが、当時はおっしゃる要約の前半「ニュースキャスターは嬉しそうに」について話題になっていたように思います。
    「日本人がいないからと言っても墜落事故を嬉しそうに話すキャスターなんてありえない」という点。
    それに対して「吉井さんが笑って話すキャスターを自分は見たと言っているんだから、いたんだろう、きっと久米宏とか」という人と「いくらなんでも、さすがにそれは無い。作詞のフィクション。」という人が対立していたように思います。
    しかしながら、歌の中の自分(もしくは吉井さん)には、「笑っているように見えた、例え勘違いでも」というのは、分かりやすい解釈に思います。

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  3. コメントありがとうございます。
    すごく穿った見方をすると「ニュースキャスター~」のくだりって話題になりやすいからこそ、より注目された部分もあると思います。自分としても当時の話は色々読んだ上でこの結論に至ったので、そう受け止めたいただけて有難いです。

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  4. 通りすがりの者だが一言。

    >海外の事故などでの「乗客に日本人はいませんでした」というのは、大使館などに問い合わせが殺到しないようにしているための配慮である。

    これは当然だが、そもそもJAMの歌詞を作った吉井和哉が勘違いをしていたわけですね。
    古舘伊知郎のようにいつも笑った顔に見えるニュースキャスターが事故のニュースを伝えるのを見て「嬉しそうに」喋っていると思い込んだのでしょう。
    航空機事故で大勢の死傷者が出ているのに嬉しそうに話すニュースキャスターなんて存在しません。真顔で喋るに決まっています。でも古舘伊知郎がいくら真顔で喋っても笑った顔に見えてしまうのですね。

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