アルバム「暁」より"ナンバー"を取り上げる。
前回のツアー「続・ポルノグラフィティ」で最後の東京公演で披露された曲が、遂にリリースとなった。
ライヴでの仮歌詞から歌詞も一部変化し、印象がまた変わったこの曲を見ていこう。
ナンバーのテーマ
元々ツアーでは「続」を感じさせるため、こちらも今回のアルバムに収録されている"メビウス(仮)"がアンコールで披露されていた。
ツアー最終2日間の有明公演で、さらに追加で出来たての新曲として披露されたのが"ナンバー(仮)"である。
ちょっとレトロさも感じる印象的なストリングスから、とてもポップで、けれど力強さも感じる曲調であった。
元々90年代後半~00年代前半のUKロックっぽさを目指していたというので、僕は完全ドストライクである。
アレンジはライヴ版からそこまで大きくは変化していない。これはポルノグラフィティの楽曲制作の工程が、作曲から編曲までをした状態で歌詞を入れていくという流れが多いからだ。
といってるそばから"メビウス"はアレンジが多少変わっていたりするので一概には言えないが。
「水車小屋で微睡む猫/小川を越え
僕は歩く」という最初のフレーズのとおり、少しリラックスしたムードが心地好い。
なんせアルバムで聴くと"暁"!"カメレオン・レンズ"!"テーマソング"!"悪霊少女"!"Zombies
are standing
out"!という怒涛の流れが続いてくるので、ここら辺でここくらいのミディアムさも感じられる"ナンバー"がきてくれると、アルバムのバランスをうまくとる役割になっている。
歌詞の中で先に書いた猫にはじまり、蜜蜂、キツネ、蝶、ウサギ、熊、蟻、鳥とたくさんの生き物が登場する。
ライヴレポの時に少し触れたのだけど、仮歌詞の最後のサビで「数えるのではなく満ちるの待っているの」というフレーズがあって、それがとても印象的に残っていた。
聴いていて感じたのは、この曲が森羅万象の中で生命の讃歌だと感じた。アルバムの"ナンバー"でも、それは変わらないが、より主人公のノスタルジィな気持ちにフォーカスしたような印象だ。
ということで歌詞を見ながら、その辺りを書いていきたい。
仮歌詞の時から少し歌詞のフレーズと構成が変わっていて、サビはだいぶ印象が変わる。個人的にだが、なんとなくアルバムに入る時にここ変わるかなと思っていた部分と実際に変わった部分が、完全に真逆すぎて笑った。
ナンバーの歌詞
ライヴで披露された"ナンバー(仮)"からの変化でまず驚くのが1番サビだ。
(仮版)こうして僕は見失った 日付だとか時間だとか君の住む街の番地さえ不思議な模様に
けれど花は咲くのだろう 熊は春に目覚めるだろう
数えるのではなく満ちるの待っているの
(暁版)ジェリービーンズ 溶かしたように 目に映ったものが歪む君の住む街の番地さえ不思議な模様に
ここはかつて通り過ぎたシルシとして残る田園残像追いかけて奇妙なステップ Shall we dance?
仮版ではBメロの「悪戯なキツネが数字を盗む」からの流れで主人公が数字を見失う。
それが暁版ではジェリービーンズの比喩になって、より視覚的なフレーズになっている。
後半に出てくる「ここはかつて~」のくだりは、仮版では2番のサビの最初のフレーズだった。大胆に構成を変えてきているので、結構ビックリする。
ちなみに僕は「シルシとして残る田園」辺りの歌詞が変わるかもなとなんとなく思ってたが、不思議と印象に残るフレーズなので残っていてくれて嬉しい。
そして最後の「残像追いかけて奇妙なステップ Shall we dance?」は完全に書き下ろされた歌詞だ。残像は後述。
ところで最初聴いた時の「シャル、ウィー、デェーンス」に戸惑いを隠せなかった。
テーマの話に触れると、仮版はサビの前半は主人公、後半は世界に目が向いている(2番は短いので例外)。
一方で暁版では後半も主人公に焦点が当たっている。
この曲はアルバムに入っている"クラウド"にも少し通ずるところがあって、過去と今の変化についてを、情景と心情で描いている。
2番についてもAメロ~Bメロはそのままだ。腹ペコウサギ、かわいい。
(仮版)ここはかつて通り過ぎた シルシとして残る田園
まだ何も知らずにいれた僕の残像
(暁版)いつもより遠出をして 帰り道を見失ったあの日から寂しい夜を数え続けた You were mine
ここもサビがスライドしていて、仮版で大サビだった部分が2番にきている。
