2022年3月11日金曜日

ポルノグラフィティ"空蝉"歌詞解釈







ろくに更新もしないくせにたまにエゴサをするのですが、ポルノグラフィティの"空蝉"について歌詞解釈をという話を見かけた。

酔った勢いで「やります」と言ったので、やります。
※こういうのとてもありがたいです


ちょうどアルバム「PORNO GRAFFITTI」のことを書かなければいけないタイミングで、岡野さんの歌詞の中でも好きな部類の歌詞なので、この機会に考えてみようと思う。

暗い話題が多いので、楽しい空想と明るい妄想が世界を包みますように。





空蝉について




作詞作曲は岡野昭仁。
"東京ランドスケープ"を思わせる緩急をつけた曲が特徴的だ。

ソリッドでカッコイイロックから艶やかでゆったりとしたサビになるアレンジが最高だ。

こういうサビで落ちサビ的になるアレンジが好物なので、いいぞもっとやれ。

これは妄想になるのだが(ていうかこのブログは全て妄想)、こういった楽曲はヴォーカリストとして、とてもチャレンジで楽しい曲なのかもしれない。

それだけに今の岡野昭仁か歌ったらどうなるかという点も気になる曲だ。

僕はこのアルバムのツアーは参戦していないので生で聴いたことはない。とりあえず、聴かせて。

歌詞としては少し古めかしい言葉遣いが印象的な楽曲だけに、艶かしい印象が強い。
その辺りの要因の考察は後述する。


そもそも「空蝉」とはなにか。

そのままの文字面をとれば「蝉の脱け殻」であるとも呼べるが、「空蝉」には他にも意味がある。

古語である「現人」(うつしおみ)が訛ったものともされている。これは「生きている人間」「現世」を表す。

僕がよく書いているものに「新藤晴一は未来を描き、岡野昭仁は今を書く」というものがある。

岡野昭仁はヴォーカリストとして"今"を切り取ることを大切にしている。一方で新藤晴一は僕らの一歩先の未来を見ている。だからこそポルノグラフィティは全方位に僕らに逃げ場を与えてくれない。


歌詞の話に戻ろう。

身も蓋もないことをいえば"空蝉"は「行為」を描いている曲だ。新藤晴一が描いた"Jazz up"や"まほろば◯△"と近しいものだ。

しかしながら新藤晴一が書く"行為"はどちらかというと概念的な意味合いが強く、"行為"を通して心と心を通わせるという印象だ。一方で岡野昭仁の描く"行為"は、"愛なき…"や"デザイア"などにも代表されるように動物的な肉体と肉体のぶつけ合いを書いている印象だ。

精神的、肉体的どちらも満たされる。これもポルノグラフィティの楽曲の多様性を生み出す魅力のひとつだ。マジで逃げ場がない。

獣のように欲望のまま"交わる"2人。


欲という名のローションを全身に浴びて
摩擦させる身体の音を聞く


というフレーズがいい。

感情さえも、理屈さえも飛び越して、2人は繋がっている。

一晩の情事に馳せる"まほろば◯△"のような時間の流れとは違い、"今この時"に全てを委ねているのだ。この瞬間的な描写が岡野昭仁らしい。

空蝉が示す脱け殻とはつまり、放心した(云わば賢者タイム的な?)状態でもあれば、過去の自分から脱皮したという解脱的な側面も含んでいると思う。

人として誉められたものかどうかはさておき、理性という歯止めの鎖を千切るほどの欲を獲た出会いだからこそ、嘘偽りのない感情がそこに宿る。

あと脱け殻と聞くと、どうしても大好きな『抜け殻の君など見たくないけれど君の抜け殻なら見てみたい』という短歌を思い出す(詳しくは昔の記事で)

