2018年7月18日水曜日

プッシー・ライオットによるワールドカップ決勝乱入について報道に憤りを感じている






先に断りを書いておかなければならないが、今回の記事はプッシー・ライオットの起こしたワールドカップ乱入事件を賞賛するようなものではない。

僕もサッカーファンなので、スポーツの世界的祭典と政治利用は切り離されるべきであると思っている。

同時にプッシー・ライオットの主張に賛同するものでもないことを断っておく。

それを持って有り余るほど、日本メディアでの取り扱いに憤りを感じたので、ここに記したい。






プッシー・ライオット乱入の経緯





なぜ憤りを感じているのか、それはメディアがプッシー・ライオットの乱入を、珍事として扱っているからである。

報道を見ても、なぜワールドカップ決勝だったか、なぜロシアの警察官の服装だったのか、そこへの言及がなかった。

あれではロシアの反政府活動家がワールドカップ決勝の注目を狙って警官のコスプレで乱入したという印象にならないのではないだろうか。

それを特集として取り上げているのだから、呆れてものが言えない。と言ってられなくて、だからこそ言わなくてはいけない。

今回の乱入の目的をハッキリさせよう。


なぜワールドカップ決勝だったのか。


報道では、ワールドカップ決勝で世界の注目があり、プーチン大統領が観戦に来ていたからとある。
もちろんその意図もあるだろう。しかし、それよりも日付なのだ。

7月16日というのは、ソ連時代の詩人ドミトリー・プリゴフの命日である。

これ、調べることでもなんでもなくて、今回の事件の声明文に真っ先に出ていることである。

声明文全文を引用しよう。


・プッシー・ライオットがFIFAワールドカップ決勝に登場!「警察官、試合に出場する」

今日はロシアの偉大なる詩人、ドミトリー・プリゴフの11年目の命日にあたる。プリゴフは現代のロシア社会における警察官の姿を、理想国家のメッセンジャーとして描いた。

プリゴフによれば、理想的な警察官は神と以心伝心である一方、世俗的な警察官はデモ行進を解散させようと待ち構える。理想的な警察官は野の花にやさしく触れ、ロシアのサッカーチームが勝利を収めるのを温かく見守るが、世俗的な警察官はオレグ・センツォフのハンガーストライキに無関心だ。理想的な警察官は国民のよき手本であるが、世俗的な警察官は人々を傷つける。

理想的な警察官は赤子の眠りを守ろうとするが、世俗的な警察官は政治活動家らを起訴し、「リポスト」または「いいね」の罪で彼らを拘束する。

理想的な警察官はワールドカップという素晴らしき祭典を実行するが、世俗的な警察官はお祭り騒ぎを恐れる。理想的な警察官はつねに試合のルールに従おうと努めるが、世俗的な警察官はルールのことなどお構いなしに、試合に割り込んでくる。

FIFAワールドカップは、私たちに、偉大なロシアにおいて理想的な警察官が存在しうることを示唆した。だが同時に、世俗的な警察官はルール無用の試合に乱入し、私たちの世界を分断する。

世俗的な警察官が試合に割り込むとき、我々は以下の事柄を要求する:
1. 全ての政治犯を解放すること
2. 「いいね」の罪で拘束しないこと
3. デモ行進中に不法に逮捕しないこと
4. 国内での自由な政治競争を容認すること
5. 罪状をでっちあげ、理由なく収監しないこと
6. 世俗的な警察官を、理想的な警察官に変えること


これのうちの6を示している。

主張の正誤ということよりも、この主張こそは報道されるべきではないだろうか。

理由を考えてみたときに、

①報道側が意図を理解していない
②視聴者が理解できないと思って報道しない
③そのまま報道しても面白くないから報道しない

辺りではないかと思う。

①はまずないだろう。それだったら乱入どころの騒ぎではない。
まぁ、毎日新聞が最初「男女4人が乱入」と報じて、後に記事を取り下げているが、決して①ということは、まさかないだろう。

②と③が背景にはありそうだ。

③ならばまず報道としての姿勢に疑問しかないうえ、②なら視聴者をバカにしている。
最近②が透けて見えているので、テレビをあまり見なくなったものだが。









手のひら









先にも書いたとおり、今回の事件はサッカーを愛するものへの侮辱とも言える許せれざる行為だ。
せめてハーフタイム、というか外でやれとか、お前ら一応なりともミュージシャンなんだから音楽で主張しろやとか色々ある。


しかしながら、裏を返せばそこまでしなければないらない状況になっているということである。間違いなく彼女たちは命懸けでこの行為を行った、それも笑顔で。この恐ろしさ、日本の報道を見てどれだけの人に伝わったのだろうか。
少なくともふざけているわけでも、面白がっているわけでもない。

それを珍事かのように報じているのは、メディアとして如何に愚行であるか、学ぶべき事例ではないか。

めざましテレビで「どうやってピッチまで乱入したのか検証しました」とか莫迦みたいな放送をしていていて、思わず溜め息すら出る。
そんな不毛なことを話題にするなら、他にあるだろう。


この問題、実際にネット上だとかなり論争になっている。
政治的主張への賛辞、ワールドカップ決勝という舞台を台無しにしたことへの怒り、右も左も。

何が正しいとかじゃないんだよね。

こうなった時点でプッシー・ライオットの目論み通りだ。

飛び交う主義主張。

悲しいかな、 このような状況でなければどれだけの人が注目していただろう。
上で外で音楽で主張しろとは書いたけど、それで世界に論争を起こせるだろうか。残念ながら音楽そんな力もないことも事実で。

それほど世界は"取り返しのつかないところ"まで来ているのだ。

これは珍事でも何でもない。

だからこそ、僕は本当に許せない今回の行いを、それでも、悲しいという気持ちにさせられてしまうのだろうか。


「音楽に政治を持ち込むな」~ミュージシャンは主張をするべきか


戦争やテロから生まれた音楽に感動させられること ジョン・レノンのimagineは永遠の名曲になってしまうのか















このエントリーをはてなブックマークに追加
 

0 件のコメント:

コメントを投稿