人はなぜ映画を観るのだろうか。
楽しむため、感動するため、暇つぶし、理由は様々だろう。
人が映画を観る理由のひとつは「心を動かすため」であると思う。
人の心は水と同じで流動させないでいると腐ってしまう。
それを歌詞にしたのがMr.Childrenの”HANABI”という曲である。
まさにそのように、映画を観ることで人の心は”動く”。
“感動”という言葉はまさにそれを表しているではないか。
その”感動”があまりに強いものになったとき、人は何を感じるだろう。
そんなことまで考えさせられたのが映画「バーフバリ 伝説誕生」「バーフバリ 王の凱旋」という2部作である。
上記の問いの答え、それを求めて感想を書いていこう。
あらすじ
大勢の兵士たちに追われ、滝へ追い詰められた老女。胸に抱いた赤ん坊を救うため、老婆は自らの命を犠牲にするが、赤ん坊は村人に拾われ助かった。シヴドゥと名付けられ勇ましい青年へと成長した彼は、巨大な滝の上の世界に興味を持ち始める。そしてある日遂に滝の上へとたどり着き、美しい女戦士アヴァンティカと出会い恋に落ちる。彼女の一族は暴君バラーラデーヴァが統治する王国と戦いを続けており、それを知ったシヴドゥは自ら戦士となって王国へと乗り込んで行く。そこで彼は、25年間幽閉されている実の母の存在と、自分がこの国の王子バーフバリであることを知る。背景には、50年前に祖父が建国した王国の国家存亡の危機と国を揺るがす王位継承争いという因縁の歴史があった。バーフバリを待ち受ける運命とは─!
”はじめに"
ネタバレ感想を書いていくが、そもそも公開からかなり経っている上にソフトすら出ているので、あまり気にせず書いていこう。
この時期に《完全版》ですらない感想を書くのは愚かな行為とも思えるが、ご容赦いただきたい。
この映画、感想を書くのは簡単なのである。
「バーフバリ!バーフバリ!」
「王を称えよ!」
「今の僕はバーフバリ王のためなら命すら惜しくない、それが臆病者ではない、生きるという証なのだ」
おわり
しか書くことがない。というかそれで逃げようとした。
しかしどこか遠くからこちらを見つめる視線と「インドカレーあげるから書いて」というメッセージがテレパシーで届いたような気がするので、重い腰を上げることにした。
そうだ、王は逃げないではないか。
というか、俺は王じゃないけど。
書くからには読む人が引くくらいの思いで、遅くなったからこそ徹底的にやってやろうじゃないか。
ということでかなり長くなるので、余暇で少しずつ読んでいただければ幸いである。
基礎知識&雑学
まず、この映画を楽しむ上で知っておくと楽しめる知識がいくつかあるので、それを整理しよう。
①インド映画はなぜ歌い踊るのか
インド映画といえば唐突に挟まるミュージカルシーン。
「バーフバリ」においても展開されるが、なぜ歌い踊るのか。
多言語、多宗教による問題を解消さるためとか、エンタメ性を上げるためとか色々理由はあるのだけど、ひとつには「性描写に制限があるため」である。
「バーフバリ」においても、ミュージカルが挿入されるシーンは恋愛にまつわるシーンが多かったことからも窺えるだろう。
ラブシーンの代わりに万人が理解できて楽しめるミュージカルシーンが使われているというわけだ。
そして「バーフバリ」においては、そのミュージカルシーンを場面転換や登場人物たちの心情を歌わせることで、物語のテンポを落とさないために使われている。
前編後編で5時間を越える作品ながら、しっかり飽きさせない創りとなっているのは、こうしたシーンの工夫にある。
②インド映画最大の制作費
観れば納得だが「バーフバリ」は前後編合わせて43億ルピー(日本円約73.5億円)もの制作費が掛けられている。
前編は約31億円、後編は約42.5億円ほど掛かっているらしい。
5000人のエキストラを使ったシーンもあり、その規模は計り知れない。
