2020年5月8日金曜日

"ジョバイロ"歌詞の意味を徹底考察する【決定版】







新藤晴一の紡ぎ出す言葉の美しさ。

それは云うまでもない。

その中でも、指折りの美しさを誇る曲。

"ジョバイロ"の歌詞について考えていこう。

まぁ、100本くらい指がある前提だが。

ということで、長くなりますがお付き合いください。

一応補足。【決定版】とは自分の中でのなので、他に解釈は人の数だけあると思います。













人は誰も哀れな星 瞬いては流れてゆく
燃え尽きると知りながらも誰かに気付いて欲しかった


"ジョバイロ"はサビ始まりの曲。

そして掴みにして、曲の主題を鮮やかに描き出している秀逸さよ。まさに天才のそれ。

主人公の心情を歌った歌詞なのだけど、そこにいきなり「人」という主語を持ってくる。

その「人」を「哀れな星」と例える。

この後サビで繰り返される「あなたが気付かせた恋が あなたなしで育っていく」と対比させてみる。それは、主人公だけでなく、まさに人類が繰り返してきたもの、そして探し続けてきたものである、生まれてしまう愛のかたちの一つ。

命が廻るように、それは生まれては消えてゆく星に重ねられる。

新藤晴一にとって、星とは愛なのである。

たとえば。


開けはなったままの天窓に 煌めいてる星々は決して
ひとつとこの手に落ちない それならばそっと窓を閉めましょ うか
~"瞳の奥をのぞかせて"



この場所がどこだろうと見上げれば瞬く星
その下で君を思えば 悪くない夜になる
~"瞬く星の下で"


新藤晴一が描く「愛」とは恋愛だけでない。
永遠で一瞬、あらゆる全てを繋ぐ、すぐ傍にいるものなのだ。


けれど。


永遠という文字が 何より似合うのは
「 さよなら」や「後悔」だけなのかな
一度壊れた愛は戻らないと
綻びのないルールがある
星が全部ほら空から落ちる
~"ルーズ"


夜が朝に塗り変わるように、時間は何かを変えてゆく。

多くの星が消え、また生まれる。

しかしながら、ただそこにあるだけで、星は目立つことはない。
燃え尽きるその瞬間、強く光る刹那の輝き。それによって数多の星からひとつの星に目がいくようになる。




薔薇




胸に挿した一輪の薔薇が赤い蜥蜴に変る夜
冷たく濡れた舌に探りあてられた孤独に慣れた心


くらくらとしてしまうほど美しいラインだ。
しかしながら、簡単に紐解かせてはくれない。

赤い薔薇はそのままであれば、情熱や愛情を示す。
そして赤い薔薇は本数によっても意味が変わってくる。

1本の場合は「一目ぼれ」「あなたしかいない」という意味だ。
ちなみに999本だと「何度生まれ変わってもあなたを愛する」という"wataridori"レベルの深い愛の意味になる。

胸に挿した一輪の薔薇というのがまた意味がある。スーツのジャケットにボタンホールのような穴がある。社章だったりピンバッジを付けてたり場所だ。

かつて男性が女性に花束を渡してプロポーズをしたとき、女性が花束から一輪花を抜き、男性の胸に挿すという風習があったという。

つまりこの一輪の薔薇だけで、「あなたしかいない」という主人公の強い想いを描いているのだ。

MVでは劇団が舞台となり、袴田吉彦演じる男が野波麻帆演じる主人公の女性へ一輪の薔薇を贈る。それを主人公は部屋に飾っている。しかしながら、ラストでは野波麻帆は舞台裏で一輪の薔薇を持った女性のすれ違う。自分の家にあるものと全く同じ薔薇を。

