2019年1月16日水曜日

3人のポルノグラフィティを見たいという祈りに似た願い







祈りと願いは似て非なる。


祈りとは他の幸せを願い見返りを求めないもの
願いは自分の想いを届け見返りを求めるものである。


何度かこのブログには書いたことがある。

僕は、3人のポルノグラフィティが見れていないことが、トラウマ、或いはコンプレックスとも言えるほど、悔いている。

この度あらためて、その気持ちがコップを溢れてしまったので、それをここに慚愧の念として、ここに記したい。







3人と2人




ポルノグラフィティを好きになった時に、そこに3人の姿があった。

それが当たり前だと思っていて、それがずっと続くと思っていて。

しかし。それはずっと続くことはなかった。

僕が初めて生で見たポルノグラフィティは2人になっていた。

それでも。それからの2人は1人欠けた穴を埋めるため、懸命にポルノグラフィティは戦ってきて。その姿は、幼き僕に衝撃を与えた。それ以来、僕はずっとポルノグラフィティのライヴに魅せられてばかりだ。

現在のポルノグラフィティは、当時の自分では考えられないくらい進化をしていて、これだけ歳を重ねた自分を驚かせてくれる。


『ギターマガジン 別冊俺』こと、『新藤晴一 ポルノグラフィティ (GUITAR MAGAZINE SPECIAL ARTIST SERIES)』






そのインタビューは、因島時代から未来までを語るものだった。

だから、そこでは当たり前のように『Tama』という名前が出てくる。昨年の「しまなみロマンスポルノ」でも当たり前のように「その時はTamaもおって」と岡野昭仁は語った。

20年という節目に向かい、また過去を振り返ることが増えてくることだろう。

普通に名前が出ることが嬉しくて、どこかホッとさせられて。

当たり前だ。別に喧嘩別れしたわけではない。
メンバーにとって変わらない大切な存在だ。

それは、ファンにとっても。









ベーシスト








そんな想いを抱えているうちに、久しぶりにベーシストとして帰ってくるという報が届いた。

感情はよくコップに入れられた水に例えられる。
縁にギリギリたまった水が、一滴の水で決壊してしまうように。

いや、そんなものではなかった。自分でも驚くほど、想いは大きかった。


やなわらばーのアルバムに参加して、そのコメントで久しぶりに見せるベースを持った姿。







僕のコップに、決壊したダムから水が降り注いだ。

確かに、本間さんが度々Tamaの姿をアップしてくれてはいた。しかし、ミュージシャンとしての彼の姿を見たのはいつ以来だろう。

コメントと、そんなに大きくない写真が1枚。たったそれだけで、感情はコントロールを失った。


白玉雅己というベーシストの回帰は、僕のワガママな感情に再び火を着けてしまったのだ。




祈りと願い




いつも、心の片隅で期待してしまう自分がいる。

たとえば、「FANCLUB UNDERWORLD 5」ではアルバム「ロマンチスト・エゴイスト」の全曲ライヴがテーマとなった。
そんなコンセプトだから、少し期待してしまって。

それ以外にもアニバーサリーとかそういうことの度に、ほんの少しでも「もしかしたら」を考えてしまう。

人は後悔をしながら生きていく。それは後悔を償うように。
過去は決して戻ることはない。だから、今この瞬間を後悔しないために、僕らは懸命に命を燃やすのかもしれない。

どこかで「サプライズ」を待っている自分がいて。


それでも、わかっている。


だって、あの人がどれくらい自分の決断を貫く性格なのか、よく知ってるから。あの人、頑固だもん。

離れるという決断は、僕なんかが語っていいほど生易しいものではないのだ。

だけど、それでも僕は願ってしまう。

そうなったとしても、誰も非難なんてしない。

みんな、あなたのことが好きなんだから。


だからたった一度だけでもいい。

もしかしたら、僕はそうして償いたいのかもしれない。誰に対してでも、何のためでもない。

それは祈りのようで、願いなのだ。

しかし、願うだけでもいいではないか。


たとえ、そこが星降る夜空の下ではなくたって。

本当の気持ちを言葉にさせてしまった。



最後にはポルノグラフィティに帰ってきてしまう
明日ポルノグラフィティが解散しても幸せといえますか
岡野昭仁の歌詞間違えが生み出したミラクルな歌詞



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