2019年7月26日金曜日

【肯定】「トイ・ストーリー4」ネタバレ感想 ラストのボニーの行動とウッディの決断の意味








ピクサー最新作「トイ・ストーリー4」を見てきた。

間に短編などもあったが、歴史的大傑作「トイ・ストーリー3」の正式な長編としての続編である。

発表された段階で誰しもが抱いた疑問は「なぜ?」というものだろう。間違いなく、3で完璧にストーリーは終わったはずだった。

結果的に世間ではラストの展開で評価はほぼ真っ二つといっていいほど分かれた。

先に書いておけば、僕はあのラストこそ相応しく、だからこそあえて4作目をやることを踏み切ったのだと確信した。


※以下より過去シリーズから4までのネタバレを含みます



トイ・ストーリー4 ネタバレ感想













ストーリー





“おもちゃにとって大切なことは子供のそばにいること”―― 新たな持ち主ボニーを見守るウッディ、バズら仲間たちの前に現れたのは、彼女の一番のお気に入りで手作りおもちゃのフォーキー。しかし、彼は自分をゴミだと思い込み逃げ出してしまう。ボニーのためにフォーキーを探す冒険に出たウッディは、一度も愛されたことのないおもちゃや、かつての仲間ボーとの運命的な出会いを果たす。そしてたどり着いたのは見たことのない新しい世界だった。最後にウッディが選んだ“驚くべき決断”とは…?




ボニー










まず、世間で言われているであろう問題を片付けよう。

ボニーについてだ。

3のラストでアンディよりオモチャたちを譲り受けた。しかし、4のラストでウッディはボニーの元を去る決断をする。大切なオモチャとして譲り受けたボニーだが、ラストでウッディがいなくなってしまったことに気づいた素振りも描かれない。


それに対して「非情」「ボニーが本当のヴィラン」という意見が出てるであろうこともわかる。
作中でもウッディと遊ぶ機会が減っていること、失くしても心配していないことが終始描かれる。

特に決定的ともいえるのが、ラストでアンティークショップでボニーが忘れたリュックを受け取る場面。ボニーはフォーキーがいたことに喜び名を呼ぶが、ウッディに対してはそれがない。

作中でボニーがウッディの名を呼ぶシーンが何度あっただろうか。

ではボニーは本当に悪なのだろうか。

「トイ・ストーリー」において子どもという存在は、ずっと純粋無垢なものとして徹底して描かれてきた。それは「良い子」という意味ではなく「欲望に忠実に生きている」ということ。
だからこそ、アンディのように大切にする子どももいれば、シドのようなオモチャを破壊する存在もいる。3の保育園の園児たちもそうだ。

だからこそ、手に取った時は大切だったオモチャにも興味を失ってしまうこともある。今でも子どもの時のオモチャたちを大切にしているか、それは「トイ・ストーリー」シリーズを(特に3を)見たものにずっと問い掛けられるテーマだ。


そして、これが1番重要なポイントとなると思うんだけど、アンディにとって大切なオモチャであってもボニーにとってみればあくまでも譲り受けたものでしかないということ
それも男の子から女の子に譲られたものだ。なのでボニーがウッディよりもジェシーに目が向く理由もわかる。

ボニーがオモチャに対して気が移っているということは、クローゼットで眠るままごとセットのオモチャたちで語られる。


僕らはボニーと決定的に違う。アンディと過ごしてきた長い日々、たくさんの冒険を見てきている。だからこそ、ウッディたちキャラクターに強い想いを重ねている。そんな目からすれば、ボニーは薄情に映るし、怒りが沸くかもしれない。
でも、繰り返すがボニーにとっては譲り受けたオモチャのひとつでしかない。オモチャが好きな女の子ではあっても、思い入れの強さには違いがある。そんなボニーが新しい喜びを見つけたのが、フォーキーとの出会いだ。

自身で作り出したオモチャがボニーにとって、唯一の友達となる。それは譲り受けたオモチャたちよりも重要な心の支えだ。


改めて考えてみて欲しい。


もし作中でボニーがウッディに対してアンディと同じほどの感情で接していたとしたらどうだろうか。それは愛情だろうか。僕はそれはアンディに対する「情け」でしかないと思う。

