星野源の曲は日常を歌う。
ここ最近は歌詞に意味やメッセージを込めることを減らしてきてはいるが、それでも日々の延長線に活きている歌詞なのだ。
これほど淡々と生活を歌うアーティストは、実はそんなにいないのではないだろうか。
ということで、ここであらためて星野源の歌詞世界を見つめ直してみたい。
いつかなにも 覚えていなくなるように
飯を食べて 幸せだなどとほざくだろう
"キッチン"
いなくなった相手、そして取り残された者。
まるで時が止まってしまったような時間であるが、決して時間が止まることはない。
たとえ今がどんなに辛くとも時は進む。そしていつかそれすらも忘れて飯を食べる時がくる。それこそが人生なのだ。
実は限りなく人物像を曲中で描いていなくて、年齢も性別も示すものはない。それでもそこに描かれている生活の後で漠然と関係性や映像が浮かび上がるというバランス感覚が絶妙である。
そして、このバランス感覚があるからこそ、普遍的に人の心へ響く曲となっている。
おじいさんは 歩いてゆく
おばあさんの 好きな場所
"老夫婦"
1stアルバム「ばかのうた」と2ndアルバム「エピソード」では死が時折顔を見せる。
生まれて来なかった兄妹や、焼き場の話、お墓参りの歌。
詞の世界において死を扱うことはとても尊いものとされる風潮がある。もちろん命を扱うのだから当然そうなることはおかしくない。
しかしながら星野源の歌う死は生活の延長に続く、ある種、誰しもに必ずやってくるものなのに見て見ぬ振りをしているものである。
間違いなく生活の一部として続くことである。
寂しいのは生きていても
ああ 死んでいても
同じことさその手貸して
まだ歩けるか
"知らない"
この曲が発表されて、初めて聴いたとき、星野源にとってとても重要な一曲になると感じた。
何に対してかは分からないが、これをシングルとしてリリースできることへの強みを感じた。
"あるショックな出来事"を歌詞にしたものが"知らない"の詞となったという。シングルの初回限定版DVDで歌詞を生み出すことに苦悩する姿が映っている。
あくまでもフィクションの中で描かれてきた死がここで現実として向き合うものとなった。ここで初期の星野源が持っていた死生感が極まったと思えたのだ。
真っ向から死と向き合った描かれた言葉、それでも生活に根付いている言葉であった。たとえその人が死にいなくなったとしても、残すものはある、そして残された者の生活は続いていく。
何度も何度もなぜ うずくまる
何度も何度も見た 頬の雨がある
何度も何度も言うよ 始めから
たった一つだけを君は持っている
"未来"
僕が星野源の曲で一番好きな曲はなんだろうと考えると"フィルム"か"知らない"か、もしくは"未来"である。どれが一番好きかは聴く時々によって変化はするが、この3曲は特別である。
"未来"は東日本の震災後初めて書いた曲だという。
先の"キッチン"のように、どんなに辛いことがあっても、今日は終わり未来(明日)は生まれる。
"たった一つだけ"とは何だろうとずっと考えていた。
考えて行き着いたのは"命"であった。
日々は動き 今が生まれる
暗い部屋でも 進む進む
僕はそこでずっと歌っているさ
へたな声を上げて
"日常"
星野源の描く日常について見てきたが、最後にまさに"日常"をタイトルに冠した曲で終わりたい。
ここまで何曲かピックアップしてきたが。どれしもに書いたが"それでも日常は続く"というものが星野源の歌詞には宿っている。
よく音楽は日常を彩るものとされる。音楽を信じている人間にはあたかもそれが魔法のように。
だが、星野源の曲にはある意味魔法は宿っていない。逆説的だが、だからこそ特別なのではないだろうか。
日々に歌は寄り添っている。日々はそれでも続いていく。
明日はまた生まれる。
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