「ピーコック」である。
【あらすじ】完璧な息子、教養ある恋人、デート中にヒーローになりたい人のためのチンピラ役――。マティアスはどんなシチュエーションもこなせる理想的な人物を提供する代理店「マイ・コンパニオン」のトップパフォーマー。求められる役割を完璧に演じ分け、日々さまざまな人格を生きている。しかし恋人ソフィアとの突然の別れやあるクライアントとの想定外の出来事をきっかけに、マティアスの歯車は少しずつ狂いはじめ、やがて現実と虚構の境界も曖昧になっていく...。監督:ベルンハルト・ウェンガー出演:アルブレヒト・シュッフ、ユリア・フランツ・リヒター、テレサ・フロスタ・エッゲスボ 他
ピーコック
人のレンタルサービスで完璧に役割を演じる主人公、しかし私生活では……という物語。ジャンルはブラックコメディかな。
最初に自分の感想を書いておくと、観ている最中は大いに笑っていたが、終わって思い返しているうちに深く考えてしまう余韻を残す映画であった。
制作はオーストリアとドイツで、2024年公開。
監督のベルンハルト・ウェンガーは現在34歳(てことは映画自体は更に若いときに撮ってたのか)で、今作が監督デビューだというので驚かされる。最近は「オブセッション/災愛」もだったが、新しい才能が現れるもんだ。
こうしたサービスの話は今年公開のHIKARI監督の「レンタル・ファミリー」にも通ずるが、内容は異なる部分が多い。着想は同じようだが。
「レンタル・ファミリー」でブレンダン・フレイザー演じる主人公のフィリップはマティアスとは逆に確たる自身を持っているからこその展開になる。
主人公のマティアスはどんな人間にもなれるが、恋人との別れをキッカケに、どんどんと自分を見失ってしまう。いや、最初から自分の存在を持っていないことに気づくのだ。
自分だと思っているものさえ、「マティアスという自分を演じる存在」として描かれているように映る。
テーマに「自己」がある。
監督インタビューでも物語に「SNSのメタファ」でもあると言っていたか、誰しも多かれ少なかれ社会の中で自分を演じている。
そこで演じる“自分”とは、誰なのだろうか。
マティアスの“自己”
マティアスは誰かを演じることに長けていても、自分という存在は分からないままだ。
それだけに、映画で何度か起きる「勝手に身体が動いて」という瞬間が重要なキーになる。
「勝手に身体が」というもボーンシリーズのマット・デイモンみたいになるが、マティアスもまた気づかぬうちに「演じていない自分」を見つけているのだ。
ただ、それは諸刃の剣でもある。
それが分かるのが、恋人ソフィアとヨリを戻そうとして訪れるレストランのシーン。駐車場の車についての顛末
だ。
身障者用の駐車スペースに停められている車が自分のものか分からなくなり、一悶着が起きる。
まぁ、ソフィアとのことで気が気でないからという理由もあるが、ここでマティアスは自分の車ではないと確信が持てない。
車と同様に自分の生活ですら、彼は見失っているのだ。
映画全体を通して、マティアスは動きはほとんどを点で行動している。それは誰かを演じ終えては次の現場へ行く仕事のように。
例えば結果的には一夜を共にしただけでフラレるイーナとの関係。ヨガの場所でも会っただけで、好意を持ちつつ、次に繋げようとする行動はない。
少なからず人は夢という希望を抱き、何者かになろうとする。けれど、マティアスはいつも誰かを演じているからこそ、演じることの境目を見失なう。それが行き着く先が、イーナとの別れの場面だ。
イーナへ本当に偶然だったのか問いかけるマティアスの姿は、思わず笑うしかなくなる滑稽さだ。
では、笑って見ていたマティアスをバカにできるだろうか。
自分の中にある、人と接する時の「こう見られたい」という欲求はマティアスと何が違うだろう。
映画を観ながら、自分の中にあるマティアス性に気づいて見て見ぬふりをしていると気づいていた。
俺もあんなになったら絶対イーナに「運命」ってガチ恋するもんな。
マティアスがソフィアやイーナに惹かれるのは、劇中で彼女たちこそ、誰よりも人間的だったからだろう。
マティアスメンター的な役割の同僚ダーヴィトが最たるものかもしれない。
アート
この映画が描いているもう1つのテーマ的な側面が「上流階級への風刺」である。
それは冒頭の音楽会でも示されるのだが、特に終盤のマティアスが泥まみれで現れる場面を「アート」と称賛する場面。
表層のアート“らしさ”ばかりに目を向け、本質を理解していないからだ。
もちろんアートとは、自分の価値観を覆すような表現との出会いのための芸術である。
しかしながらそれは、自分が理解できないものをアートと納得することは違う。
仕事でどれだけ上流階級のなかでうまく振る舞っても最後は「高評価お願いします」と終わるマティアスに対して、上流階級は評価を下す立場にいることが表される場面でもある。
あの場では、彼らがアートと認めたものがアートなのだ。
表現とはなんだろうか。人はなぜ表現をするのだろうか。
それは人によって異なるが、その多くは自分の中にある感情を表すことだ。
だとすると、マティアスの行為は決して表現とはならない。なぜなら彼には表現したい中身がないから。
それは泥を全身に塗るという行為そのものが、ある種のメタファにもなっていて、何かに覆われて自分を失くすという、映画を観る者へのメタ的な“表現”になっていることが皮肉だ。
だからこそ、最後に自らの意志で水に飛び込み泥を流し、自分の足で素っ裸で歩いて去るマティアスの姿が爽快なのだ。
余韻としては、ストーリーは全く異なるが濱口竜介監督の「悪は存在しない」に似た印象を抱いた。
演出としてストレートなものからブラックまでユーモアたっぷりの映画だけど、個人的にいくつか好きな場面があった。
冒頭の音楽会で客から預かった上着を羽織って遊ぶ女性スタッフ
終盤のパーティでマティアスがスピーチした後の歌手がステージよじ登ろうとしたら登れなくて裏の怪談から登り直すところ
すごくさりげないし、特に本筋にも関わらない場面なのに不思議と心に残るシーンであった。
特に音楽会のシーンは、あとで「あ、あの人スタッフだったのか」と後で分かってほっこりした。
こういう、思わず書き残したくなるような作品は、自分の人生でも大切な1本になりがちだ。
いや、書いてないのに大切な1本の「サンキュー、チャック」に申し訳ないが。
大作も好きだけど、こういった味わい深い作品に出会う喜びは、やっぱり新宿武蔵野館のラインナップはいつも心に豊かさをくれる。



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