花束から選ばれた一輪、しかしながら裏を返せば一輪が集まれば花束となる。コインの裏表のように、誠実さを表すそれは、皮肉な裏の意味も秘めている。

“ジョバイロ”は僕という視点から描かれるけど、この時代に男女というジェンダーはあまり関係ないだろう。

どうだろう、「胸に挿した一輪の薔薇」というフレーズだけで、主人公がたしかに抱いた想いと、裏腹な心の対比と皮肉が込められているのだ。

これだけでも唸るのに、新藤晴一はそこで終わらない。

一輪の薔薇は赤い蜥蜴に姿を変える。

この秀逸さよ。








蜥蜴




なぜ蜥蜴なのかというところが、かなり解釈が難しい部分である。
たぶんBSで1時間特番を組めるくらい議論の余地がある。

蜥蜴というモチーフが表すものを思うと、様々な見方ができるからだ。たとえば、日本では「蜥蜴の尻尾切り」という言葉がある。下に責任を押し付けて逃げるのを、蜥蜴が自らの尻尾を切り離して逃げる様に重ねた言葉だ。

これを"ジョバイロ"に重ねると、切り捨てられてしまうもの。切り捨てた側にはまた新しい尻尾が生えるという恐ろしさすらある意味合いとなるし、海外では蜥蜴というのは男性器の隠語として用いられるという。

「冷たく濡れた舌に探りあてられた孤独」という表現の秀逸さよ。

蜥蜴や蛇が舌をチロチロと出し入れしているのを見たことがあると思うが、あれは空気中の匂い分子を舌から体内の器官に取り込むためだという。
そして、(種によって違うが)蜥蜴は青い舌を持っている。爬虫類苦手という方もいると思うので画像は貼らないので、興味がある方は蜥蜴を飼ってみて欲しい。

もちろん舌で探られたのはメタファとしてただけど、そこで探られたものが「孤独」であるというのがポイントだ。
このフレーズはどこか、抱えていた孤独を感じ取られ、その琴線に触れられてしまうような、文字通り舌で舐められたようなゾクッとした感覚となる。


さて、「薔薇」と「蜥蜴」について見てきたのだけど、その核心に迫ろう。

ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョの絵画に『トカゲに嚙まれた少年』という作品がある。



ロンドン、ナショナルギャラリー所蔵



『怖い絵』で有名な中野京子のインタビューでこの絵画について取り上げられている。



――この少年にはパトロンがいる。でも、薔薇いじり(他の男を物色の意)をしていたら嚙まれた、要するに浮気の罰だったという意味では……ということもその方はご想像されたそうです。
「なるほど。ちなみに中指を嚙まれてますよね。中指には性的な意味があるので、ますますもってそういうことになります」
なるほど、中指か。

「ハードな行為」を表現するのにぴったりの生き物がトカゲ


抜粋しているので詳しくはリンクを読んで欲しい。

解釈の解釈なので、色々と逸脱してきているけれど、ここで読み取る本質部分は”ジョバイロ”の本質にも通ずるのではないかと思う。

薔薇の意味するものの一つに「秘密」がある。この『トカゲに嚙まれた少年』の示す男色もそれを指しているのではと云われている。

作家の山口路子がこの絵画についても触れていて、それが興味深い。



同性愛者であった画家カラヴァッジョが描いた作品に『トカゲに噛まれる少年』がある。一度観たら忘れられない強烈な印象を残す作品だが、この少年の髪には薔薇が飾られている。そして少年は花瓶の薔薇に手をのばしたところを果物のなかに隠れていたトカゲに噛まれたらしい。トカゲは死を、薔薇は快楽を暗示する。現代とは違ってタブーであった同性愛の「快楽」、そこに手を出したなら「死」が。禁忌を犯すことへのスリリングな悦びを私はここに見る。

作家、山口路子が紐解くバラの魅力「清らかな矛盾──私が惹かれる理由」


秘めたる恋、そしてそれが残す傷跡。MVで一輪挿しの薔薇にトゲが残っていて、それに触れてしまい指から血が出るというシーンに通ずる。

1番Aメロだけでこんなに長くなってしまったが、ここの部分が一番解釈の余地がある部分なのでどうしても長くなってしまった。

しかしながら、これらを踏まえるとBメロ「舞台の真ん中に躍り出るほどの役どころじゃないと自分がわかっている」というフレーズが伝える主人公の秘めたる想いの切なさがより際立つだろう。

そんな想いに、主人公は何を思うか。


篝火








あなたが気付かせた恋が あなたなしで育っていく
悲しい花つける前に 小さな芽を摘んでほしい
闇に浮かんだ篝火に照らされたら
ジョバイロ ジョバイロ
それでも夜が優しいのは見て見ぬ振りしてくれるから


