2022年8月17日水曜日

ポルノ"メビウス"感想・歌詞解釈 ~永遠の先にある明日





とうとう"メビウス"について書かなければならない日が来てしまった。

「お前が勝手に書いてるだけだろ」と思うのは当然である。そのとおりだからだ。

しかしながら「暁」が、どれだけ書いても満たされない。アルバム自体が聴くかっぱえびせん状態だし、聴くたびになにか書きたくなる。なんかの中毒かもしれない。

ということで、曲順どおり"メビウス"と向き合うこととしよう。

(仮)段階でも考察記事を書いたが、歌詞が少し変わっていたり、ラジオやインタビューなどでも曲について少し触れられたこともあるので、今一度向き合うこととする。

なので内容が重複する部分があってもご容赦いただきたい。


"メビウス"の世界観




前回のツアー「続・ポルノグラフィティ」でを見せるためにアンコールで披露された。

ちなみに"ナンバー"も未発表曲として披露されたが、それは最終の東京公演のみである。一方で"メビウス"は最初からセットリスト入りしている。

ポルノグラフィティの未来を示すために出されたのがコレという事で聴いたファンたちに、少なからずざわつきを巻き起こした。

曲としては新藤晴一とtasukuの掛け合いによるギターが印象的で、儚さだけでなく切なさを感じさせる激情が潜んでいるメロディアスな楽曲であった。

アレンジは(仮)の方が全体的に抑えたアレンジで、歌詞全体のトーンとしては、正直こちらの方が合っている部分もあると思う。

しかしながら"ナンバー"もそうだけど、良し悪しとかなくてマジでどっちも良くて「甲乙つけられない」の例として辞書に載せてほしい。

そして"メビウス(仮)"がファンに戦慄を与える決め手となったのが、ツアー最終日である。

最終日は配信もあったので、既にツアー参戦した組も改めて聴きたい想いと、早くネタバレを言いたい衝動もあって、チャットやTwitterの実況は凄かったと思う。

更に、この日に限ってはおそらく現地にいた自分含めたファンより、テレビの前にいた配信視聴者の方が度肝を抜かれたことだろう。

配信ライヴでは全曲に歌詞が表示されていたが、そこで表示された"メビウス(仮)"の歌詞が、ほとんどひらがなだったのである。

やさしいあなたは わたしのくびねを
りょう手でしめ上げ 泣いてくれたのに

いや、面を食らわないほうが無理だろ。

カフェイン11で「ひらがなが多くて驚いた」というメールがたくさんきて、エゴサヴォーカリストが「怖いって反応多かった」という援護射撃をしても、当の新藤晴一は「そうかなぁ」みたいな雰囲気だった。これについては後述する。

さて、(仮)から変わった部分だったり、インタビューなどで語られたことで、新藤晴一が描きたかったものが、前よりも掴めた気がする。

と思って書き始めたんだけど、なんかもう思考が絡み合う迷宮迷宮でした。


それにしても、改めて"メビウス"の歌詞を見て凄いなと思うのが、ある程度潔く「共感性」をかなぐり捨てていることだ。いや、一部には刺さる人がいるだろうが、あくまでもJ-POPのメジャー世界を走るポルノグラフィティが描くものとしてだ。

自分なりに、新藤晴一という作詞家を研究してきたつもりだけど、まさか23年にしてこんな歌詞が出てくると思わなかった。

だからこそ、僕は発表されるまで"メビウス"の歌詞は岡野昭仁である、と信じていたのだ。

岡野昭仁が書きそうというと語弊もあるが、もうひとつ根幹にあったのは「これを新藤晴一に書かれた日には、もう太刀打ちできない」という想いであった。ちなみに一度も太刀打ちできたことはない。

ある程度ロジック的に歌詞を構築してきた新藤晴一が、ここまで感覚的にワードを並べた歌詞を書いたら、どうしたらいいのだろう。そんな恐怖が、自分にこの狂気の歌詞は岡野昭仁と思わせたのだ。まったくフォローになってない。

