ポルノグラフィティの東京ドーム公演を受け、本間昭光とのMCが興味深かった。
その中でファンの中で今も話題になっているもの。
「ポルノグラフィティがどんな曲を出してもついて行きますか?」
という問い掛け。
Twitterでは流れてしまうので、ここに記録として思うことを残しておきたい。
本間昭光の問い
流れをおさらいすることも兼ねて、少し振り返ろう。
初日のMCで、本間昭光より「嬉しかったことはよく言っているから、これは失敗したなと思うことは?」というテーマが振られた。
それに対して。
昭仁:あの時期に、ノンプロモーションでやりたいというのは、ねえ。「音のない森」という曲なんですけど
晴一:肩の力を抜いたのってことで出した"NaNaNa サマーガール"だけど、アレンジとかはとても良いのに、肩の力を抜きすぎた
と答えた。
続いて、本間昭光が観客に問う。
本間:皆さん、ポルノグラフィティがどんな曲を出してもついて行きますって人どれくらいいます?
これに対して観客席では半数以上くらいは手が挙がる。
本間:ほら、結構いる。けれど、あまり甘やかしすぎてもいけないんです。彼らは打たれて強くなる
時間を置きすぎてしまったので、かなりあやふやになっているが、大まかにはこんなニュアンスだったと思う。
この内容を受けてファンの間で話されているのは「盲目性」であると思う。ポルノグラフィティに対して、手放し無条件で何でも肯定してしまうことはどうなのか、或いは私は(俺は)何でも受け入れる、といった様々なツイートが流れてきた。
本間昭光の伝えたい内容としては、何でも盲目的に受け取ってしまうと、アーティストは慢心してしまうということを伝えたかったのだと思う。
本間昭光のいう「甘やかし」が招く最悪のパターンを見ればわかりやすいだろう。
アーティスト:どんな曲をリリースしてもファンは買ってくれるから曲はテキトーでいいや
ファン:どんな曲が出たとしても嬉しいから絶対買う!最高!
Amazonレビューの「期待を込めて☆5です」みたいな世界だ。今は確か出来なかったけど。
『ハリーポッター』のダドリーくらい甘やかされすぎだと思うが、こうなったパターンが一番最悪であり、未来には決して広がることのない「閉じた」世界で終わってしまう。
ここでポイントになるのは「甘やかしてはいけない」とは、ファンに強いられることなのかということだ。
自分はこう思うという意見も大事だし、こういう自由な論を生む時点で多くのポルノファンは十分に考えて行動しているということだ。
「自分は盲目的」という人だって、実はそうだ。本当の盲目的な言動とは自覚なきものである。うさぎ、可愛い。
本間昭光が客席に言ったように受けとれる言葉、それは僕ら観客を通して岡野昭仁、新藤晴一に対し向けられたものでもあるのではないだろうか。
本間昭光が言葉の裏側に込めた思いはこうだと思う。
「ファンの中にはポルノグラフィティのやることならと盲目的に肯定してくれる人たちもいる。同時にそうでない人、ここでいえば手を挙げなかった人もこれだけいる。アーティストは常にファンと真摯に向き合わなければならない。
色々な想いがファンたちの胸にはある。そのひとつひとつに答えきることはできない。けれど確実なことは今の時代に、手を抜いたり、妥協して出したものは受け手には簡単には見透かされる。
反対に、想いをしっかり詰め込んだものは、その数に多い少ないはあるにしても、しっかり伝わる。少なくともそういう人たちがいてくれる限り、君たちは大丈夫、そういう人たちがいなくなった時に、道を誤ったと思わなければならない」
つまりは、甘やかされることが問題ではなく、甘やかされて慢心してしまうことこそ、アーティストにとっては致命的だということ。
たとえばポルノグラフィティ、特に岡野昭仁がよく使う言葉として「ワシらは根拠のない自信だけで、ここまできた」ということを言う。
これは慢心ではない。慢心がもたらすもののひとつが全能性だが、全能性にも違いがある。
その根拠のないというものが、「可能性」であるからだ。
本当の慢心は、今を上限にそこから成長していくことはない。
甘やかされているのは
そう思うと、本当に甘やかされているのはポルノグラフィティではなく、ファンなのではないかと思ってしまう。
"カメレオン・レンズ"
"ブレス"
"Zombies are standing out"
"フラワー"
"VS"
ここ最近だけでも、これだけのシングルがリリースされた。
どんな曲を出しても、という言葉が暴走しすぎている。曲が発表される度に、お世辞ではなく泣いて震えてしまうほどだ。
もしかしたら、新藤晴一が"ライラ"のMCで言ったように「イイ気になっていた時期」もあったかもしれない。けれど、今のポルノグラフィティはどこまでもストイックで、甘えなど知らず走っている。
