2018年5月22日火曜日

"愛が呼ぶほうへ"の歌詞の意味をストーカーという奴を俺は許さない





ポルノグラフィティに"愛が呼ぶほうへ"という曲がある。


2003年にリリースされた13枚目のシングルである。
陳腐な言葉ながら、他に相応しく形容する言葉がないので使うが"名曲"である。

先日あらためて歌詞を見ながら惚れ惚れと聴いていると、自然に涙が流れてきた。
もう何度となく聴いてきたはずなのに、今でもその圧倒的な包容力にやられてしまう。

歌詞解釈というほどではないが、あらためて"愛が呼ぶほうへ"という名曲について語ってみよう。









世の中にどれだけ"愛"にまつわる歌があるだろうか。

「BUTTERFLY EFFECT」の説明のように、それはあまりに広大な海のようである。そんな中で"愛"そのものが語り部となる歌がどれだけあるだろうか。

恋愛の曲を突き詰めていけば、ほとんどが"恋愛あるある"に行き着く。そこに聴き手は自分を重ね、共感という名のもとに曲を味わうのだ。

恋人へ、家族へ、友人へ、等その対象は様々である。それくらい身近な存在に重ねられるように出来ているものが多い。
そんな中で"恋"そのものに人格を宿し、語らせてしまうという発想の歌詞はありそうでないものである。
※もちろん広大な海なので探せばあるだろうが、少なくとも僕は知らない

愛とは何か、キリスト教における"アガペー"のようなものかもしれない。或いは仏教における"慈愛"かもしれない。愛というものを見るときにキリスト教における愛と、仏教における慈愛は違うものだ。

キリスト教にとっての愛は「神からの無償の愛」から発展し、「汝の隣人を愛せよ」という教えになる。
一方、仏教における"慈愛"とは何か。仏教において愛とは"執着心"を表す。


愛より憂いを生じ、愛より畏れを生ず、愛を離れたる人に憂いなし、何のところにか畏れあらん
『法句経』より


というように、慈愛とは"苦を抜き楽を与えること"である、とされている。慈悲とは、他の人の不幸を抜き去り、それに替えて幸福を与えることである。

このように宗教においても"愛"というものは広義な意味合いとなる。










あるがまま




それを踏まえて、あらためて歌詞を見てみよう。

償う人の背に降り続く雨
綺麗な水をあげよう 望むまま
戸惑う人の目に吹きつける風
見えぬなら閉じればいい 手をとってあげよう


Aメロだけ見ても、そこから"無償の愛"とも"慈愛"とも読み取れる歌詞となってはいないだろうか。

そして最も重要なのが、2番のサビである。

君は知っているだろうか 悲しみも喜びも
My name is love 僕が持つたくさんの名前のひとつだから
そう 永遠で一瞬で君にとってのすべてだ


"僕"という存在は愛でもあり、悲しみ、喜びでもある。それだけではなく、多くの"名前"を持っている。

たとえば"無償の愛"、たとえば"慈愛"、"僕"という存在はその全てを内包しているのだ。
"僕"は普段は遠くから近くから君のことを見守っている。しかし、時には「手をとってあげよう」などにあるように、導いてくれる存在でもある。

花が空に伸びゆくように 海を越える旅人のように
いつも導かれているのでしょう 愛が呼ぶほうへ


花にとっての太陽のように、海の向こうに待つ世界のように、"愛"は至るところにある。そして気づかぬうちに、人はそこに導かれているのかもしれない。

大切なことは"あるがまま"であること、それはつまり"Let It Be"ではないか。


And when the night is cloudy,
There is still a light that shines on me,
Shine until tomorrow,
Let it be.

曇り空の夜でも
僕を照らしてくれる光がそこにある
夜が明けるまで
あるがままに

The BEATLES "Let It Be"


まさに、この光のような存在こそ"愛"ではないだろうか。

だからこそ、"愛が呼ぶほうへ"という曲がこれほどの包容力と普遍性を兼ね備えた名曲となっているのではないか。


「"愛が呼ぶほうへ"ってストーカーの歌だよねwwww」みたいなことを言う奴は滅殺である。


お前は誰にも愛されていないのか。



合唱




"愛が呼ぶほうへ"で最も印象的だった出来事は、2005年に行われた因島でのスペシャルライヴである。
もちろん僕は因島の子ではないので生で見てはないが、後の放送を見て最後に子どもたちが合唱する"愛が呼ぶほうへ"に涙した。

今でも思い出す度に泣けてしまうほど感動した瞬間であった。

なぜこんなに泣けてしまうのだろうか。

このライヴは市町村合併により"因島市"がなくなってしまうことに起因して、ポルノグラフィティが因島の小学生~高校生をそれぞれ無料招待して行ったものである。

島の子どもたちに「名前が変わってしまったとしても、島のことを大切にして忘れないでいて欲しい」という願いを込めて行われたものだ。

ポルノグラフィティなりのライヴを見せた最後、どの公演でも学生たちと"愛が呼ぶほうへ"を合唱した。

特に小学生の部でのそれは、あまりに感動的であった。最後のサビに行くとき岡野昭仁は言う「最後、最後は一番デッカイ声で歌いましょう」
その言葉を受けるように、それまでよりも一段と大きくなる子どもたちの歌声。

その歌声の大きさに驚き、思わず顔を綻ばせてしまうメンバーたち。

この表情を思い出す度に泣けてしまうのだ。アーティストとして、こんなに幸せな瞬間はないだろう。まさに「永遠で一瞬で君にとってのすべて」となった瞬間なのだ。

言っても小学生なのだ、歌詞の意味さえ大半の子は分からないままに歌っていたはずである。
それでもその歌声が感動的に響く、それは子どもとは愛情の化身でもあるからだ。

集まった中には、それぞれの家庭の事情もあるかもしれない、もしかしたら決して愛されず育つ子も中にはいたかもしれない。しかし、ライヴとはどんな人生を歩んでいても、それを受け止め、肯定してくれる場所ではないか。

メンバーは生まれ育った場所への愛情を後輩たちに、次の世代たちに託したのだ。その想いがきちんと届いたからこそ、あの合唱に言霊が宿ったのだ。

愛が呼ぶほうへ導かれたからこそ、あの瞬間に音楽の魔法が掛かったのだ。

そんなことを思いながら、また聞き返す。

本当に美しい曲だ。

この曲でドラマを作ったら、さぞ名作になるのだろうな。

CDTVクリスマスSP?


それは新しいチョコレートか何かかね?



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