ピクサーの猛攻が止まらない。
日本では今年に入ってから公開された「リメンバー・ミー」のヒット、そして夏休み映画として公開された「インクレディブル・ファミリー」は興行収入40億円を超えるヒットとなっている。
新作、続編という公開が続く中でも、毎回クオリティを上げ続ける姿勢には驚くばかりである。
何よりも恐ろしいところは、作品に込められたメッセージ性が近年でさらに深く強烈なものとなっていることに他ならない。
たとえば「ファインディング・ドリー」では障害について扱っていながらも、全世界、全人類が楽しめる内容になっている。
そして「インクレディブル・ファミリー」である。
夏休み映画として、娯楽作品としても超一級のクオリティでありながら、監督・脚本のブラッド・バードはそこにとんでもない問い掛けを含めているのだ。
それを中心に見ていきたい。
あらすじ
悪と戦い、人々を守ってきたヒーローたち。だが、その驚異的なパワーに非難の声が高まり、彼らはその活動を禁じられていた------。
そんなある日、かつてヒーロー界のスターだったボブとその家族のもとに、復活をかけたミッションが舞い込む。だがミッションを任されたのは――なんと妻のヘレンだった!留守を預かることになった伝説の元ヒーロー、ボブは、慣れない家事・育児に悪戦苦闘。しかも、赤ちゃんジャック・ジャックの驚きのスーパーパワーが覚醒し・・・。
一方、ミッション遂行中のヘレンは“ある事件”と遭遇する。そこには、全世界を恐怖に陥れる陰謀が!ヘレンの身にも危険が迫る!果たして、ボブたちヒーロー家族と世界の運命は!?
短編「bao」
まず最初に同時上映となった短編「bao」について。
この短編がもうシャレにならない。
ピクサーの短編の特徴「言葉を用いない」作品である。
短い短編で、言葉を用いずに世界中の人を魅了させる。ピクサー前作の「リメンバー・ミー」は何故かアナと雪の女王のスピンオフになっていたので、少し残念だったが、この短編を毎回楽しみにしてしまう。
今回ピクサーでは初めてドミー・シーという女性監督が起用されている。
ドミー・シーさんはこんな感じの方。
凛としてカッコイイ方ですね。
中華まんに命が宿り、それを育てるというとんでもないストーリーである。
しかし「子育て」における苦悩が見事に描かれ、最後にはしっかり感動させられ、しかもそれが「インクレディブル・ファミリー」とのテーマとも繋がるという離れ業を決めてのけるのだ。
テーマとしては所謂「親不孝もの」ジャンルのエピソードで、こうしたことに心が動かされるのは万国共通なのだなと思ってしまう。
今までの短編の中では「ベイマックス」との同時上映「愛犬とごちそう」がフェイバリットだったが、「バオ」もまた大切な作品となった。
ここからは「インクレディブル・ファミリー」の感想に移るが、作品のあらすじやキャラクターの魅力などは、他に書いているブログがたくさんあるので、僕は作品のテーマについて深く掘り下げたい。
なので「作品のテーマがよくわからなかった」「テーマが薄かった」と思ったような方は是非読んでいただきたい。
ポルノファンの方はあの曲と重ねざるを得ないので、そこら辺も交えて書いていきたい。
表テーマ①「家族」
まず作品の中でメインとなるテーマが「家族」である。
ボブ(Mr.インクレディブル)はヒーローとしての、父親としての、家族としての尊厳を取り戻そうと悪戦苦闘する。
妻のヘレン(イラスティガール)の代わりに子どもたちの面倒をみるが、思春期真っ盛りのヴァイオレット、ヤンチャ盛りのダッシュ、そして今作で17種類ものパワーが覚醒するジャック・ジャック。
言うまでもないがイラスティガールの活躍は女性の社会進出を表している。ここ数年ディズニーがひた向きに描き続けてきた「強き女性」を象徴するように。
父親として家事と育児に励むボブだが、なかなか思うようにはいかない。
その姿は阿部寛が主夫として悪戦苦闘するドラマ「アットホーム・ダッド」を思い起こさせる。
大好きなドラマ。
世界のヒーローであるとともに、父親としてのヒーローでもいなければならない。
その狭間でボブは思い悩むことになる。
家族のシーンで強調されるのは「スーパーヒーローであっても普通の生活を送っている」というメッセージだ。
たとえばダッシュが算数の宿題に苦戦しているときにボブが手伝おうとするが「昔とやり方が違う!」と嘆く。
これもヒーローとしての在り方が昔と異なるってことを暗示している。
そつがなさすぎる。
表テーマ②「ヒーロー」
そしてもうひとつ大きな軸となるのが「ヒーロー」とはなんなのかというテーマだ。
冒頭のシークエンスで最終的に街を救いながらも、街の破壊の是非を問われるパー一家。これはアベンジャーズシリーズの「シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ」で描かれてテーマでもある。
ヒーローの必要性を問い掛ける内容だ。
そんなテーマの悪役として登場するスクリーンスレイヴァーことイヴリン・ディーバー。
彼女の動機がそのまま直接的にテーマとメッセージにも直結している。
テクノロジーに依存し、人は考えることをやめてしまう。
ヒーローがいるから、人は強くなろうとしない
そんな考えから、イヴリンはスクリーンスレイヴァーとなるのだ。一作目が公開された14年前であれば、その言葉への説得力をどれだけ持たせることができただろうか。