ちなみに日本映画では10億円で超大作と謳われるほど世界と比較すると予算がない。
しかし、これをハリウッドで見たときには決して高額ではない。
たとえばアベンジャーズシリーズの人気作「デッドプール」の制作費は約60億円。
だがこれは、ハリウッドの大作に比べれば4分の1程度の予算なのだという。
ちなみに2014年の発表では制作費の歴代1位は「パイレーツ・オブ・カリビアン/ワールド・エンド」の339億円とのこと。
つまり2作で73.5億円という「バーフバリ」は、とてつもない予算を掛けているように見えて実はそうではないのだ。
それであれだけの映像を創れるのだから、CG技術などの進歩がいかに凄いものなのか実感させられる。神話だけあり、それだけの予算を掛けねばあれだけの世界観を築き上げられなかったのも納得である。
映画においてキャラクターを魅せるには、それだけの"舞台"が必要となる。
その上でよく言われているように「足し算しか考えてない演出」がそれを後押しした。
過剰なほどの映像美、スケール感。過剰を極めた映像の中でさえバーフバリ王は、全く遜色ない存在として描かれる。
だからこそ映像に説得力が生まれる。
映像はお金を掛けて凄い映像を創ればいいという訳ではない。そこに確固たる目的があることで、人々を魅了する画が生まれるのだ。
しかしながら監督のインタビューによるとインドでここまでの大作は初めてなので、スタッフが不慣れであった点に苦労したとのことだ。
お金の話ついでで興行収入は400億円を超えているそうだ。
400億円がどれほど凄いかというと、昨年発表されたニュースでは「映画ドラえもん」シリーズの累計興行収入が400億円を突破したということである。
③額のビンディ
登場人物たちの額に印されるティラカ。それぞれに意味が当てはめられている。
アマレンドラ・バーフバリ(父)→「半月(ハーフ・ムーン)」二面性(パワーと優しさ)
アマレンドラ・バーフバリ(息子)→「蛇」再生の象徴
シヴァガミ→「フル・ムーン(満月)」女性のパワー
、平等、大胆、勇気の象徴
バラーラデーヴァ→「太陽」力強さや男らしさの象徴
など、キャラクター毎に異なったティラカがつけられている。
ちなみに額の印はビンディーと呼ばれることがあるが、これは原則として既婚で夫が存命中のヒンドゥー教徒の女性がつけるものだそうだ。
ティラカはどちらかというと宗教的な意味合いで宗派などを示すもの。
④カースト
世界史で学んだであろうカースト制度。
「バーフバリ」においてもカーストが物語の重要な役割となる。
近年では「スクールカースト」などど用いられるが、本来はもっと思い人に生まれながらの「業」を与えるものである。
ヴァルナと呼ばれる分類で、大きく分けて4つの階層となっている。
バラモン(司祭)
クシャトリヤ(王族)
ヴァイシャ(市民)
シュードラ(隷属)
ちなみにヴァルナに属さない人々もいて、ダリット(不可触民)と呼ばれている。
「バーフバリ」においてはクシャトリヤとシュードラの関係が重要になる。つまりはシュードラに属するカッタッパと王族とのカッタッパとの関わりである。
現在のインドではカースト制度は非合法化されているが、今年に入ってもダリットの男性が「クシャトリヤのみが乗って良いとされている馬を所有していた」という理由で撲殺されるという痛ましいニュースがあった。
僕らは”カースト制度”を言葉と知識でしか知らない。
それは本当の意味で”理解”することではないのだ。
雑学などはキリがないので、ここら辺にして物語の内容に触れていこう。
あとは合間に挟んでいくことにする。
"王"とは
この映画を何よりも素晴らしい作品にかえているのは、言うまでもなく父アマレンドラ・バーフバリ、息子マヘンドラ・バーフバリ(シヴドゥ)を演じたプラバースの力だろう。
「バーフバリ」において最も重要なポイントは何か、それは「王とは」という問い掛けへの答えである。