ファンが「ポルノグラフィティ像」を描けないほど、ポルノグラフィティはジャンルを越えていく。それは、ポルノグラフィティがいつも新しい姿を、まだやれていないことを求め続けているからだ。
しかしながら、僕らもまた慢心してはいけないのかもしれない。
"プリズム"の歌詞にあるように、眩い光の中で道を示したのが僕らファンならば、僕らもまた真摯に向き合い「正しいと思う道」を示さなければならないからだ。
ちょっとごちゃごちゃしてしまったが、書いておきたかったのは、ファンの心の中には様々な想いがある、そこに正解も不正解もなくて、それぞれの想いでポルノグラフィティを受け取ればいい。
そうしてここまで20年続いてきた今があるなら、それは少なくとも間違いではなかったということだ。
ここで注意しなければならないのは、それを曲の好みで語ってしまっては、個人の主観になってしまうということだ。仮にAという曲が自分は嫌いでも、それを大切に思う人もいる。盲目的かどうかは、それが自分の好みという尺度では図ってはいけない。
本当に大切なのは、受け取ったものの価値を考えていくことだ。
価値とはなにか、たとえば"ネガポジ"という曲がある。人によって好き嫌いもあることだろう。しかし、この曲の価値とは、篤志というアレンジャーとの出会いなのである。
それからポルノグラフィティは本間昭光以外のアレンジャーと関わるようになった。
それは結果論かもしれない。しかし、"ネガポジ"が生まれなかったら、もしかしたら"ANGRY BIRD"も"カメレオン・レンズ"も生まれなかったかもしれない。そんな if の世界もあり得たのだ。
また時代性、目的、狙い、ポルノグラフィティという巨大な「プロジェクト」だからこそ、そこに何かしらの意図がある。もちろん、狙いが全て上手くいくとは限らない。
もしそれが納得出来なかったものならば、その時こそ声を上げる時なのだ。
決心が揺らいだり、時代性を見失ったり、「適当」ではない「テキトー」を感じたならば、そこでしっかりと想いを伝えなければならない。未来に向けて。
ポルノグラフィティのファンは全員が盲目的なファンという訳ではない。本当に危険なのは盲目的な人しかいなくなったらだ。だからこそ、まだ大丈夫なのだ。少なくとも僕が絶対許さない(暴言はかんそうさんに譲ります)、このブログを読んでいただいているような熱心で熱いファンの方がいる。
それに。
ポルノグラフィティに関して、慢心してしまうことは、絶対にないといえる。
なぜなら。
東京ドームであの男は言った。
「ポルノグラフィティは汚したくない青春のようなもの。だから、これからも自分が本当に面白いとやれているか問いながらやっていきたい」
誰よりもポルノグラフィティを愛し、誰よりも厳しい目で見ているのは他ならぬ、岡野昭仁と新藤晴一なのだから。
最後にはポルノグラフィティに帰ってきてしまう
【ライヴレポ】ポルノグラフィティ “NIPPONロマンス ポルノ'19~神vs神~” Day.1
【ライヴレポ】ポルノグラフィティ “NIPPONロマンス ポルノ'19~神vs神~” Day.2
明日ポルノグラフィティが解散しても幸せといえますか
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「甘やかしすぎる」、重い言葉だと思います。
返信削除ただ、長く様々なアーティストの方に
音楽で元気もらってきましたが
音楽って、「ココロに刺さる瞬間」ってあると思うのです。
(あえて、「響く」じゃなくって「刺さる」んです)
いままでラジオなどでBGM的に心地よさに流していたものが、
心象風景というか、何かのきっかけで、「刺さる」んですよ。
これはなんなんだろう、といてもたってもいられれなくなって
CD買って、聴きこんで、ライブに行きたくなる。
ただ、時間って誰にでも平等というか残酷というか、
リスナー、ファンも、アーティストも
時間や経験積んで進化、変化します。
お互いのベクトルが合わなくなる、別の方向を向いてしまう。
そうすると、いままで涙が出るほど聴いていた「刺さった」ものすら
曲、アーティストがスルーしちゃうというか、
「引っかからなくなる」ことがあるんです。
その可能性は残念ながら否定し得ない、かと。
またこれは逆に、
新たな出会いを生む、という可能性も秘めているのですが。
願わくば、私やウチのカミさんと
ポルノグラフィティとの素敵な出会いが、
お互いのベクトルが同じ景色を見ていくことが
出来ますことを願うばかりです。
なおにゃ/NAONYA
その感覚はありますね。
削除音楽も波があって、曲単位である場合も、場合によってはアーティスト単位でよく聴くのあまり聴かない時期があります。
そういう時期に無理して聴くこともないと思うんですよね。好きなアーティストって絶対また刺さる時期がやってくると音楽好きやってて何度も痛感しています。