歌詞も少し変化していて、仮版では「帰り道が消えてしまい」だった。
けれど伝えたいことはそのままであると思う。
ここまで主人公の視点を丁寧に描いている。
そこで目に映るのは過去と今の変化。昔住んでいた町に久しぶりに帰り、景色の変化に時間の流れを感じる主人公の心情が情景と重なる。
かつてあったはずの道が消え、なかった道が増えている。
「遠出をして」というのは、幼い頃に体験した思い出であるとともに、遠くに行き久しぶりに帰ってきた自分でもあるダブルミーニングになっている。
ここで繋がるのは、最近放送されたNHKのSONGSでも描かれた因島とポルノグラフィティである。
しまなみロマンスポルノのMCで新藤晴一はこう言った。
新藤晴一「『ロックで食ってやる』なんてアホなことを言って東京に出てきたやつらしく"故郷は捨ててきた"なんて気持ちでいたんだけど。歳を取ると共に故郷が愛しく思えてきて。こうして地元に戻ってきた時に『おかえり』って言ってもらえる感じ、たまらないね。こうしてやれてきたのは、みんなが支えてくれたからで、感謝しかないです。これからも、どうぞよろしくお願いします」
改めて気づいた故郷への想い。
きっと変わったものも、変わらなかったものもあって。
それでも自分たちが因島から旅立ち、今に繋がって。その中で因島の魅力を知り移住したファンがいてくれたり、自分たちの後輩である学生たちへ音楽で想いを託したり。
そして今やメンバーにとってもファンにとっても、ポルノグラフィティという存在は、帰ってくる場所になっている。
それは同時にいつでも迎え入れてくれる存在でもあるということだ。
「残像」という言葉は"VS"における「あの少年」に通ずるものがあると思う。
だからこそ「You were mine」というフレーズが書き足されたのではないだろうか。
帰り道を見失うのは、帰る場所があるからなのである。
結構この時点で目頭が熱くなってしまう。
そして最後のサビへ。
続・ナンバーの歌詞
(仮版)いつものように遠出をして 帰り道が消えてしまい
あの日から寂しい夜を数え続ける
蟻が冬に備える頃 すぐに鳥も旅立つだろう
数えるのではなく欠けるの知っているの
(暁版)けれど花は雪を割って 熊はすぐに目覚めるだろう数えるのではなく満ちるのが合図 Everyone knows蟻が冬に備える頃 すぐに鳥も飛び立つだろう数えるのではなく欠けるのが合図 Life goes on
暁版ではサビの歌詞構成が大きく変化して、仮版で1番のサビ後半に出てきた情景描写が最後にまとめてくる。
正直なところ、最初暁版を聴いた時にそこに戸惑ってしまったんだけど、ここまで文章にしてきて色々と腑に落ちた。
2番まで丁寧に自分の心情と向き合ったからこそ、そこから見える景色が、また違って映るのだ。
ライヴで聴いた時の印象として「数える」ということについてずっと考えていて。レポにも書いたけど、"何度も"で描かれた数える描写へのアンサーにも聴こえていた。
具体的にいえば「じっと両手を見つめて 途中から数え直して どこで躓いたのか
確かめられたとしても 同じ痛みをなぞるだけなら」というフレーズがある。
熊や花が春を感じ自然に起き上がる、一方で人間は数字に振り回されて様々なものを見失う、そんな対比になっているように感じたのだ。
改めて暁版を聴いたときに、最後のサビではそれだけで終わらず、更に一歩深くメッセージを明確化させている。
僕らは欠けながら、生きていく。
それこそがツアーだけでなく、僕ら全てにとっての「続」、続いていくことだ。
降り積もる雪の下 閉ざされた世界でどんな夢を見ているのだろう春には氷を割って 新しい景色に出あう光あふる~"フラワー"
時は過ぎ、季節はきっと巡る。
"証言"の主人公のように、凍てついて季節が巡ることを信じられなかったとしても。
いつの日かきっと、遠くに行った鳥たちは巣に戻り、新しい季節を迎える準備をはじめる。
コロナ禍という先の見えない時代のなかで。
ポルノグラフィティがもたらす微かに、でも確かに見える一筋の光。
それこそが確かな暁なのである。
指折り数えて待ち侘びた名盤を聴きながら。
僕はそう信じている。
彼らは「Life goes on」と歌ってくれているのだから。
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