"王"という存在、これの描写如何によってはともすれば途方もなく薄っぺらい物語となってしまうが、プラバースが演じたバーフバリ王は、まさに王としての貫禄をまざまざと見せつける好演であった。
正直、最初の方は「この冴えない髭面のオッサン5時間見るのかよ」と思ってしまったが、今はそんな自分を恥じ、過去の自分を三本矢で射抜いて殺して欲しい。
特に父親のアマレンドラ・バーフバリを演じている時、王宮を追われてしまった身としてのアマレンドラはとても親しみやすい存在であるが、王になるべくして王宮に居た時の存在感は、圧倒的なる説得力を持っている。
後編など歩いてるだけで「これは王の風格っすわ」と思いながら観ていた。
理屈を越えたその存在は、民衆の咆哮だけでなく観終わった観客をも叫ばせる。
だからこそ観終わった人間は「バーフバリ!バーフバリ!」「バーフバリ王を称えよ!」としか言えなくなるのだ。
余談だが真の"パワーワード"とは「バーフバリ」なのではないだろうか。
王宮を追放されて出てきたアマレンドラに、民衆のオジサンが叫ぶ「泣くんじゃない。聖堂から現れた神が我々と共に生きる。お祝いだ!」の台詞に今なら大いに頷く。
そして『スラムダンク』の「『負けたことがある』というのが いつか 大きな財産になる」という山王工業の堂本監督の名言を思い出してまた泣ける。
「王」とはなんだろう。絶対的な権力だろうか。神なのだろうか。
人はなぜバーフバリ王を称えるのか。
バーフバリの王造形は、まさに宗教的な意味合いが強く「絶対的なる指導者」「民衆を導くリーダー」として存在する。
かなり人間離れしたその強靭な肉体、超人的な力、そのどれもが違和感を感じさせない。それはある種映画を観ている我々も「神」という偶像としてバーフバリを観るからだ。
王として。バラーラデーヴァは王として自分自身の決断で動いていることが実はほとんどない。
彼のしていた決断といえばカーラケーヤでも特攻とボスの殺害、そしてバーフバリからデーヴァセーナを奪うことしかないのだ。
それ以外の決断はシヴァガミやビッジャラデーヴァによって植え込まれたものであり、操られた判断をしているのだ。
※例外あったらすみません
これによってバラーラデーヴァが王として相応しくない存在であるということを示していることにもなっているのだ。
シヴァガミ
物語はシヴァガミから始まる。
そして王宮の中心であるように、物語はシヴァガミの決断によって動いていく。
シヴァガミ、つまりシヴァ神である。
ヒンドゥー教には3柱という主神がいる。
キリスト教における「三位一体」もそうだが、"3"という数字は宗教においてしばしば(シヴァだけに)神聖な数字として登場する。
ブラフマー、ヴィシュヌ、そしてシヴァである。その中でもシヴァが最も影響力を持つと言われている。
シヴァだけは聞いたことがあるという人が多いのではないだろうか。それは間違いなくファイナルファンタジーのせいである。
シヴァは「破壊と再生」を司る神である。
シヴァ派と呼ばれる宗派が物語においては重要な要素となる。シヴァにおける概念が散りばめられていのだ。
たとえばカーラケーヤを迎え撃つのにバーフバリが提案する三叉作戦はシヴァ神が持つという「三叉の槍」を示している。
笑うしかない角に火を宿した牛たちの突進、それに飛び乗るバーフバリというシーン。牛はシヴァ神のヴァーハナ(神の乗り物)とされている。
他にも蛇、数珠、太鼓、虎の毛皮など、映画に登場したモチーフは全てシヴァと共によく描かれているものばかりなのだ。
物語において最初と最後に登場するリンガ。これもまたシヴァ派の象徴で男根をモチーフとしている。下の部分がヨニと呼ばれる女陰を表している。
このリンガに灌頂(かんじょう)することで願いが叶うとされ、シヴドゥの養母はそれを行うが、シヴドゥによってリンガは滝に移される。それによって水を掛ける必要がないよとシヴドゥは笑う。
タマンナー
