2019年2月7日木曜日

宇多田ヒカル COLORS の歌詞の意味とツアーLaughter in the Darkを繋げたもの








昨年行われた宇多田ヒカルのツアー「Laughter in the Dark」のライヴ映像を見た。

新旧織り混ぜたセットリストは、どこを切り取ってもハイライトと呼べる内容で、充実していた。そこで久しぶりに"COLORS"を聴いて、あらためて感動した。

そこで筆を取った次第である。他にも書きたいことは沢山あったが、今回は"COLORS"の歌詞を見ていきたい。



宇多田ヒカル COLORS の歌詞の意味とツアーLaughter in the Darkを繋げたもの












世界と色









あなたの見ている緑は、果たして僕の見ている緑と同じだろうか。

世界は自分の主観でできている。

平たく言ってしまえば、人は世界を自分の見たいままの姿で見ている。

幸せの渦中にいれば、世界は薔薇色に見えるだろうし、絶望に生きる人には灰色に見えるかもしれない。


「共感覚」という言葉がある。たとえば、音を聴くとその音に色を見る「色聴」、文字を見たときにそこに色を見る「色字」、形を見ると味が浮かぶ、或いは味から形を創造する等、症例様々である。

ある種の脳の病気とも云われているが、日常生活に害はないし、精神異常ではないというのが近年の見解のようだ。


「暖色」「寒色」という言葉がある。オレンジなどの膨張色に暖かみを感じて、青などの色に冷たさを感じる感覚だ。
これも、ひとつの共感覚ではないかと思う。

そうした時に、思うことはオレンジ色=暖かいというのは、自分の精神が色に意味を"無意識に紐付けてしまっているからではないか"ということ。


雨が降ってガッカリする人は多い。

しかし、中には干ばつに苦しみ、雨を待ち望む人もいる。現実、それすらどう受け取るかは、自分の主観による。つまりは自分の主観によって世界を違って見ることができる。


青い空が見えるなら青い傘広げて


心はいつだって自由なのだ。


わざと真っ赤に残したルージュの跡


赤は警告の色、それはなぜだろう。
標識でも赤の色は危険や警告を促す。

若さは自由なのだろうか。何者にも成れる、だからこそ何者にも成れないのが若さということではないだろうか。

そんな誰かの定めた標識は、意味を為さない灰色の存在だ。











絶望のなかに笑い









ライヴの中盤で宇多田ヒカルと又吉直樹の対談映像が流れる。その中でツアーのタイトルである「Laughter in the Dark」に言及するシーンがある。言葉はウラジーミル・ナボコフの小説のタイトルから取られている。小説の内容よりもタイトルの「暗闇のなかに笑い」という言葉を重要視したのだという。


そこでコメディアンであるティグ・ノタロのエピソードを語る。彼女はスタンダップ・コメディアンを生業にしていたが、母親を亡くし同時に自身の乳ガンが発覚する。

人生のどん底の中でも仕事は容赦なく入ってくる。そこで周りの人間に相談すると「それを笑いにするしかないではないか」と言われる。それから、あえてステージで癌であることなどを語り、それを笑いに変えていった。


そこから宇多田ヒカルが見出だしたのは。


「どんな絶望のなかでも、ユーモアがあれば見方を変えることができる」


歌手活動の再開。

その時、リリースされたアルバム「Fantôme」。これは母親である藤圭子の死と向き合い制作された。







そんな曲たちは、人々の心に沁み行き、多くの感動を与えた。



ミラーが映し出す幻を気にしながら
いつの间にか速度上げてるのさ


「Fantôme」とは、「幻」のこと。


過去と現在、そして未来。



普段からメイクしない君が薄化粧した朝


いつもとは違う世界。いつもとは違う色。
ロマンティックすら感じてしまうフレーズなのに、それが死という絶望と向かい合い、生まれたのがこのフレーズだとしたら。


今の私はあなたの知らない色


あなたのいない世界で、私は変わってゆく。


絶望のなかで笑いを生み出したティグ・ノタロのように、母親の死の先で宇多田ヒカルが生み出した楽曲たちは、歌は、多くの人々を感動させた。


"COLORS"が歌うのは「自分の気持ちで世界は塗り替えられる」ということ。

どんな絶望のなかにも生まれるものがある。

そんなテーマが根底で結びつき、僕はまた泣けてしまったのだ。


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