ようやくサビに入る。

冒頭部分は意味を汲み取る必要はないが、なんと洗練されている表現だろうか。

失恋の歌は世に、まさに星の数ほどある。その中で詩人(作詞家)たちは新たな表現を手探りしている。
その中で「あなたが気付かせた恋が あなたなしで育っていく」という表現は、一聴にして誰もが理解できるのに今まで見たことがない、まさに表現者にとって理想ともいえるものとなっている。そこにはもう一つの仕掛けがある。

冒頭からのストーリーの積み重ねがあるからこそ切なさが増すと同時に、シングルとしてこのサビから聴いてもワンフレーズで心を掴めるようになっているのだ。

それだけこのフレーズは単体として見ても、2人の関係性が見事に切り取られている。

こうしたシングル曲ならではの構成が、”ジョバイロ”の世界観をさらに深めるようになっているのだ。職人芸。天才。

「闇に浮かんだ篝火」は冒頭のサビと対になっていて、夜空を流れる燃え尽きる星のことだろう。
主人公はそれに自分の恋心を重ねている。

繰り返される「ジョバイロ」。タイトルはスペイン語の「Yo bailo(=私は踊る)」

語幹の響きから繰り返し歌われることもあると思うが、繰り返されることで主人公が自分自身に強く言い聞かせているかのようにも聴こえる。

星が燃え尽きるその一瞬の輝きに照らされ、主人公は踊る。それがあなたに向けられたとしても、あなたはきっとそれを知る由はない。

一人踊る姿は、決して誰も見ることはない、切なく美しい踊りだろう。

それを見ているのは、夜だけ。


朝が嫌い 君が言ってた
全てを白々と見せる
はじらう夜 ウソも痛みも
綺麗に隠してくれる
~"月飼い"


新藤晴一の描く夜は、見て見ぬ振りをしながら優しく全てを隠してくれる。

たとえ、何も変わらなくても。


喜劇




銀の髪飾り落としていったのは
この胸貫く刃の代わりか


先の絵画もそうだが”ジョバイロ”は静物画のように、並べられたモチーフが心情を捉えている。
しかしながら、このフレーズは特に解釈の余地がありすぎるので書くのが難しい。

「銀の髪飾り」は後に”オー!リバル"でも登場する。
穿った見方をすると着想はドラクエの「ぎんのかみかざり」ではないかと思っている。

「落としていった」という点が解釈が(良い意味で)分かれるポイントだろう。
端的に言えば「故意か過ちか」という事だ。あなたが意図的に落としたのか、偶発的なものなのか、それによって物語が姿を変える。

「この胸貫く刃の代わりか」と続くことから、前者ではないかと僕は思っている。
しかしながらそうとした場合でも、「なぜ落としたのか」という背景を考え始めると底無し沼に陥る事になる。

ここで解釈としては若干掟破りだが、このフレーズこそ「人による」解釈が必要とされる部分だと思う。
(注釈付きだが)「共感」を求める人には、このフレーズは自分を写す鏡となっているのではないかと思う。

色々なパターンを考えていてひとつ思い出したのが「関ジャム」の「教科書に“袋とじで”載せたい大人の名曲特集!」で本間昭光が語っていた松任谷由実の"真珠のピアス”の話だ。

かわいいあの女へのジェラシーから、別れ際に部屋にわざと落としていった片方の真珠のピアス。これを”ジョバイロ”に重ねると、主人公の抱えている感情は純粋なる愛だけではないものとなっていく。それも「叶わぬ恋」の一つだろう。

他にも、たとえば”まほろば○△”で描かれたような関係なら?
それを本気にしてしまった男の物語だったとしたら。

あなたはどんな物語を描くだろうか。


折れかけのペンで物語を少し
変えようとしたら歪な喜劇になった


手垢に塗れたチャップリンの言葉を借りれば「生は近くで見ると悲劇だが、 遠くから見れば喜劇である。」

ここで物語を書くシーンがあるのは、これも穿った見方をすれば主題歌の「今夜ひとりのベッドで」で、主役の本木雅弘が本の装丁家で妻の瀬戸朝香が元作家という関係からかなと思う。新藤晴一はタイアップの作品の内容には直接的には寄り添わないが、物書きといういう部分で新藤晴一が惹かれたのではないだろうか。