世間的には後編の「バーフバリ 王の凱旋」の方が評価されているが、個人的には前編の「バーフバリ 伝説誕生」がとても好きである。
前編における最大の魅力は何か。
それはアヴァンティカを演じた女優タマンナーの魅力と直結しているからだ。
※個人の意見です
とにかくタマンナーさん、美しい。
こんな駄文読んでないでタマンナーで画像検索していた方がQOL上がると思います。
いや、読んでいただいて誠にありがとうございます。
「バーフバリ 伝説誕生」における滝での天女として現れるシーン、そしてバーフバリと歌と踊りで愛を交わしていくシーンなど、本当に素晴らしいと思う。
ありがとうございます。
たぶん僕はこのシーンを見る為に生まれてきたんだね。
踊りながらヒロインの服を脱がせ、化粧をしていく、そして最後にキス、完璧である。あまりに美しく、歌も素晴らしいので、何度も見返してしまう。
音楽関係は後程まとめるので、そちらを参照いただきたい。
あまりに惚れ惚れ観てしまうので、肩のタトゥーはさすがに気づけやくらいしかツッコミが浮かばない。
「バーフバリ」において登場する女性たちは皆強い存在として描かれる。
後編ではメインとして描かれるデーヴァセーナ役のアヌシュカ・シェッティもとんでもない美人であるが、個人的にタマンナーの魅力が強すぎて、後編を見ながら「タマンナー出て来んなぁ」と思ってしまっていたのだ。
この記事もタマンナーの画像をひたすら貼るだけでお茶を濁して終えたい気持ち、これからの人生をタマンナーに捧げたい気持ちでいっぱいであるが、まだまだ記事は続いていく。
とりあえずあと3枚だけ画像を貼っておこう。
「バーフバリ」のキャラクターたちは観た者誰もが、心を奪われてしまうキャラクターばかりである。
↑に挙げた「お祝いだ!」オジサンだけでも一万字書けそうだし、1人ひとりのキャラクターを語り始めれば何万字あってもキリがない。
正直魅力的でなくて残念だったキャラクターはカーラケーヤ(蛮族)のボスくらいなものである。
あまりに噛ませすぎる。前編はこのボスがもっと魅力的であれば更に加点だった。といっても5億点が5億2000点になるくらいなものだが。
それでも短いながらにインパクトはあるキャラだった。それだけに、ということだ。
主要キャラクターの中でも誰もが印象に残る重要な役割を担うのが、カッタッパである。
生誕から見守り、バーフバリにとっては父親のような存在である。
そんな彼だからこそ、前編最後に明かされる真相はあまりに残酷な現実だ。
「バーフバリを殺害したのはカッタッパである」これがクリフハンガーとして後編の物語の求心力を強めている。
しかし、真相を知りたいと思いながらも、1点の悲劇へと向かうそれは、"本来の王"の死へとも向かうのである。
劇中でも度々語られている通り、カッタッパは奴隷の身分である。
だからこそ、本来であればこれほど宮廷から求められる存在ではないはずだ。
だがカッタッパはその強き”忠誠心”と剣の腕によって、信頼を得ている。
現に劇中でカッタッパが「奴隷の身分なのに……」と語る場面でも、それが謙遜に見えてしまうくらい王族と奴隷のようには見えない描き方がされている。
しかし、この世界においての階級は絶対的なものだ。
シヴァガミによる「お前が殺すか、私が殺すか」という問い掛け、絶対的なる命令。
あれほどに心酔していたバーフバリにカッタッパは剣を突き刺す。
それは絶対的なる王族の命令でもあり、バーフバリは王となれなかった存在だからだ。
バーフバリにどれだけ民衆が声を上げようと、願おうと、覆すことのできない存在が王なのだ。
バーフバリによって”王の力の絶対性”が描かれているからこそ、その力が己に刃向かうアイロニーの構造となるのだ。
その”不条理”ともいえる決断、カッタッパの心情を思うほど苦しくなる。だからこそ、シヴァガミに肉迫するカッタッパに涙してしまうのだ。
デーヴァセーナの従兄クマラ・ヴァルマもまた魅力的なキャラクターだ。
