2019年3月23日土曜日

ポルノグラフィティ "ブレス"が描くさよならと、"この胸を、愛を射よ"が描く君への嘘







先日、Twitterでリプをいただいた。

内容は"ブレス"の歌詞の最後「出会いとさよならを繰り返す旅人のように」の部分は「出会いと別れ」でも音ははまるのに、なぜあえて「出会いとさよなら」としたと思いますか、というもの。

それを考えてみると、とても興味深くて、解釈の火が点いてしまい、記事として書いて残させていただくことにした。

合わせて"この胸を、愛を射よ"の最後の歌詞についても、疑問をいただいたので、そちらを最後に書かせていただきます。







出会いとさよなら




まず、対となる「出会いと別れ」ではなくあえて「出会いとさよなら」としたのか。

自分の解釈として、「さよなら」にすることで幼さを伝えたかったのではないかということ。

どういう意味か。

それはCメロ。


少年には遠回りする時間が与えられ
老人には近道を知る知恵が授けられて
どちらかを笑うことなかれ 羨むことなかれ
それぞれの道がある
誰も君の道は行けない


に通ずると思う。

「出会いとさよなら」を繰り返すこと、それは様々な道を行くこと、それが少年に与えられた遠回りなのではないか。

模索するからこそ、様々な場所に辿り着く、そして出会い、さよならを繰り返していく。それは、成長への最短の道ではない。

しかし、そこには大切な「経験」が詰め込まれている。

もちろん「出会いとさよならを繰り返す」から、長年の経験を積むという受け取り方もできるが、それならば「出会いと別れ」にしたと思う。

あえて「さよなら」という言葉を使うことで、特に届けたい相手へ伝える言葉として相応しいものだったのだ。

それは"ブレス"がポケットモンスター劇場版の主題歌であったからだ。

その言葉が今は伝わらないかもしれない。しかし、いつの日か口ずさんでいた唄が、そんな意味を持っていたんだと気づく日がくるかもしれない。

「さよなら」の数だけ哀しみも抱く。同時に、人は「さよなら」の数だけ強くなり、大人になる。

そして"ブレス"はそんな子どもたちだけでなく、一緒に見に来た親たちにも、そのメッセージを向ける。

子どもは遠回りをしているように見えても、そこで多くの経験をする。

大人の時間の流れと、子どもの時間の流れは違う。

だからその時間を無駄にしていると思ってはいけない。そんな頃に大人が知る近道は必要ではない。近道は遠回りを知るからこそ、近道になる。

近道しか知らなければ、それは近道ではないのだ。










さよならの意味




いきなりMr.Childrenの話になって恐縮だがミスチルに"空風の帰り道"という曲がある。
そのサビにこんな歌詞がある。


今日の日が終わる
また来週に会える
「さよなら」は悲しい響きだけど
君とならば愛の言葉


「さよなら」それが別れの意味を持ち、出会うための次の一歩ともなる。

また明日、という「さよなら」もあれば、再会のない「さよなら」もある。

人は人生でたくさんのことに「さよなら」をして。また新しいことに出会って生きている。「さよなら」の意味は「さよなら」の数だけある。


ポルノグラフィティで、それを思ってしまう曲がある。

それが"フィルムズ"だ。


さよならの意味を知らない子供らが
無邪気に手を振ってさよならと


さよならをするのは、帰るべき場所があるからで、時に人生には行く宛のないさよならもやってくる。

ポルノグラフィティが描いてきた「別れ」や「さよなら」にはそんな姿がいくつか登場する。


君と僕で交わした言葉たちは一体どこに行ってしまったんだろう?
迷子になっているのならば帰ってこなくていいよ
~"Swing"


「サヨナラ。」すべてが 消え去るはずないけど
君への想いは太陽とともに沈んでゆけ
~"夕陽と星空と僕"


それは子どもが無邪気に手を振るさよならとは違うもの。

もう戻らないさよならを知った時、人は少し大人になるのかもしれない。


さよならばかりが人生
言い聞かせたって胸は痛んで
それならばいっそ粉々に砕け散ってほしい
~"あなたがここにいたら"



ここからは"この胸を、愛を射よ"について



"この胸を、愛を射よ"の最後の歌詞について




こちらは



この胸よ、愛を射よの最後のサビの「本当は君のために〜」で始まって、ケツが「〜思っているのは本当」ところです。
僕は「本当」が1つの文で2回出てくるとこに違和感感じるのですがいかがでしょうか?


というもの。

歌詞を改めて引用すると、最後のフレーズはこれである。


本当は君のために 出来ることなどなくても
他の誰より強く思っているのは本当


一行目と二行目で「本当」が対になっている。
ここで書かれている「本当」とは、君への2つの想い。

ひとつは「君のために何かしてやれるほど強い男じゃない」という告白。それは一番と二番で語ってきた、君を守るという強い意志とは反するものだ。

つまり、一番と二番で見せる強さは、本当の自分の強さじゃないという告白が最初の「本当」。そして、それができなくてもそれほど君を想っているということも「本当」の気持ちというのが最後の「本当」に込められている。

このフレーズが共鳴するのは"黄昏ロマンス"の最初のフレーズ。


君の前では何故こうも ただの男になるんだろうね
優しいウソも繕えず言葉になる


だと思う。ここで言われる「優しいウソ」こそ、"この胸を、愛を射よ"で君に語る主人公の「強がり」は同じものではないだろうか。

君の前では強くありたい、君を守りたいと思っていても、君の前では等身大の自分になってしまう。

ある種"Monster"の「知らないのは自分だけ/等身大の自分を/他人は全て知ってる」という歌詞のように。

"この胸を、愛を射よ"の中で君の気持ちは描かれてはいない。しかし、主人公の「本当」の想いはどちらも君はもうとっくに気づいているはずだ。

そんな君の、主人公を想う気持ちがあるとしたら、それは最後に伝えられる優しさを知っているからではないだろうか。



ほんの少し 勇気が必要な時には
いつだって君のほんの少しになろう



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