「折れかけのペン」というモチーフの秀逸さよ。
「歪なもので修正しようとしても、直したものも歪になってしまう」ということもあるし、見方を変えればまた違った側面を捉えることもできる。

もしこれが「折れかけるほど使い込まれたペン」だったとしたら。それだけ何度も、書いては消してきた想いだったとしたら。
折れかけるほど強く握ったペンで書かれたストーリー。直すほど、それは歪んでしまう。それは、このあとのサビに出てくるフレーズに繋がっていて、主人公がその想いを外に出すことができないからだ。


妄想の翼はどこまでも広がってしまう。
宇宙のように。




宇宙




宇宙の広さを記すとき人は何で測るのだろう?
この思いを伝えるとき僕はどんな言葉にしよう?
あなたの隣に居る自分をうまく思い描けない
はぐれないよう
絡めていたのは指じゃなく不安だった


宇宙は今も外へと果てしなく広がり続けている。
そして人の心もまた内へと果てしなく、深く広がってゆく。





MCUの映画「アントマン&ワスプ」で主人公のスコット・ラングが量子世界へ行くけど、まるでそれは宇宙のような空間になっていて、そんな光景が思い浮かんだ。





人が宇宙を表す時「光年」という単位を用いるが、宇宙の広さはその単位では到底表せないものだ。

人の心も同じなのだ。新藤晴一という言葉の人間にとっても、人の心を全て描く事なくできない。それは、新藤晴一だけでなく全ての表現者にとって同じである。しかしながら、だからこそ表現に終わりはない、無限の可能性を秘めているのだ。


星を数えるよりは容易く
雲の行方を知るより困難で
僕がそれを信じれるかどうかだ
左胸の声を聞け
~"ヴォイス"


主人公が迷う言葉、実はそれは多くの表現者がいくつもの方法で表そうとしたたった一つ「愛」というものなのだ。

「はぐれないよう 絡めていたのは指じゃなく不安だった」というフレーズの秀逸さよ(全部「秀逸さよ」といえばいいと思ってる)。

このフレーズを聴いて思い浮かべるのは"サウダージ"だろう。


私は私と、はぐれる訳にはいかないから
いつかまた逢いましょう。その日までサヨナラ恋心よ
~"サウダージ"


"サウダージ"においては「私は自分自身を見失ってはならない」という主人公の強い意志を感じさせるものだ。
それに対して"ジョバイロ”では、それを見失ってしまったものが描かれている。

ペアダンスのようにあなたと共に舞う自分を思い描いて手を伸ばしても、その手が触れるのは鏡に写った自分の手に触れる。まるでそんな光景のように触れるものは自分の心ばかりだ。


大好きだから踏み出せない、大好きだから臆病になる
~"ミュージック・アワー"


「指」というモチーフもしばしば新藤晴一の歌詞に登場する。
その中でも特に”ジョバイロ”に通ずるフレーズはこれだろう。


冷えた指先を温めようと
自分の両手を合わせてみても
僕の悲しみが行き交うだけで
それは祈りの姿に似ていた
~”Mugen"


このフレーズのように、”ジョバイロ”の主人公の指には不安が絡まり、悲しみが行き交っている。

言葉を探す堂々巡りのように、それは終わりのないメビウスの輪となって果てしなく彷徨い続けるのだ。


ヴァイオリンとアコースティックギターが絡まる切ない間奏を経て、1番のサビが繰り返される。

以前”カメレオン・レンズ”について書いた時にも同じ気持ちになった。

2番の展開があることで、同じフレーズが再び繰り返されても、1番よりもさらに切なさが増した響きになるのだ。
(なのでTVサイズにしてしまうとそこが分かりづらくなるのがもどかしかった)

育っていった芽は、1番の時よりも大きく育っていることだろう。

それを主人公は止めることはできない。

星が消えていくように、夜が朝になるように、その輪は止まることなく回り続ける。

人の想いが消えないように。

それは僕らを永遠に悩ませ続ける。

だからこそ、人は踊るのかもしれない。

自然の摂理に逆らうように。

せめてもの願いを胸に秘めて。

Yo bailo

私は、踊る。

夜の中で。



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