僕は「バーフバリ 王の凱旋」において最も胸を熱くされ、泣いてしまったシーンは他ならない、クマラのエピソードとその最期なのである。
クンタラの王族として、決して彼は強き存在としては描かれない。
最初はクマラは完全なるコメディリーフとして登場する。日本だったら絶対大泉洋である。
しかし王宮が山賊に襲われた際にバーフバリの「国民を守るのが王族の務め」という叱咤によって、本当の戦士として目覚める。
圧倒的戦闘強者が多い物語の中で、こうして戦士として目覚める男というのは、とても感情移入しやすい。マンガ『キングダム』の壁(へき)に近い。
弱気ものが見せる強さ、そこにまた物語のカタルシスが宿る。
その最期はとても胸に迫るもので、バーフバリのため王宮に先入し、敵を討とうとして死するクマラの姿は、真の戦士であり勇者である。
後編も何度も見返したいが、このシーンだけは観るのは、辛い。
バーフバリこそが英雄とされる物語だが、誰しもが英雄としての要素を供えているのが登場人物たちの魅力に繋がっているのだろう。
バーフバリには数多くの武器や兵器が登場する。剣や弓矢、槍のような普遍的なものから、みんな大好き回転刃付き戦車のようなマッドマックス感溢れる奇抜なものまで様々である。
デーヴァセーナを鎖に繋ぐことにこだわったバラーラデーヴァが、バーフバリが手に巻き付けた鎖でぶん殴られるシーンなんてなんて皮肉が効いていて爽快だろうか。
カーラケーヤとの戦闘もそうだが、バーフバリは戦局において、武器が不利になっているシーンが多い。
バラーラデーヴァがそんな殺戮戦車や伸縮自在のモーニングスターを使う。
それに対してバーフバリが使う武器といえば角に火を着けた牛で突進である。そこからのダム決壊による洪水で敵を一網打尽、お見事。
他にも手近にあるもの、椰子の木や雪や敵の武器を使用したりして、難局を乗り越えていく。
戦闘シーンが多い中でもこうした武器の工夫が毎回凝っているので、見ていても飽きないどころか「さぁ、次は何を武器にするんだ」と楽しみになってしまう。
人間盾砲弾なんてギャグすれすれでギャグになってるけど、あのビジュアルを見て、思わずレオナルド・ダ・ヴィンチの戦車を思い出してしまったり。
↑装甲が似てる
その他、誰しもを魅了した廊下にでの弓矢での戦闘。
三本矢を放つためのレクチャーをしているだけなのに、なんてエレガントで美しいシーンになっているのだろう。
ここでバーフバリとデーヴァセーナはひとつになる、つまりはセックスのメタファともいえるシーンとなっている。だからこそ2人の姿はどこまでもロマンチックに映えるのだ。
人に向けて矢を放ちまくって殺してるのに、恋愛をとても官能的に魅せるっていう、とんでもないバランスになっている。
とりあえず若手俳優の登竜門とかいって、適当なマンガを拾って、売り出したい俳優と女優を並べ、適当な恋愛映画を創っているスーツ野郎(業界人)たちは三本矢で全員射抜いてもらいたい。
上でも触れているとおり、この映画はインドの作品らしく合間にミュージカルシーンが挟まる。
そこで当たり前だが重要なのが「音楽」である。
この音楽が前後編通してあまりに見事なのだ。
曲の良さ、歌詞、どれを取っても練り込まれ優れている。
全曲紹介したいが、本当に終わらなくなるので、抜粋して紹介しよう。
まずはMVがそのまま劇中の映像になっている滝登りのシーンで使われる"Dhivara"である。
もう、これプログレだよねってくら展開が凄い。「ライオンキング」を彷彿とさせる大地を感じる力強さとエキゾチックさを兼ね備えた音楽。
そして僕が見る度に「タマンナーい」と声に出してしまう"Pacha Bottasi"。
この2曲だけでも僕は生きていける。
映画のシーンだけど、MVとしても完璧と云える仕上がりだ。
こちらは「バーフバリ 王の凱旋」のオープニングを飾る"Oka Praanam"。
1作目のあらすじを追う内容だが、重厚なストリングスと合唱がとても良いので聞き入ってしまう。