しかしながら蓋を開けて種明かしをされたら、色々しっくりきてしまった。それが1番悔しかったと同時に、信じられないくらい昂っていた。もう病気だと思う。

もはや何度、聴きながら「これだからポルノファンはやめられねぇ」と思ったことか。信じてた人たちに良い意味で裏切られたら、それが幸せなのだ

完全に掴めた訳ではないが、描こうとした世界観の方向性がわかったのは大きい。

考察から逃げるように書いてきたが、そろそろ歌詞と向き合っていくこととする。









"メビウス"の歌詞




ナタリーの全曲解説から新藤晴一コメントを引用する。

この曲も前回のツアーでやったんだけど、そのときのアンケートで「闇があって好きです」みたいな反応がけっこう多かったんですよ。またこれも時代の問題だけど、「オタク」「メンヘラ」「陰キャ」「闇落ち」みたいな言葉って、ひと昔前だと悪口だったものが、今は1つの個性みたいに扱われるようになってきているでしょ。それを意図してこういう歌詞にしたわけじゃないんだけど、時代による価値観の変化で受け止められ方も変わってるんだなと感じられたのがすごく面白かったですね。

わりと直接的に「メンヘラ」というワードにも触れている。自分としては「ヤンデレ」的な側面なのかと思ってた。

他のコメントとか色々と見たイメージも合わせると、新藤晴一は主人公の意識が朦朧として見えた世界を描いているのだとわかった。歌詞がひらがなを多用していたのは、そのインスピレーションに付随するものである。

(仮)の考察をした時にもっとおどろおどろしい情念めいた結末なのかと思っていた。だが、いくつかのコメントを読んだりしていくと、実は"メビウス"も"ナンバー"と同じように、曲を通して「生」を描いているのではないかと思えた。

なんとなく見えた"メビウス"の世界観がなにかと言われれば、自分は一瞬の中にある永遠の愛だったんじゃないかと思う。

つまり"メビウス"とは、"証言"における「完璧なものなど この世にはないと/言うのなら あの愛はそれを/覆したほんの一瞬」というフレーズにおいての一瞬を描いているように思えたのだ。

補足しておくが、今回のアルバムの歌詞で意図的に曲と曲をリンクさせてはいないと言っていたし、実際自分もそうだと思う。

だから、直接リンクとして繋がるというよりは、"証言"で新藤晴一が向き合った愛というものに近いほど、"メビウス"の主人公が感じたものは大きかったということであると思う。

そもそもツアー初日からやっていたと思えば、アルバムの中でも"メビウス"はかなり古参の歌詞のはずだ。他の曲でもリンクしていそうな気配はあるが、1曲1曲と向き合ってきた結果によるものだろう。

さて、これから内容に触れていくが、本当に考察を書きづらいテーマだ。とてもナイーブでセンシティブな話題にも触れざるを得ないので、ご了承いただきたい。


仮から本歌詞になって変化した部分がいくつかある。

その中でも印象的なのは仮段階のサビで繰り返されていた「Wasted love」というフレーズが「わかってんだ」に、Cメロの「えいえんとは かくなるもの」が「えいえんとは こういうこと?」に変わっていたりする。

あと名前のくだりも変わったり、表記が一部漢字だった部分がひらがなに直されていたりもする。

ラジオの新藤晴一の言葉によれば「Wasted love」の部分は元々仮歌の段階で入っていてそのまま使ったが、歌詞を書きなおす上でよりはまる言葉を選んだとのこと。これ地味にビックリした。ということは「Wasted love」の部分はもともと岡野昭仁だったのか。

上記の変化によって、より浮き彫りになったのが、歌詞が明らかに「ちいさな子どもでもわかることば」になっているという点である。こんな壮絶なみんなのうたがあってたまるか。

それでも自分としては、やはり主人公は子どもではなく、あくまでも刹那の感情がそれほど純粋であった証と受け取りたい。

(仮)からずっと引っ掛かっていたフレーズ「すきだったんだけど」と「チャイムがなっている うちにかえらなくちゃ」。

これほどの想いを「あいしてた」ではなく「すきだった」とか、チャイムでなぜ突然家に帰ろうとしてしまうのかといった表現は、そこにつながるのだと思う。


"メビウス"の主人公は、その冒頭のフレーズで示される"行為"を通じて、あなたの優しさと愛情を感じている。

こうした自傷行為って愛情に飢えているとか、孤独から生まれる感情だと云われている。あくまで一般論として、という意味合いで。

主人公はそこまで強い孤独や愛情を求めているようには最初見えなかったんだけど(元々ある程度は満たされる関係であったように感じていた)、そこは解釈の余地なのかもしれない。

"行為"を通してしあわせをみたすのであれば、それはそれで1つの愛のかたちであると信じられる。共感できるかは別の話として。

だからこそ、そこから「こわれてしまった」というフレーズが不意にくると、「なんで?」となる。色々考えてみたけど、どの解釈をとってもどこかで行き詰まったりしてしまっていた。戦慄迷宮かよこの曲。