テクノロジーは14年の間に目覚まし進歩を遂げた。今やテクノロジーに依存せずに生きていくことなど不可能である。スクリーンスレイヴァー(スクリーンの奴隷)、その正体はイヴリンであっても、その言葉はイヴリンを示してはいない。
分かりやすいほど単純にスクリーンを覗いた人間たちは操られて、破壊的な行動に出た。これも言うまでもないだろう。
ネットがもたらした功罪。日本だけでも一億総監視社会と呼ばれる社会。或いはメディアのもたらす功罪。
画面に踊らされる僕らの世界。
スクリーンの影響で発生する暴力、それは決して非現実ではない。
そしてヒーロー。
ポルノグラフィティに"ラスト オブ ヒーロー"という曲がある。
アルバム曲なので、分からないという方も多いと思うので説明しよう。ポルノグラフィティが2002年にリリースした「雲をも掴む民」というアルバムに収録されている曲だ。
この曲で描いているテーマがまさに「ヒーローの最期」なのである。
この曲の主人公である“ヒーロー”はすべてに嫌気が差し、街を去る。
歌詞を引用する。
ヒーローへ誰かが問い掛けるシーンだ。
「ねぇヒーローそんな事言わず闘っていてよ
みんなの幸せ誰が守ってくれるの?」
そう言うならお前が闘え 人様に頼るんじゃねぇ
さらにヒーローは痛烈に告げる。
ただ諦め その向こうで指をくわえている奴を
身を呈して 守ってやったりしない お話にもならない
これだけは言っておこう 俺はモンスターに負けたんじゃない
「ヒーローがいるから人々は強くなろうとしない」
このイヴリンの言葉に、映画では答えを示さない。これこそがあまりに強烈で皮肉な問い掛けとなっているのだ。
この問いはヒーローが解決してくれるものではない、自分自身で答えを見つけなければならない。
イヴリンを本当に悪人としてだけ見れるだろうか。
映画を見た者にはそう思えない者も多いのではないか。
では逆に映画の中の人々に、イヴリンはどう映るだろう?
その行く末を暗示しているのが、イヴリンによって誤認逮捕されたピザ配達人である。誰しもがスクリーンスレイヴァーとしてピザ配達人を犯人に仕立て上げた。
その動機は決して報道されないだろう。
ただ、淡々とテロリストとして逮捕されたというニュースが流れるばかりではないか。
日常流れ続けるスクリーン、そこに本当の真実は映っているだろうか。
本当の“悪”とは、なんだろうか。
折しもディズニーが権利を獲得したアベンジャーズシリーズをはじめとしたMCU作品で、ありとあらゆるヒーロー像が描かれている。
だからこそ、今あらためてヒーローとは何かを問い掛ける「インクレディブル・ファミリー」という作品で非常にアイロニックに描くという、とんでもないことをやっている。
好きなドイツの諺(ことわざ)を紹介しよう。
「地獄への道は善意で舗装されている」
ブラッド・バードの一貫した裏テーマ
僕が今回特に言及したい内容について、ブラッド・バードという人の作家性を念頭に置いていただきたい。
ブラッド・バードは「アイアン・ジャイアント」で初監督デビュー。そして前作となる「Mr.インクレディブル」を監督する。その後もピクサー作品「レミーのおいしいレストラン」の監督をつとめる。
実写映画においても「ミッション:インポッシブル/ゴースト・プロトコル」をヒットさせる。
そんなブラッド・バードだが、作品にはどれも一貫したテーマがある。それが。
資質・才能を持っている人は必ずそれを活かさなければならないし、報われるべきだ。
というものだ。
これは映画「トゥモローランド」についてライムスターの宇多丸氏が言及した内容である。
「トゥモローランド」はディズニー制作、ブラッド・バード監督でありながら、評価はあまり芳しくない。
しかし、一部の人たちからは強く支持されている。
それは「トゥモローランド」という作品が徹底的に“選ばれた者”についての映画だからではないだろうか。
僕はここでの“選ばれた”というのは「夢を諦めない力を持つ者」だと捉えている。つまり選民思考と言えば怖くは響いてしまうが「夢もなく生きている人間」に未来はないというメッセージとも取れる。
上のメッセージの言葉を変えれば「夢のために努力して頑張っている人たちはみんな認めなければいけないし、報われるような世界でなければならない」ということではないか。
映画の中でヴァイオレットに告白するトニーは、あくまでも普通の人間として登場する。つまり“持たざる者”でもあるのだ。
そんなトニーが記憶を消され、思い出す兆しもないまま、“持つ者”であるヴァイオレットから逆に迫るという展開は、それを思うととても皮肉が効いている。
そして、だからこそヴァイオレットは最後で映画よりもヒーローを優先した。それは、それこそが「才能を活かさなければならない」というメッセージを体言している。
ここまで紹介したとおり、勧善懲悪に見えるストーリーのあちこちに密かに毒を忍ばせている、そんな作品が「インクレディブル・ファミリー」である、僕はそう思えて仕方ない。
だってブラッド・バードなんだから。かつて「ザ・シンプソンズ」に携わった人間が最も得意とするやり方ではないか。
日頃コンテンツを消化することしかしない、惰気満満(だきまんまん)な僕のような人間にはあまりに痛烈なメッセージとして突き刺さる。
夏休み映画にこんなメッセージ入れてしまうブラッド・バードに戦々恐々だ。
まぁ、夏休み終わったけどな!
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