後編のラブシーン。
この段階に来ると船が飛ぶということすら、全く違和感無く、むしろ圧倒されてしまう。
"Dandaalayyaa"
王を称えよ
どうしても『指輪物語』(ロード・オブ・ザ・リング)との共通項を書きたくなる。
普遍的な英雄譚であるので似通う部分があるという前提ではあるが、やはりクライマックスで腐りきった現政権を滅ぼし、放浪していた王がその玉座に戻るというラストは重ねざるを得ない。
しかしながら映画「ロード・オブ・ザ・リング」と異なる点はバーフバリの能力がアラゴルンとレゴラスとギムリを足したような強さであることだろう。
なんならそれに「300(スリーハンドレッド)」のレオニダスを足してもいい。
剣、弓、力どれを取ってもそれぞれのキャラクターと比べて見劣りしない。
そう考えるとバーフバリ強すぎる。さすが、我が王。
「似ている」と感じた部分が「初めて観たときの感動」なのだ。
壮大な映像美、そして英雄譚。
「映画を観ることの喜び」をこんなにもくれる作品、それこそが「バーフバリ」である。
日本では「カメラを止めるな!」が全く違う角度からそれを思い起こさせてくれた。
初めて「ジュラシック・パーク」を観たときの純粋なる感動、それが再び甦ってくる。
その上で2年前に「マッドマックス 怒りのデスロード」に、「シンゴジラ」に、「この世界の片隅に」で僕らが感動させられた喜び、まだ映画は終わってない。まさに「Show must go on」だ。
「バーフバリ」が世界を熱狂させたのは普遍的なストーリーをこれだけの規模の演出で表現しきった点にある。
だからこそ、これだけ宗教を感じさせる作品でありながら、世界に届いたのだ。
最初の問いの答えである。
その”感動”があまりに強いものになったとき、人は何を感じるだろう。
それは「生きる喜びを噛みしめるため」ではないだろうか。
そんな映画に出会えたことに、喜びを抱き、僕はまた言ってしまう。
「バーフバリ!バーフバリ!」
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「バーフバリ 伝説誕生」における滝での天女として現れるシーン、そしてバーフバリと歌と踊りで愛を交わしていくシーンなど、本当に素晴らしいと思う。
ありがとうございます。
たぶん僕はこのシーンを見る為に生まれてきたんだね。
踊りながらヒロインの服を脱がせ、化粧をしていく、そして最後にキス、完璧である。あまりに美しく、歌も素晴らしいので、何度も見返してしまう。
音楽関係は後程まとめるので、そちらを参照いただきたい。
あまりに惚れ惚れ観てしまうので、肩のタトゥーはさすがに気づけやくらいしかツッコミが浮かばない。
「バーフバリ」において登場する女性たちは皆強い存在として描かれる。
後編ではメインとして描かれるデーヴァセーナ役のアヌシュカ・シェッティもとんでもない美人であるが、個人的にタマンナーの魅力が強すぎて、後編を見ながら「タマンナー出て来んなぁ」と思ってしまっていたのだ。
この記事もタマンナーの画像をひたすら貼るだけでお茶を濁して終えたい気持ち、これからの人生をタマンナーに捧げたい気持ちでいっぱいであるが、まだまだ記事は続いていく。
とりあえずあと3枚だけ画像を貼っておこう。
カッタッパはなぜバーフバリを刺したのか
「バーフバリ」のキャラクターたちは観た者誰もが、心を奪われてしまうキャラクターばかりである。
↑に挙げた「お祝いだ!」オジサンだけでも一万字書けそうだし、1人ひとりのキャラクターを語り始めれば何万字あってもキリがない。
正直魅力的でなくて残念だったキャラクターはカーラケーヤ(蛮族)のボスくらいなものである。
あまりに噛ませすぎる。前編はこのボスがもっと魅力的であれば更に加点だった。といっても5億点が5億2000点になるくらいなものだが。
それでも短いながらにインパクトはあるキャラだった。それだけに、ということだ。