そしてもうひとつ、"空蝉"の歌詞を解釈するならば、自分は空蝉こそ中身のない「空虚」な存在というミーニングもあると思っている。

空っぽな存在だからこそ今に溺れる、そんなイメージも抱いている。


といいながら、実は自分の中で"空蝉"が表すものに明確なイメージを与えているであろう作品がある。では、核心に触れよう。

それは。




空蝉とは





「空蝉の 身をかへてける 木のもとに なほ人がらの なつかしきかな」


これは『源氏物語』に登場する和歌だ。


『蝉が殻を脱ぐように、衣を脱ぎ捨てて逃げ去っていったあなたですが、やはり人柄が懐かしく思われます』

※すみません拾いものの訳です


という意味合いだ。つまりは夜這いをかけたが、あなたは衣一枚を残して(空蝉の意)去ったことを意味して、同時に光源氏は空蝉によって「魂が抜かれてしまった状態」になったとされる。

ちなみに僕はそこまで『源氏物語』に明るくないので、詳しい方はもっと深掘りできるかもしれない。


夜はおぼろげ うるわしき声 空蝉模様
やわらかな肌 しとやかに触れ この時を濡らす何度でも


"空蝉"の歌詞に出る「空蝉模様」とは主人公にとって空蝉のような存在、それほど心を奪われたヒトと交わる、それほどの想いを主人公は抱いているとも読み取れる。

そして最初に書いた「生きている人間(現世)」にとっての"空蝉"的な存在と出逢った物語とも取れるのだ。

弄び、玩ばれ、裏腹も全て真実として。


始まりも終わりもない二人に
どんな手を差し伸べて救い出す?


「始まりも終わりもない」という言葉はどうしても"Montage"を彷彿とさせるが、これはどちらかが想いを割りきれずに続きを想像してしまう世界ではないかと思う。

"デザイア"とかと少し違うのは、肉体的な交わりでありながらも、主人公の視点はどこか第三者的なものであるという点だ。

「Why did you say?」「Why did you know?」という問い掛けにもそれが表れている。

どうしてそういった描写なのかと考えてみると、この俯瞰した視点こそ歯止めをかけていた鎖だったのではないかと思う。鎖はちぎれ、身体は君の全てを貪り喰っていた。

服と一緒に脱ぎ捨てた理性は脱け殻となって、求め合う二人を見つめていた。そんな解釈もできるかもしれない。


思いつくままに書いたのでまとわりのない文章になってしまったが(いつものこと)、「空蝉」というものが示すものが、実はこれだけ込められている。

"行為"としての解釈を書いたけど、これって概念的に捉えれば、ライヴだって同じかもしれない。

音と想いをぶつけ合い、ライヴという空間が生み出す欲望を全身に浴びて昂る。そして終わると脱け殻になる。

"空蝉"が収録されたアルバム「PORNO GRAFFITTI」は、「m-CABI」のアルバムツアー中にレコーディングされた。だから、そうしたライヴが生み出すエナジーのようなものも詰まっているのではないかと思う。


ここから余談になるので別に読まなくてもいいです。



からっぽ




書いていて、ゆずの"からっぽ"という曲を思い出した。

思いっきりWikipediaの引用になるが、この曲は「岩沢が女性に告白された時、一度は断ったもののその後その女性を好きになってしまったという思い出を歌った曲である。」という。

そして、こんなフレーズがある。


忘れることなど出来ない僕が今日もここに居るから
君の影をいつもどこか探してる


さっきの光源氏の話にもちょっと通じている気がして。
これって男特有の未練がましい気持ちなのではないかと思う。

(更にものすごい余談の余談だが昔SEKAI NO OWARIの深瀬がゆずと、フジテレビの「僕らの音楽」でこの曲をコラボしてカバーしたのが、最高のアレンジだった)

是非こちらの曲も聴いてみてほしい。


ということで"空蝉"の歌詞について考えてみた。

様々な考察ができる余地がある曲なので、皆様も自分なりの解釈を考えてみてはいかがだろうか。






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