ボニーがアンディへの情でウッディを愛するならば、それは本当にウッディに向けられた愛情ではない。

だから、あの物語の世界観のリアリティラインとしてボニーがウッディを強く愛することの方がリアリティがないのではないかと思えるのだ。

それこそがピクサースタッフたちがどのキャラクターたちへの愛情を持っていても失わないフラットな目線なのではないか。









ウッディ









「トイ・ストーリー3」がアンディが成長し、オモチャを卒業の話であるとしたらならば「トイ・ストーリー4」はウッディが成長し、子どもから卒業する映画だ。

ウッディはずっと「俺たちの幸せは子どもに遊んでもらうことだ」と言い続けてきた。「誰かを幸せにすること」が自分の生き甲斐だと思い、それを胸に。

遊んでもらうことが自分にとっての幸せなのだと言い聞かせてきた利他的な気持ちが、4で揺らぐことになる。

最もそれを象徴しているのがギャビー・ギャビーにボイスボックスを譲るくだりで。フォーキーを人質にとられているということもあるが「オモチャは(持ち主)に遊んでもらえることが幸せ」という想いを抱くウッディはギャビー・ギャビーを放っておけない。

しかし、その献身的な行為がハーモニーによって受け入れられなかったギャビー・ギャビーの姿を見たことで揺らぐ。それは大切にされたアンディからボニーの手に譲られ、アンディほど大切にされていない自身とも被る。







今作の監督ジョシュ・クーリーは、あの「インサイド・ヘッド」で感情をキャラクターにするという驚きのアイデアを完璧な映画にした訳だけど。あの映画の中で「忘れてしまったものは『記憶のゴミ捨て場』に送られてしまう」というシーンがある。

たとえ忘れられてしまった存在だとしても、そこに置かれたものは確かに愛された記憶と共に生きている。それでもいつかは本当に忘れて消えてしまう日もやってくる。

もちろんラストで他のオモチャたちを救うためにまた献身的なことをしているけれど、それは健気に遊ばれたいと願うものとは違う感情によるものだ。


もうひとつ言えばウッディがフォーキーにボニーを託した。それは、アンディからフォーキーにボニーが託されたのと似た構造になっている。

だからこそ、(続編とかあるかもしれないけど)ウッディが最後に見つけた「自分の幸せを願う」というものが、僕としてはこれ以上ないハッピーエンドなんじゃないかなと思う。

そして、観る者にとって「自分にとっての幸せ」「自分の大切なものは何か」を問い掛ける最大のフックとなる。
3までで、ある種「見せたいものを最高の形で見せてくれた」ピクサースタッフたちが、あえてそれを裏切り、こうしてその先のテーマに挑む姿は、痛快だ。

こうなることを全部計算したからこそ、続編をあえて作るという決断に至ったのだろう。
ただ、こういった意見はほとんど日本しかなくて、アメリカ等では比較的絶賛の声ばかりだという。

極端にいってしまえば居心地の良い場所にいたとしても、もしその場所がなくなったとしたら?その時にどうやって存在意義を見出だすかという問い掛けだ。その揺らぎこそが、ピクサーの狙いなのだ。
※これを書いたあと敬愛している宇多丸氏のレビューを聴いたら「トイ・ストーリー4」で「この居心地の悪さがあるからこそ価値がある」って言ってて、ガッツポーズをした

存在意義を見出だすこと、それはピクサー作品では「WALL・E/ウォーリー」が近いかなとも思う。







その他感想まとめ





主題については色々書いたので、あとは雑多に感想を並べたい。



①CG

もう近年のピクサーでは当たり前の感覚になってしまったようでいても、やはり映像が素晴らしい。

リアリティのある描写とアニメならではの描写が巧みで、アンティークショップ「セカンド・チャンス」の店内描写は埃ひとつとっても精巧すぎて溜め息が出る。

特にボー・ピープが唯一好きだという照明輝くシーンは美しすぎて息を飲む。



②フォーキー






今回の新キャラクターであるフォーキーが凄まじい。

ゴミからボニーによって作られたオモチャ。それに命が宿る。
自分を「ゴミ」と思い、ゴミ箱にすぐに飛び込もうとするフォーキー。それは繰り返しの天丼ギャグでもあるんだけど、夢も希望も持てない人が生きる意味を見失って自殺するようにどうしても見えてしまう。