主要キャラクターの中でも誰もが印象に残る重要な役割を担うのが、カッタッパである。
生誕から見守り、バーフバリにとっては父親のような存在である。
そんな彼だからこそ、前編最後に明かされる真相はあまりに残酷な現実だ。
「バーフバリを殺害したのはカッタッパである」これがクリフハンガーとして後編の物語の求心力を強めている。
しかし、真相を知りたいと思いながらも、1点の悲劇へと向かうそれは、"本来の王"の死へとも向かうのである。
劇中でも度々語られている通り、カッタッパは奴隷の身分である。
だからこそ、本来であればこれほど宮廷から求められる存在ではないはずだ。
だがカッタッパはその強き”忠誠心”と剣の腕によって、信頼を得ている。
現に劇中でカッタッパが「奴隷の身分なのに……」と語る場面でも、それが謙遜に見えてしまうくらい王族と奴隷のようには見えない描き方がされている。
しかし、この世界においての階級は絶対的なものだ。
シヴァガミによる「お前が殺すか、私が殺すか」という問い掛け、絶対的なる命令。
あれほどに心酔していたバーフバリにカッタッパは剣を突き刺す。
それは絶対的なる王族の命令でもあり、バーフバリは王となれなかった存在だからだ。
バーフバリにどれだけ民衆が声を上げようと、願おうと、覆すことのできない存在が王なのだ。
バーフバリによって”王の力の絶対性”が描かれているからこそ、その力が己に刃向かうアイロニーの構造となるのだ。
その”不条理”ともいえる決断、カッタッパの心情を思うほど苦しくなる。だからこそ、シヴァガミに肉迫するカッタッパに涙してしまうのだ。
クマラ・ヴァルマという男
デーヴァセーナの従兄クマラ・ヴァルマもまた魅力的なキャラクターだ。
僕は「バーフバリ 王の凱旋」において最も胸を熱くされ、泣いてしまったシーンは他ならない、クマラのエピソードとその最期なのである。
クンタラの王族として、決して彼は強き存在としては描かれない。
最初はクマラは完全なるコメディリーフとして登場する。日本だったら絶対大泉洋である。
しかし王宮が山賊に襲われた際にバーフバリの「国民を守るのが王族の務め」という叱咤によって、本当の戦士として目覚める。
圧倒的戦闘強者が多い物語の中で、こうして戦士として目覚める男というのは、とても感情移入しやすい。マンガ『キングダム』の壁(へき)に近い。
弱気ものが見せる強さ、そこにまた物語のカタルシスが宿る。
その最期はとても胸に迫るもので、バーフバリのため王宮に先入し、敵を討とうとして死するクマラの姿は、真の戦士であり勇者である。
後編も何度も見返したいが、このシーンだけは観るのは、辛い。
バーフバリこそが英雄とされる物語だが、誰しもが英雄としての要素を供えているのが登場人物たちの魅力に繋がっているのだろう。
武具
バーフバリには数多くの武器や兵器が登場する。剣や弓矢、槍のような普遍的なものから、みんな大好き回転刃付き戦車のようなマッドマックス感溢れる奇抜なものまで様々である。
デーヴァセーナを鎖に繋ぐことにこだわったバラーラデーヴァが、バーフバリが手に巻き付けた鎖でぶん殴られるシーンなんてなんて皮肉が効いていて爽快だろうか。
カーラケーヤとの戦闘もそうだが、バーフバリは戦局において、武器が不利になっているシーンが多い。
バラーラデーヴァがそんな殺戮戦車や伸縮自在のモーニングスターを使う。
それに対してバーフバリが使う武器といえば角に火を着けた牛で突進である。そこからのダム決壊による洪水で敵を一網打尽、お見事。
他にも手近にあるもの、椰子の木や雪や敵の武器を使用したりして、難局を乗り越えていく。
戦闘シーンが多い中でもこうした武器の工夫が毎回凝っているので、見ていても飽きないどころか「さぁ、次は何を武器にするんだ」と楽しみになってしまう。
人間盾砲弾なんてギャグすれすれでギャグになってるけど、あのビジュアルを見て、思わずレオナルド・ダ・ヴィンチの戦車を思い出してしまったり。