なんとか自分なりに、ない頭を巡らせたなかでは「やさしいあなたが、泣いてまでわたしのしあわせをみたしてくれること」について言っているのではないか考えた。

それでも「こわれてしまった すきだったんだけど」という感情には辿り着けない気がして(そうすると「こわしてしまった」になるのかなと思う)、だとすると重要なのは歌詞が変化して生まれた部分、「わかってんだ」というフレーズだ。

これも考察するうえで頭痛が痛くなってくるんだけど、自分なりに"メビウス"の主人公像みたいなものを思い浮かべたとき「わかってんだ」と言うような人と思えなくて、ここで本当に思考の底無し沼にはまった。

出口が見えたと思ったら落とし穴に落とすんすよ、この人たち。

そこから無理矢理にでも、ひとつの物語を紡ぐとすれば。


続・メビウスの歌詞




わたしとあなたはたしかに愛し合っていたのに、愛し方が違っていた。わたしが愛情をたしかめるために求めた行為を、やさしいあなたは泣きながら叶えてくれた。たとえあなたにとってすべて壊してしまうことであっても。それがわたしにとって、唯一愛をたしかめられるものだった。だから、わたしはうすれるいしきにしあわせをみたしていた。


やさしいあなたが、わたしのために願いを叶えてあげたという結末だ。しかし、それは同時に、2人をこわしてしまうものでもあった。

文章が拙くてニュアンスが伝わるかわからないし、完全に歌詞と当てはまるわけではないのだけど、考え抜いた末の、今の自分なりの答えがそれだった。これもう学者が生涯かけて追究してくやつだろ。

そうした上で「メビウスのわ」とはなにか。
メビウスの輪とは輪を切って、端を一度捻ってから元の端に付けてできる、裏も表もない存在。

だとすると、そこから見出だす意味としては2つあると思う。

ひとつは「決して交わることのなかった裏と表の感情がひとつになること」。つまりは「わたしとあなたが真に裏表のない関係となった」こと。

もうひとつは歌詞にあるように時間を繋ぎ止めること。メビウスの輪の意味には「無限」がある。

僕が"永遠"を好まないのは
今日の次にある明日を求めるから
~"Mugen"

わたしのいない明日を見せないために、わたしのいない夜で綴じるために。

そうだとしたら「えいえんとは」という言葉に「かくなるもの」と確信めいて言う(仮)より、「こういうこと?」という問い掛けに変わった本歌詞は、より切なさが増幅している。

この2人の結末がどうなったのか、僕らには想像するしかない。

たとえ世界に「一度壊れた愛は戻らない」という綻びのないルールがあるとしても。

壊れた破片たちは混ざって溶けて、また形作られてゆく。けれど主人公たちに次の朝はやってこない。メビウスの中にある永遠にしか、2人はいないのだから。


そうだとしたら、すごく穿った解釈かもしれないけど、わたしを終わらせてしまうことで、その瞬間の2人を永遠にしてしまったのではないかと思う。もはやこれはパトスなのかもしれない。

わたしが本当に消えてしまったのか、行間からでも読み取れない。だが、いずれにしても、わたしのくびねに手をかけたあなたは、もう元の自分に戻ることはできない。

"メビウス"のもつ切なさ、そして狂気。

心のざわつきは、こうして生まれたのかもしれない。


最後に。

なぜこの曲が「続」であったのかという点について。

ライヴレポの考察では上記にあったようにメビウスの輪から「ポルノグラフィティも裏表のない存在となる」とイメージした。

けど、やっぱり難しく考えすぎていたのかもしれない。

もっと純粋な想いで、「これからもまだ新しいポルノグラフィティを見せていくよ」とか「こういう曲でも君たちならきっとちゃんと受け取ってくれるよね」という決意だったんじゃないかと思う。

だってアルバム「暁」でも、新しいポルノグラフィティを見せるために、岡野昭仁はアレンジャーとトラックを競作したり、新藤晴一は今までになかった歌詞を模索した。

それでファンがこれだけざわついて、その何倍も喜ばせて。

アルバムを聴いて僕は本当に「しあわせみたして」という想いだったのだ。

"メビウス(仮)"の先に「暁」があったなら。

ポルノグラフィティの切り取るメビウスの輪の端は、まだまだ先にあることだろう。


【アルバム「暁」特集】

1. "暁"初オンエア感想・歌詞解釈






7. "バトロワ・ゲームズ"感想・歌詞解釈 ~赤い目で見る世界は赤い

8. "メビウス(仮)"の歌詞について本気出して考えてみた







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