フォーキーというキャラクターが恐ろしいのが、目的を果たせば、あとは死ぬだけという運命を受け入れていることにある。
存在意義をここまでダイレクトに問い掛け、突きつけるキャラクターを生むピクサーよ。怖い。

それでも生まれたからには、その命に必ず意味があるという希望で終わる点も良い。




③バズ






「バズが脇役っぽい」という意見もあるんだけど、それでも限られたウッディとのシーンで時を重ねたからこその強い信頼が描かれていると思う。

だから最後に互いの声で「無限の彼方へ さあ行くぞ」としっかり離れていても同じ気持ちを共有し合えていることが描かれる。
これだけでも、これだけだからこそ逆にしっかり信頼し合えているという印象が増すように感じた。

もっと言えば、他のオモチャたちとの絆も同じである。



④ギャビー・ギャビー







女の子の人形ギャビー・ギャビーのエピソードは、どれも胸にくる。不良品であったため誰かに愛されることを知らずに生きてきたギャビー・ギャビーは、ウッディからボイスボックスを受け取るが、愛されたいと思っていたハーモニーに受け入れられない。

その哀しみ。特にティータイムの練習してたの、とフォーキーに明かすシーンの健気さも相まって、捨てられてしまうシーンで場内みんな「あっ…」と言ってしまった感覚に共感する。

ギャビー・ギャビーに対して「あれだけやったのに報いを受けていない」という声もあったけど、あのティータイムの練習を見て、ずっと見つめていたハーモニーに受け入れられなかった時点でギャビー・ギャビーは報いを受けている。

さらに、そこからウッディにボイスボックスを返そうともしている。それをウッディが断った時点で罪は償われたものとされている。


だからラストで女の子と出逢い、その子に拾われるシーンはわかっていても泣けてしまう。というか引くほど泣いた。



⑤ダッキー&バニー





今作のコメディリーフ。
ちょっとドリームワークスっぽいノリではあるが、やはりきっちり面白い。

(うさぎガチ勢としてはもうちょっと可愛いうさぎが見たかった)


⑥エイリアン





エイリアン(リトルグリーンメン)ガチ勢もして、今回あまり出て来なくて、たぶん一回も「Wooo」と言わなかったので寂しい。



⑦ボニーの父親

おそらく本作最大の被害者
ギャグ要因としても、さすがにお父さん可哀想すぎないか。


⑧ベンソン







「トイ・ストーリー3」でもブランコに揺られ月を見上げる赤ちゃん人形(ビッグ・ベビー)というホラー顔負けの演出があったが、4に登場する腹話術人形のベンソンかなりヤバい。

関節がおかしい歩き方や走り方は、普通に怖い。



⑨ボー・ピープ






1〜2作目からだいぶキャラクターの変わったボー・ピープ。
近年のディズニー"らしい"強いヒロイン像として描かれる。

陶器なのにその動きと衝撃は大丈夫なのかとか色々あるが(腕が取れるだけで済むのか?)、その姿は男女問わず惹かれる魅力的なキャラクターだ。


ということで「トイ・ストーリー4」大傑作でした。

受け入れられないという人の気持ちもわからないでもない。

しかし、今一度胸に手を当てて、問い掛けて欲しい。

自分の幸せを求めることが悲しいことなのかと。



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2 件のコメント:

  1. 御無沙汰してます。僕も『4』観てきましたよ。
    やっとサトシさんの記事全文を読むことができました。

    『4』は『5』への壮大なる伏線なのではないか。

    というのが僕の感想です。

    "ウッディー"は"アンディ"の元へ帰るんじゃなかと思うんですよね。アンディの息子のおもちゃとして。とか。

    「アンディ」を連呼するのが「『5』の企画もあるよ」の伏線であり、皆の悶々とした気持ちは『5』で救われるんじゃなかろうか。


    『4』はその大きな始まりの一歩に過ぎなかったという僕なりの、いつもの深読みです。


    あとは、青と黄色のやつの”パターン笑い”がなんか日本ぽくて好きでした。子どもも、いや僕も、声を上げて爆笑してました(笑)


    やつらのスピンオフも・・・あるかな???

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    1. ご無沙汰してます!

      アンディの子どもへってアイデア良いですね!
      それなら5もやれますね。

      ダッキー&バニーみたいな、パターンのお約束ギャグって世界共通なんですね。わかっていても笑ってしまいますよね。

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