↑装甲が似てる
その他、誰しもを魅了した廊下にでの弓矢での戦闘。
三本矢を放つためのレクチャーをしているだけなのに、なんてエレガントで美しいシーンになっているのだろう。
ここでバーフバリとデーヴァセーナはひとつになる、つまりはセックスのメタファともいえるシーンとなっている。だからこそ2人の姿はどこまでもロマンチックに映えるのだ。
人に向けて矢を放ちまくって殺してるのに、恋愛をとても官能的に魅せるっていう、とんでもないバランスになっている。
とりあえず若手俳優の登竜門とかいって、適当なマンガを拾って、売り出したい俳優と女優を並べ、適当な恋愛映画を創っているスーツ野郎(業界人)たちは三本矢で全員射抜いてもらいたい。
音楽
上でも触れているとおり、この映画はインドの作品らしく合間にミュージカルシーンが挟まる。
そこで当たり前だが重要なのが「音楽」である。
この音楽が前後編通してあまりに見事なのだ。
曲の良さ、歌詞、どれを取っても練り込まれ優れている。
全曲紹介したいが、本当に終わらなくなるので、抜粋して紹介しよう。
まずはMVがそのまま劇中の映像になっている滝登りのシーンで使われる"Dhivara"である。
もう、これプログレだよねってくら展開が凄い。「ライオンキング」を彷彿とさせる大地を感じる力強さとエキゾチックさを兼ね備えた音楽。
そして僕が見る度に「タマンナーい」と声に出してしまう"Pacha Bottasi"。
この2曲だけでも僕は生きていける。
映画のシーンだけど、MVとしても完璧と云える仕上がりだ。
こちらは「バーフバリ 王の凱旋」のオープニングを飾る"Oka Praanam"。
1作目のあらすじを追う内容だが、重厚なストリングスと合唱がとても良いので聞き入ってしまう。
後編のラブシーン。
この段階に来ると船が飛ぶということすら、全く違和感無く、むしろ圧倒されてしまう。
"Dandaalayyaa"
王を称えよ
映画を観る喜び
どうしても『指輪物語』(ロード・オブ・ザ・リング)との共通項を書きたくなる。
普遍的な英雄譚であるので似通う部分があるという前提ではあるが、やはりクライマックスで腐りきった現政権を滅ぼし、放浪していた王がその玉座に戻るというラストは重ねざるを得ない。
しかしながら映画「ロード・オブ・ザ・リング」と異なる点はバーフバリの能力がアラゴルンとレゴラスとギムリを足したような強さであることだろう。
なんならそれに「300(スリーハンドレッド)」のレオニダスを足してもいい。
剣、弓、力どれを取ってもそれぞれのキャラクターと比べて見劣りしない。
そう考えるとバーフバリ強すぎる。さすが、我が王。
「似ている」と感じた部分が「初めて観たときの感動」なのだ。
壮大な映像美、そして英雄譚。
「映画を観ることの喜び」をこんなにもくれる作品、それこそが「バーフバリ」である。
日本では「カメラを止めるな!」が全く違う角度からそれを思い起こさせてくれた。
初めて「ジュラシック・パーク」を観たときの純粋なる感動、それが再び甦ってくる。
その上で2年前に「マッドマックス 怒りのデスロード」に、「シンゴジラ」に、「この世界の片隅に」で僕らが感動させられた喜び、まだ映画は終わってない。まさに「Show must go on」だ。
「バーフバリ」が世界を熱狂させたのは普遍的なストーリーをこれだけの規模の演出で表現しきった点にある。
だからこそ、これだけ宗教を感じさせる作品でありながら、世界に届いたのだ。
最初の問いの答えである。
その”感動”があまりに強いものになったとき、人は何を感じるだろう。
それは「生きる喜びを噛みしめるため」ではないだろうか。
そんな映画に出会えたことに、喜びを抱き、僕はまた言ってしまう。
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